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最近ご縁あって、「黒部の太陽」を鑑賞する機会がありました。昭和四十年代の前半(1960年代の後半)に、大ヒットし、八百万人と言う膨大な数の観客が見た映画です。フィルムが古く、当時で言う総天然色と言いながら、白黒映画とあまり変わらないほど色あせ、音も聞き取りにくいものでございましたが、作品の迫力は十分に味わうことが出来ました。
また、二部から成る、この3時間15分の大作の映画監督であった熊井啓氏の著作「黒部の太陽 ミフネと裕次郎」が本年、世に出ていて、拝読することが出来ました。この作品に始めから終わりまで関わった四人の内、俳優の石原裕次郎と三船敏郎、中井景プロデューサーのお三方は既に、この世に亡く、熊井監督のみが生存される中、自ら、この作品のことを書き残す事を義務と思われるようになったゆえ、著されたとのことです。
映画鑑賞とこの著作拝読の結果、私には、この作品が、十分現代的意義を有するように思われました。現に、黒四の大事業については、最近のNHKのプロジェクトXで取り上げられましたし、その主題歌「地上の星」を歌手の中島みゆきが、平成14年(2002年)の紅白歌合戦で、黒四の現地で熱唱し、大変、評判になったとのことです。
それでは、この映画を中心として、その現代的意義と思われることを軸に記します。
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大作「黒部の太陽」の意義:二つの破砕帯
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木本正次の原作を映画化した、この作品は、大きく言って、二つの意義を有するように思います。
その一つは、関西電力の黒部第四発電所(黒四)の建設の中で、最大の難工事と言われた、大町ルートのトンネル掘削で、七ヶ月の艱難辛苦の末、漸く突破出来た「破砕帯」との戦いを中心に据えて、映画を作る事に成功したことでしょう。 あまりの難工事ゆえ、映画等にすることは不可能とも言われていたものを、後述するような尋常ならざる苦労と撮影事故をも乗り越え、映像にすることが出来たと申します。
それは、そもそも、実際に破砕帯にぶつかり、難渋しつつも創意工夫と資金・機械力・人力の投入により、遂に、それを突き破った工事の実績があるからです。
このトンネルの貫通が無ければ黒四は実現出来なかったと言われ、それは破砕帯という厳しい自然の克服であったと言って良いかもしれません。自然は大きく、人間もその中に包み込まれる存在ですから、それと戦い、克服するなどというのは部分に止まりますが、そうした側面があることは確かですね。
もう一つは、映画界の五社協定(六社協定ともなった)という、人為的な破砕帯との闘いです。これは、熊井監督自身が著作の中で「この作品は破砕帯を突き破って黒四ダムを完成させる話だが、思いがけないところに大きな破砕帯があったわけだ。」と記されていることでも分かります。
五社協定とは、仄聞するところによれば、東宝、新東宝、大映、東映、松竹と言う大手の映画会社が、「俳優や監督などは、各社が各々責任をもって養成し、確保すべきもので、お互いに、他社の人を引き抜きなどしない」と言う趣旨のものであったと言われ、当時、厳然と生きていたと聞きます。本音の言い方をすれば、「お金と手間ひま掛けて育てた人材を他に持って行かれては割に合いません」と言うことのようです。その後、日活が加わり、六社協定になったと言われますが、実際、女優の山本富士子のように、これで、はじかれて映画界から離れ、舞台に移った人もいるとのことです。
これに対し、「黒部の太陽」は、三船敏郎という東宝の人気俳優と石原裕次郎と言う日活の看板スターが共演し、おまけに日活の熊井監督が解雇されてまで脚本や監督を担当すると言う分けですから、この協定に、まともにぶつかるものでした。かくして、大問題となり、報道をにぎわし、返ってPR効果を大きくしたと申します。
確かに、この映画の冒頭には、制作側として、三船プロダクションや石原プロモーションの名前は出てきますが、大映画会社のいずれも出て参りません。長期に渡る難航と妨害等の末、日活や東宝と程々の妥協が成立し、制作・上映に漕ぎ着けたようですが、それは、もう一つの破砕帯と形容しても良い障壁であったわけです。
それは、必要な新事業や改革を行うに当たって、克服すべき障害や課題が在ることに類するのかもしれません。 「黒部の太陽」の制作・上映の現代的意義の一つを、ここに見ることが出来ます。
