|
1.はじめに
|
広島県福山市のアースダムである雨木池と三反田池は、ダム便覧2011の情報を抜粋すると次のように記載されていました。
雨木池[広島県](あめぎいけ) 所在地:広島県福山市 ダム事業者:広島県 竣工:1975年
三反田池[広島県](さんたんだいけ) 所在地:広島県福山市 ダム事業者:広島県 竣工:1987年
両ダムとも、位置情報の記載がない位置未確認ダムでした。さらに、所在地が「広島県福山市」にとどまり所在地町名も不明です。福山市には、「雨木町」や「三反田町」という町名も見当たりません。せめて、ダム事業者が、「○○土地改良区」などと記載されていれば、それを手掛かりにある程度の方向性を見出すことができるかもしれません。しかし、両者ともダム事業者が「広島県」となっていました。県の直営で行われた事業であったのです。
この2つのアースダムは、竣工年が比較的新しいアースダムです。福山市内のどこかに必ずしや、存在しているはずです。ただ、あまりにも材料が乏し過ぎました。 福山市は広島県東部に位置し、人口46万人(平成22年度国勢調査)を擁する大都市です。また、政令指定都市に準じた中核市の扱いを受けています。江戸時代、この地域一帯は、福山藩10万石の領地で初代藩主水野勝成が新田開発を積極的に行いました。このため、古くからの大小様々な溜池が現存しています。このような状況下で、「雨木池」と「三反田池」の所在地を確定させることは砂漠でダイヤモンドを見つけるようなものでした。
|
|
|
|
2.情報
|
ことの発端は、1枚のハガキからでした。知人から来たハガキは薄い灰色で印刷されたもので親族に不幸があったために新年のあいさつと年賀状は省くという喪中であることが記されていました。ハガキには「広島県福山市×××」と実家の住所も印刷されていていました。 ◇広島の出身であることは聞いていたが、福山だったのか…。
とある日、その人に何気なく福山市で「雨木」という地名があるかどうか尋ねてみると、 ◆それは、「雨木池」のあるところではないだろうか。 という答えが返ってきました。彼から「雨木池」という名前が出たことも驚きましたが、現実に「雨木池」は存在していたのです。
調べてみると、 『広島県福山市駅家町大字雨木』 という地名が実在していました。
さらに「三反田池」について尋ねてみると、 ◆その場所は知らないが、昔の仲間に聞いてみると恐らく誰か知っているだろう。 ということです。
彼の職業は普通のサラリーマンですが、趣味は「休日とあらば、釣りに行く」という人物でした。釣堀はもとより、海釣り・渓流釣りとおよそ「釣り」というものはあらゆる分野をこなすという人です。ブラックバスは、今日では特定外来生物として規制を受けるようになりましたが、数年前まではスポーツフィッシグの対象とされ一大ブームを築きました。
当時、この福山市郊外の多くの溜池にもブラックバスが放流され、「○○池で××センチのバスが上がった。」という情報や「○○池では、池の水抜きが行われた。」という情報が盛んに飛び交っていたそうです。
こうして、「雨木池」と「三反田池」と呼ばれるアースダムの位置情報を得ることができました。
それぞれ、 雨木池:北緯34度35分18秒、東経133度18分28秒 三反田池:北緯34度35分07秒、東経132度24分08秒 付近に位置する堤体であるということになります。
入手できた限りの地図には名称が記載されていませんでした。一抹の不安として、これらの名称は釣人(バザー)間の通称であり、正しい名前ではないとも考えられることでした。しかし、少なくとも「雨木池」については所在地名から、ある程度の確信が持てます。雲をつかむような状況の中で、貴重な情報源に違いありません。
バザーの間で「雨木池」「三反田池」と呼ばれている池が、果してダム便覧記載の堤体を有しているかどうか、今回これを確認することが私の使命と考え現地に行くことにしました。
|
|
|
|
4.三反田池
|
三反田池については、バザー同士がそのように呼び合っているだけで地名的な裏付けはありません。あくまでも"ダメ元"で行く覚悟で、教えていただいた場所に到着しました。一応、15m程度の堤高は確認できます。(ダム便覧では、H=17.5m)天端は、自動車の通行は不可能です。また、ススキが生い茂り徒歩での通行も難しい状況です。下流直下にはコンクリートで造られた調節池のような構造物がありました。三反田池との直接的な関係はないようです。
|
|
|
堤体下流面 |
|
|
|
周囲を見渡すと、道路を隔てた左岸に石碑が2つあることが確認できました。石碑には「三反田池」の文字が刻まれています。バザーの情報は正確でした。
|
|
|
|
|
石碑の1つは、昭和16年の「改修工事記念碑」で、もう1つは昭和51年の「改修記念碑」でした。前者から判断すると、初代の三反田池は相当古い年代に築造されていたことになります。
|
|
|
三反田池改修工事記念碑(昭和16年4月竣工) |
|
|
|
|
|
|
三反田池改修記念碑(昭和49年10月起工・昭和51年3月竣工) |
|
|
|
ダム便覧では、三反田池の竣工が1975年(昭和50年)となっていますが、この「1975年」もまた大規模改修工事の完了年と理解しなければなりません。石碑に刻まれた年号とは少し違いがありますが、この誤差は問題のない範囲です。
三反田池も長年にわたり少しずつメンテナンスを受けながら大切に使用されてきた農業用アースダムであったのです。
|
|
|
三反田池上流面 |
|
|
|
三反田池右岸には『堺』という一文字が刻まれた岩がありました。
|
|
|
堺岩 |
|
|
|
この「堺岩」と三反田池の関係はつまびらかではありませんが、現地には次のような内容の説明板が設置されていました。(説明板は急斜面に設置され、さらに下半分は草で覆われていたため全体を撮影することができませんでした。)
|
|
|
説明板 |
|
|
|
「堺岩」の由来 この「堺岩」は、明治8年12月1日に刻字されたものであります。 江戸時代は、山も田圃もみんな封建領主のものでありました。 それでも、食物を煮炊きする薪、米や麦を生産するのに必要な堆肥づくりのための下草刈り、天露を凌いで住む小屋がけの家づくりの僅かな木材や、ワラビ、ゼンマイ、イタドリなどの山菜採りなどには、山の一部分を使用させていました。 このような山を「野山(のさん)」あるいは「入会山(いりあいやま)」と呼んでいました。 農民にとって山は命そのもので、生活に欠かすことのできない本当に大切なものでありました。 時代は流れ封建領主の徳川幕府は倒れ、1867年(慶應3)大政奉還があり、封建時代は終わりを告げた。 1869(明治2)版籍奉還〜土地は封建領主の手から離れ、すべて国有。 1870(明治3)上和命令〜土地はすべて国有となる。 1872(明治5)太政官布告第50号 土地の私有権を認める。 〃 〃 大蔵省達第25号 地券渡方規則定める。 1873(明治6)太政官布告第114号 地所名称区分によって官有地、民有地の区分が明確になった。当時はまた地方自治制度はない。 1874(明治7)太政官布告120号 地所名称区別改正 1875(明治8・10・9)太政官布告154号 地所名称区別改正で漸く官民区別が確立
このような経過をたどり「上御領村持」の山になり、自分たちのテリトリーを雄叫びのように主張したものと思われる。当時の農民たちの爆発的なエネルギーを感じる。 神辺町教育委員会 上・下生産森林組合
|
|
|
|
|
・・・→
全文はこちら
|