6 三保ダムの建設
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三保ダム
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酒匂川はその源を富士山東麓に発し、鮎沢川と呼ばれ西部に入って酒匂川となり、足柄上郡山北町小西付近で西丹沢塊から流入する河内川を合わせ、南流し、その後足柄平野を流下し、小田原市飯泉付近で箱根外輪山から流入する狩川を合わせ、小田原市酒匂地点で相模湾に注ぐ、延長46km、流域面積 582km2の2級河川である。河川の利用としては、農業用水、東京電力による発電、小田原市等都市用水の供給が行われ、神奈川県西湘地域の産業、経済の基盤をなしている。
三保ダム(丹沢湖)は、酒匂川総合開発事業の一環として、酒匂川水系河内川の山北町神尾田字尾崎地点に昭和53年4月に完成した。城山ダム完成から13年後である。前述したように、この間、神奈川県の人口は 443万人から 670万人の増加をたどり、この事業は神奈川県の水需要増大に対応するためといっても過言ではなく、ダム完成前の昭和44年5月神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市の4者を構成団体とする神奈川県内広域水道企業団が設立されている。
三保ダムの目的は、ダム地点の計画高水流量2100m3/Sのうち、 850m3/Sの洪水調節を行って下流域の安全を高め、農業用水の安定供給を図るとともに、ダム直下の発電所にて最大出力 700Kwの発電をおこし、さらに県内水資源確保のための都市用水として最大 20.95m3/Sを新規開発し、飯泉地点から取水を行うものである。
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『丹沢湖』
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ダムの諸元は、堤高95m、堤頂長 587.7m、堤体積 581.6万m3、総貯水容量 6,490万m3、有効貯水量 5,450万m3、型式ロックフィルダム、事業費 823.6億円、起業者は神奈川県、施工者は鹿島建設(株)である。なお、水没移転家屋は 223世帯であるが、山北町、中井町、南足柄市、伊勢原市等に移転している。
この三保ダム建設の記録として、神奈川新聞社編・発行『丹沢湖』(昭和53年)、神奈川県企業庁編・発行『三保ダム建設工事誌』(昭和56年)が刊行されている。 三保ダムの建設の経過について、昭和44年7月酒匂川総合開発調査事務所が設置され、昭和46年11月補償要綱が調印された。ところが、昭和47年7月西丹沢一帯に、3時間に 300mmの集中豪雨が襲い7名の尊い人命を喪い、24戸の家屋全壊流出させた。逆に、この災害がダム建設を促進させ、昭和48年12月「補償基準書」が調印された。
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『三保ダム建設工事誌』
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一方、工事は、昭和49年5月起工式が行われ、迂回道路に着手し、昭和50年10月河内川の転流を開始した。最初、三保ダムは重力式コンクリートダムで設計されていたが、右岸半島部の地形、地質の条件が悪く、技術的、経済的なことから検討され、半島部の屋根上流面、すなわち貯水池に面する側に土質しゃ水壁型のロックフィルダムを築造するように変更となった。三保ダムは地震対策に、ロックフィルダム最大の地盤震度 0.2を採用し、ダムのり面を緩くし、ダム天端を広くし、ダム内外に 100個以上に及ぶ各種の観測器を設置し、ダムの挙動に対し万全を期している。なお、関連施設として、田ノ入発電所、飯泉取水堰、沈砂池、導水トンネル、浄化施設が建設された。
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