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石原裕次郎が語る破砕帯の怖さ
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石原裕次郎は、この映画の中で、発足後まだ五年の関西電力が、社運を賭けて取り組む黒部第四発電所の建設工事の中で、五つに分けられた工区のうち、大町トンネルの第三工区を請け負う熊谷組下請けの岩岡班(実名は笹島建設)の現場責任者として登場します。 物語では、直ぐそうなるわけではなく、まずは、労務者に厳しい、自分の父親(辰巳柳太郎が演じる源三と言う男)が、その仕事を担うことに異議をもち、反対する役回りで現れ、事態が進む内、この仕事の当事者となって行きます。
この裕次郎が、映画の始めの頃、京大の工学部を出た技術屋として、父源三に「図面屋」とこき下ろされながらも、破砕帯の怖さを説き、この工事に慎重な意見を開陳します。
その場面では、割り箸を折りながら、「日本列島はこのように、フォッサ・マグナ(糸魚川・静岡構造線)で折れていて、ここから東と西では地質構造ががらりと違います。この線の直ぐ近くを通っている黒部川流域地帯には、どんな大きな断層や破砕帯がひそんでいるか分かりません。」と警鐘をならすのです。アクションスター「裕次郎」のイメージが変わる知的な役回りです。確かに、私どもも学校で習ったように、この構造線の東では、日本列島は、[)]の円弧を描き、西では「(」の円弧を描いていて、折れ曲がっていることが良く分かります。
軟弱で崩壊と大出水を繰り返し、七ヶ月もの難工事を強いた破砕帯は、このフォッサ・マグナと深く関連すると言う分けです。
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三船敏郎は、関西電力の現場事務所の責任者
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昭和31年5月末、三船敏郎演ずる北川(モデルは関電の芳賀さんと申します)は、黒四の建設事務所の次長の辞令を受け、全五工区の内の第一から第三まで受け持つこととなります。この中の第三工区は、くだんの大町トンネルです。
だが、三船敏郎演じる北川次長は、一旦、「自分はこの任でない」とこの職務を辞退しようとします。やがて、関電社長の太田垣士郎自身(滝澤修が演じる)に説得され、就任を受け入れます。このときの滝澤修演じる太田垣社長のセリフが、当時の電力事情を良く物語っています。
その頃、電力・石炭・鉄鋼・海運の四分野に重点を置いた戦後復興が漸く軌道に乗り始め、電力の需要が益々大きくなる中、関電でも更なる電源開発が急務となっていました。火主水従の声も出始めている中、滝澤修演じる社長は、「火力が主になりつつある電力を、柔軟性ある水力発電で、ビークをカバーして、供給を安定させなきゃならない。とすると、どうしても調整能力の大きい、巨大なダムが必要だ。・・・」と言い、黒四が、それに先立つ黒部の各発電所の次に構想され、十分調査されて来たこと、そして、黒部が過酷な自然の恐ろしい所ながら、それを克服し、開発するしか無いことを語ります。
当時、百三十億の資本金の関電が四百億の大工事をやると言うことですから、並大抵の決心でなかったと申します。社運を賭した関電は、このため、世界銀行から借金しています。
そして、話は飛びますが、この黒四始め、黒部川、木曽川などの水力の開発により、関電は水力発電のウェィトの大きい会社として知られています。ちなみに、東電と関電の電力全体の供給力は、今日、大体2対1ですが、その内で、水力の能力は、両者ほぼ均等なのです。
ところで、この映画には、男女の恋が盛り込まれています。三船演じる、関電の北川次長の娘の一人由紀(樫山文枝が演じる)と裕次郎演じる岩岡青年のロマンス、そして結婚です。実際、こういう事はなかったようですから、フィクションですが、映画となると、このようなお話は、やはり要るようですね。
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破砕帯の大出水:撮影事故の発生
