[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


8.川原ダム(小丸川)の建設

 武者小路実篤(明治18年〜昭和51年)という作家を知る人は少なくなってきた。昭和26年文化勲章を授与されている。「友情」、「その妹」、「愛と死」、「人間萬歳」、「お目出たき人」、「愛と人生」の作品には、人生を前向きに捉え、博愛主義、人道主義を貫いて、人と自然が共に生きる喜びを描く。それは自然と社会と人間との大調和が可能だという理想的な考え方であった。このような理念はロシアの作家トルストイの人道主義の影響を受けている。実篤はこの理念を実現するために、桃源郷を求め「新しき村」を大正7年宮崎県児湯郡木城村石河内字城、続いて昭和13年埼玉県入間郡毛呂町大字葛貫下中尾の地に創立した。

 新しき村は、共同生活の中で、義務労働(8時間労働、のちに6時間)をして、農業を中心とした作業を行い、それ以外は自由時間として各自が文学や美術などに親しみ、個性を伸ばす理想郷の世界であった。

 日向の新しき村は、小丸川右岸沿いの土地 6.5ha、耕地はわずかな畑、山林、原野に子供を含めた18人が入居。当時ここへ行くには橋がなく、舟で渡っている。先ず、麦や野菜の種まきから始まり、開墾、住居造りも共同作業を行った。実篤は、この新しき村の選定理由について、日向という名が気に入り、冬も働ける、天孫降臨日本発祥の地であったことをあげている。

 小丸川は、その源を宮崎県椎葉村三方岳に発し、東へ流れ、南郷村、東郷村を流下し、木城町南端で平地部に出て、高鍋町で日向灘に注ぐ延長75km、流域面積 474km2の一級河川である。小丸川は比較的急峻なために電源開発に適している。
 宮崎県企業局総務課編・発行『宮崎県企業局五十年史』(平成3年)によれば、昭和13年宮崎県施行小丸川河水統制事業浜口ダム(現・川原ダム)が着工し、15年に完成したとある。ところが、この水力発電用川原ダムの事業用地に、新しき村の土地が水没することとなった。


『宮崎県企業局五十年史』
 このとき、実篤との用地補償交渉にあたったのは、宮崎県土木課の若い事務官、上城という人であった。上城は現場近くの集落に下宿し、「弁当」を下げて日参した。晴れのときは実篤が畑に居るときは黙って耕作を手伝い、雨が降れば薪を割ったりして、下男代わりの仕事に従事して一事も用地の話はしなかった。それが、相当続いたある日、座敷に上げられ、実篤は黙って土地売買契約書に判を押したという。(『公共事業と基本的人権』 (帝国地方行政学会・昭和47年) )。昭和13年実篤は、この補償金3000円でもって、埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫下中尾に土地を購入し、理想郷「東の新しき村」を創った。

 川原ダムの諸元は、堤高23.6m、堤頂長 150m、堤体積 3.4万m3、総貯水容量 322万m3、最大出力 21600KW、形式は動力式コンクリートダム、施工者は(株)熊谷組である。なお、川原ダムは平成5年1月に再開発されている。

 昭和12年日中戦争が始まり、生産増強のために資金、資材の国家総動員法に基づく電力管理法の制定、翌14年には日本発送電(株)が発足し、電力も統制された。

『宮崎県電気復元運動史』

 宮崎県の手によって完成した川原ダムは、昭和16年日本発送電(株)に強制接収された。戦後、川原ダムなど宮崎県へ復元運動が始まった。昭和21年電力確保期成同盟が結成され、26年川原ダムは9電力再編成に基づき、九州電力(株)に移った。昭和34年九州電力(株)は川原、石河内第二発電所両発電所の補償額3億円、事業協力費2億円、計5億円を宮崎県に支払うことで解決した。この経過については、宮崎県電気復元運動史編纂委員会編『宮崎県電気復元運動史』(宮崎県電気事業復元運動本部・昭和38年)に詳しく述べられている。
 繰り返すが、戦前、小丸川河水統制事業の一環として宮崎県施行の川原ダムは、武者小路実篤との用地補償交渉を経て、戦時中、物資不足を克服し、苦難の末に完成するが、間もなく、日本発送電(株)へ強制接収され、さらに戦後は九州電力(株)に移転する。そこには、ダムもまた人間と同様に、戦争という時代に流された宿命的なものを感じる。

 なお、小丸川は上流から階段状に、鬼神野取水ダム、渡川ダム、松尾ダム、戸崎ダム、川原ダムと建設された。現在、この川原ダムの約8km上流に、九州電力(株)による石河内ダム(下池)がほぼ完成し、大瀬内ダムを上池として揚水発電(最大出力 120万KW)を行う。


[次ページ] [目次に戻る]
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]