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3 相模ダムの建設


『相模川』

 神奈川新聞社編・発行『相模川』(昭和33年)は、相模ダム建設の社会的背景とその過程を描き、津久井町ダム史編集委員会編『津久井町ダム史』(津久井町・昭和61年)は、相模ダムをはじめ、その後建設される城山ダム、宮ケ瀬ダムがどのように津久井町と関連し、影響を受けてきたか豊富な資料によって言及している。

 昭和6年の満州事変に始まる戦時体制のなかで、京浜地方では重化学工業が軍需の増大で飛躍的に増え、内陸部の相模原では軍都の建設が進み、大量の水と電気が必要となった時代である。一方、神奈川県の人口は昭和元年 143万人、昭和5年 162万人、昭和10年 184万人、昭和15年 218万人、昭和19年 247万人と増加している。


『津久井町ダム史』

 前掲書『相模川』『津久井町ダム史』の2書から相模ダム建設を追ってみる。昭和13年臨時神奈川県議会において、相模ダム建設等の計画が議決されるが、この事業に水没する 136世帯(神奈川県 114世帯、山梨県22世帯)の強い反対も強権発動ともいえる圧力で押し切られ昭和15年11月に補償調印がなされた、とある。ダム反対について、勝瀬地区の人々にあきらめを与えたのは結局、時代であり、戦争であったという。

「それが極端に現れたのは陸海軍将星の相模川べりのデモである。与瀬町に集まった将軍たち荒木貞夫、杉山元、小磯國昭という飛ぶ鳥を落とす陸軍の将星に加わり、勝瀬地区を中心に陸海合同の観兵式をあげたわけである。−これは人々の肝をつぶす示威であった」


相模ダム

 昭和15年11月起工式が行われたが、物資不足に悩まされ、労力は横浜商工、平塚農業、愛甲農学校の学徒動員、地元動員、 350名の朝鮮の人、 287名の中国人の捕虜も就労、この工事に延べ 360万人の労力が投下された。相模湖畔の供養塔に56名にのぼる工事殉職者名が刻まれている。
 昭和18年12月津久井発電所が一部運転を開始、昭和20年6月、軍需次官から「戦局の情勢にかんがみ・・・おって何分の指示あるまでその工事を停止し、他に流用可能の設備、資料等はすみやかに適当整理相なし」との「水力発電所の建設工事停止に関する件通牒」が出され、工事を中止。21年工事を再開し、22年6 月に相模ダムが完成した。東京都の小河内ダム建設と同様に戦争の影響を受けたダムであった。

 この工事に主要な資材は鋼材5480トン、鋼索21万2000kg、セメント 251万1370袋で、昭和13年〜24年にわたる工事費は2億7119万円を要している。
 相模ダム(相模湖)の諸元は堤高58.4m、堤頂長 196.0m、堤体積17.4万m3、総貯水容量 6,320万m3、有効貯水量 4,820万m3、重力式コンクリートダムで、起業者は神奈川県、施工者は・熊谷組である。戦争という難局を乗り越えて神奈川県における洪水調節不特定用水、灌漑用水、水道用水、工業用水、発電用水を目的とした本格的な多目的ダムがここに誕生した。相模ダムは戦後の経済復興に大きな役割を果たすこととなった。

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