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昭和31年8月、大町トンネルの工事は始まり、順調に進みますが、翌32年4月に至り、次第に鈍り、間もなく、ほとんど進まなくなります。トンネルの奥では、異様な音が響き、支保工が崩れ、岩盤が下がってきます。破砕帯にぶつかったのです。やがて、5月1日、凄まじい轟音とともに大出水が起き、設備や資器材などもろとも、現場に居た人々は濁流で流されてしまいます。
映画では、この場面始めトンネル工事の様子を、日本でトンネル工事の第一人者をもって任ずる熊谷組の豊川機械工場で、トンネルなどの巨大なセットを造り、撮影しています。これを始めとして、この映画への関電、熊谷組など各社の協力は大変なものがありました。映画制作に要した費用は三億円台と記されていますが、各社の人的・物的など諸々の貢献・協力は並大抵のものではなく、金額に換算すれば十数億円に達したろうと言われています。
だが、この豊川工場で行われた撮影の中で、破砕帯の大出水の場面では、用意された水槽の水量が大きく、かつ、想定より遅れて水の山が崩れたため、巨大な濁流がトンネル・セットの中で発生、諸々の機材・丸太等と俳優・スタッフを押し流してしまいました。 二、三人死んだかもしれないと監督が思ったと言う撮影事故が起きたのです。 みんな演技でなく、実際逃げ出したと言い、このため、不幸中の幸いか、大変迫力ある映像が撮られました。上映された画面で、その事が良く分かります。 凄まじいシーンです。ノウハウや技術が進んだ昨今なら、CG等が使われるところでしょうが、当時はまさに命掛けであったのです。
この事故は、昭和42年の9月30日に起きました。救急車が出動、負傷者が病院に運ばれました。その一人が、石原裕次郎で、実際意識を失ったし、指の指紋は全部消え、右手親指を骨折、足を激しく痛めるなど、大怪我をしたのです。大変な映画となり、こうしたことでも、一段と世の関心を呼ぶようになったようです。
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ていねいな作りの映画
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その後、破砕帯は、新機械力の投入や工法上の工夫・努力などにより、凄まじい自然との格闘を行いつつ、当事者となった組織や人間の軋轢・葛藤を生みながら、昭和32年の12月に遂に突破されます。その長さは約83メートル、トンネル延長5.4キロメートルのうちの、極く短い部分でした。 そして、第一工区の間組の迎え掘りと相俟って、昭和33年2月、大町トンネルは貫通、その後、関電トンネルと呼ばれるようになります。バス・トラックが通れる大きなものです。
このあと、この大町トンネルの貫通等で、どんどん資器財、原材料等が運搬されるようになり、各工区はいろいろの苦労を伴いながらも進展し、ダムは完成、昭和36年1月、黒四の発電が開始され、その出力は全部発電に至って、25万8千キロワットに達しました。
一機の発電設備だけで百万キロワット級なのが普通になった今日の感覚からすれば、この数値は程ほどの見えますが、当時の国内の水力発電所としては、大変大きなものです。
さて、映画は、トンネル貫通の感動的な場面や、節目節目の大事なところをきっちりと撮り、作品に盛り込み、分かりやすく、かつ感動を味わえるものに仕上がっています。今日の映画では、テンポが速く、肝心な事が省略されていて、ついて行きにくい作品が多いのに対し、それらより親しみがもてる感じがしました。
例えば、発電所のタービンが高速で回転する場面、三船敏郎演ずる北川が退職後、現地を訪れ、苦労した破砕帯の所でバスを降り、歩いて行くシーン、巨大なダムの上で、171名の尊い犠牲者の碑の前で黙祷するところ、やがて、「お父さん」と言われ、裕次郎演じる岩岡と連れ添って行く辺りなどなど。
あの関電トンネルや黒四ダム、人造湖である黒部湖などが、その後、黒部・アルペンルートと言う観光コースとなり、今日も人気を博しているのですから、時代の進歩とは言え、感慨無量のものがこみ上げて参ります。
当事者でない私でも、昭和43年公開の、この映画を見てそう思いますから、当事者であった方々には、察するに余りあるものがあるに違いありません。
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[関連ダム]
黒部ダム
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(2005年11月作成)
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