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2003年7月9日、日本映画の大スター、石原裕次郎の17回忌法要がまき子夫人や兄の石原慎太郎東京都知事、俳優渡哲也など関係者約400人が出席して、東京都港区のホテルで営まれた。石原都知事は「戦後日本が最も期待に満ちた時代に、弟が新しい青春像を演じることができたのは幸せだった」と話したという。
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裕次郎が情熱を注いだ「黒部の太陽」
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石原裕次郎といえば、映画「黒部の太陽」が思い起こされる。裕次郎は数多くの映画に出演しているが、「黒部の太陽」は、その中でも裕次郎が最も情熱を注いで製作した、裕次郎にとって特別の意味を持つ映画であった。 「人生を振り返ってみれば、どれもこれも一生の思い出だけど、その中でも、 (やっぱりあのときは) と、思うのは、やはり『黒部の太陽』だな。」 (末尾の参考文献1より引用) 裕次郎は自ら、生涯で第1番の映画だと語っている。それはなぜか。
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スター石原裕次郎の誕生
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裕次郎は、「太陽の季節」(1956年)で映画界にデビューする。「太陽の季節」は、兄・慎太郎が一橋大学在学中に書き、芥川賞を受賞した小説を、日活が映画化したもの。裕次郎は兄の勧めで、気楽な気持ちで映画「太陽の季節」に脇役で出ることになり、わずかなシーンにしか出演しなかったが、長門裕之、南田洋子らの出演俳優の中でも、誰よりも目立った存在であったという。映画は大ヒットした。当時20才、慶応大学3年に在学中であった。 日活は裕次郎の本格的な主演作を準備。それが、北原三枝との共演となった「狂った果実」(1956年)で、実質的なデビュー作である。ここに、スター石原裕次郎が誕生する。
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大スターへの道を歩む
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日活は、裕次郎の人気に乗って次々と主演作を製作していく。「俺は待ってるぜ」(1957年)、「嵐を呼ぶ男」(1957年)、「錆びたナイフ」(1958年)、「陽のあたる坂道」(1958年)、「風速40米」(1958年)など、数え上げたらきりがない。1959年には、年間9本という驚くべきペースだった。そしてそれが全てヒットしたという。大スターへの道をまっしぐらに歩んでいたかに見えるが、一方では裕次郎にすれば、日活の営業方針に沿ってお仕着せの規格に耐え、オーバースケジュールに耐え、そしてスター故の不自由さに耐えていたのかもしれない。
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「五社協定」という怪物
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当時は、映画が最大の娯楽であった。日活は、1953年に映画製作を正式に再開する。そのころ、既存の映画会社は、松竹、東宝、大映、東映、新東宝の5社あったが、日活は再開に備え、これら既存の各社から監督や製作スタッフを引き抜くような動きをしていた。既存五社のトップは集まって、日活の動きを牽制しようとした。これが、「五社協定」と呼ばれるものの始まりだという。 その後、新東宝が解散し、日活を加えた新たな五社が、申し合わせを行うなどして、スターたちの自由を封じ込める機能を果たすようになり、映画俳優たちに恐れられた。五社協定の最初の犠牲者は山本富士子だといわれる。大映の起用方法に不満を持ち、1963年の契約更改を巡って大映と話し合いが決裂、ついに五社の映画から追放されてしまう。「五社協定」という姿なき怪物の出現である。裕次郎はスターの自由を取り戻すべく、その怪物と果敢に戦うことになる。
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「石原プロモーション」を設立
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1962年12月28日、28才の誕生日に、裕次郎は帝国ホテルで会見して独立プロ設立宣言を行う。突然の出来事であったが、これによって翌63年1月に「石原プロモーション」が設立された。会見の席上後見人的立場で同席した兄の慎太郎は「来る日も来る日も会社のお仕着せ企画で、演りたいものもできないのでは、男子の本懐が立つまい」という趣旨のことを話したという。また、後に自らも、 「(映画を自分で作れないか) という気持ちは以前からあったんだ。 閉鎖的な日本の映画界に、ついていけない部分があったからね。」 (末尾の参考文献1より引用) と語っている。 石原プロの第1回作品は、若干20才の堀江謙一青年が単身ヨットで太平洋を横断して一躍ヒーローとなった、その実録を映画化した「太平洋ひとりぼっち」(1963年)であった。日活との共同製作であり、芸術大賞を受賞するなど評価は高かったが、興行的には余り成功とはいえなかった。
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三船敏郎と組んで「黒部の太陽」の映画化に挑戦
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その後裕次郎は、世界にも知られた大スター、三船敏郎との共演を企図する。三船もまた、「三船プロダクション」という独立プロを設立していた。1964年の秋、二人は突然記者会見して、ともに映画を作ると発表した。夢の共演が実現するかに見えたが、実現までの道のりは長かった。日活がOKを出さなかったからともいわれる。それでもあきらめずについに、1966年11月、二人は再び記者会見をする。石原プロ、三船プロは共同で、毎日新聞に連載された木本正次原作「黒部の太陽」を映画化すると。 「黒部の太陽」は、当時の国家的な大事業であった黒部峡谷のダム建設を扱った壮大なドラマ。映画化には莫大な費用が予想され、大手映画会社が組んでも手を出せないほどのスケールの大きな物語であった。裕次郎にとっては、勝負をかけての挑戦であった。 「やりますよ、俺は・・・。 五社協定にかけられようが、映画界を追放されてもいい。 俺はこの”黒部の太陽”だけはやって見せますよ」 (末尾の参考文献1より引用) と、裕次郎は語り、三船もまた、 「分かった。俺もやる。 裕ちゃんにだけ迷惑はかけない!」 (同) と答えたという。こうして二人の共演が実現し、そして撮影が始まった。
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あれは本物の事故
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「黒部の太陽」製作の最大のポイントは、関電トンネル掘削現場の再現であった。このため愛知県豊川市の熊谷組工場の敷地の中に、鉄骨を組んで200m以上の長さの地上トンネルが作られた。内部は実物大のトンネルで、岩石などは全て本物を黒部から運んだ。 掘削中に大破砕帯に遭遇し、大出水が起きる。これを迫力ある映像で表現できるかが映画の成功を左右する。出水シーンのために、セットの切羽の外側に420トンの水を貯めた水槽を設置し、その水を切羽の壁の外側部分に流し込み、その水圧で一気に壁をぶち破ってセット内に水があふれるような仕掛けになっていた。 撮影は真夏、内部は40度を超える猛暑の中で行われた。監督の声が響き、水槽の栓が抜かれ、壁の外に水が次第に貯まり始める。すぐにも水圧で壁が破れ、大出水が始まるはずであった。ところが、水圧が上がっても壁が破れず、水が来ない。まだ来ない。・・・静まりかえったそのとき、突然の「ドカンッ」という大音響とともに水が突出してきた。裕次郎も、三船も、周りの俳優も、思わず我を忘れて必死の形相で逃げ出した。 後に映画が完成して、試写会に皇太子殿下が来られたとき、裕次郎に「あれは、どういうふうに撮影されたんですか」と質問をされた。裕次郎は、「あれは本物の事故を撮ったんです」と答えたという。 大事故で、一瞬死者が出たのではないかと思わせたほどであったが、幸いにも多少のけががあった程度ですんだ。まさに奇跡、あの迫力ある出水シーンは、神が作ったのかもしれない。
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素直に讃えあいたい
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こうして撮影は終わり、1968年2月、「黒部の太陽」は公開された。結果はもちろん大成功であった。 裕次郎は語る。 「 五社の圧力と苦闘し、撮影では九死に一生を得た。 そして興業も大成功を納めた。 ・・・(中略)『黒部の太陽』を大成功させたことで、三船さんと僕は、 ”五社体制”という映画界の古い体質を改革し、前途に明るい灯火を つけたという自負がある。そういう意味で共に苦労した甲斐があったと思う。 もし”黒部”が成功していなかったら、今日の映画界はなかったかも しれない。三船さんと僕が映画界の将来を考え、強引に推し進めた勇気は、 お互い、素直に讃えあいたいと思っている。」 (末尾の参考文献1より引用)
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裕次郎の映画は、「黒部の太陽」、そしてその少し後に「栄光への5000キロ」(1969年)が続く。このころが石原裕次郎が最も光り輝いていた時期であった。それから後は、石原プロ製作の映画は大きな成功をおさめることはなかったし、それどころか日本映画自体が衰退の道を歩むことになる。 そしてこのころ、ダムもまた光り輝いていたのかもしれない。
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(参考文献) 本稿を書くに当たり、次の文献を全面的に参考にしました。
1.石原裕次郎著、石原まき子監修「口伝 我が人生の辞」2003.7.17 株式会社主婦と生活社 2.川野泰彦「石原裕次郎 男の世界」1999.7.2 フットワーク出版株式会社 |
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(映画「黒部の太陽」メモ)
製作:三船プロダクション・石原プロモーション 配給:日活 公開:1968.2.17
企画:中井景 監督:熊井啓 脚本:井手雅人、熊井啓 原作:木本正次 音楽:黛敏郎
主な出演: 北川(黒四建設事務所次長) 三船敏郎 岩岡(熊谷組岩岡班) 石原裕次郎 太田垣(関西電力社長) 滝沢修 芦原(関西電力常務取締役) 志村喬 平田(関西電力黒四建設事務所長) 佐野周二 源三(岩岡の父) 辰巳柳太郎 森(佐藤工業社員) 宇野重吉 賢一(佐藤工業社員・森の長男) 寺尾聡 小田切(佐藤工業工事課長) 二谷英明 黒崎(黒四建設事務所建設部部長) 芦田伸介 加代(北川の妻) 高峰三枝子 由紀(北川の長女) 樫山文枝 牧子(北川の次女) 日色ともゑ きく(森の妻) 北林谷栄 |
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[関連ダム]
黒部ダム
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(2003年8月作成)
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