5.宇治川(淀川水系)−天ケ瀬ダムの建設
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宇治川は、その源を琵琶湖に発し、鳥居川付近より瀬田川と呼称され、南郷付近において大戸川と合流し、鹿跳に至って、大石川、信楽川を集め、滋賀県から京都府に入って宇治川となる。さらに天ケ瀬ダム建設によって水没した大峰ダム(大正13年完成、堤高31.2m、堤頂長91.3m、28,000KW)を下り、宇治川に至り、山城盆地を流下して八幡市に至る。この地点において淀川本流となり、大阪平野を流下して大阪湾に注ぐ。この天ケ瀬ダムの建設計画は、昭和22年河川総合開発審議会に発足と同時に、淀川の洪水防御と近畿地方の電力需要に対処するためにとりあげられ、27年まで琵琶湖開発に関する調査と併行して、調査が実施された。
その後、由良川の大野ダム建設に大きな影響を及ぼした昭和28年台風13号による出水は、淀川にも未曾有の大水害をもたらした。淀川本川計画高水流量 6,950m3/sを上廻る 8,650m3/s(推定)を記録した。これを契機として淀川水系の治水計画を抜本的に改訂することとなり、昭和29年12月河川審議会において、琵琶湖の南郷洗堰、天ケ瀬ダム、後述する高山ダムによる洪水調節を根幹とする淀川水系基本計画が決定され、天ケ瀬ダムの建設が始まった。 なお、現在、枚方基準地点における淀川の基本高水のピーク流量17,000m3/s、洪水調節施設による調節流量 5,000m3/s、河道への配分流量12,000m3/sに改定されている。
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『天ケ瀬ダム建設誌』
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紆余曲折10年を経て昭和39年天ケ瀬ダムは、右岸京都府宇治市愼島町槇尾山、左岸同町六石地点に、淀川水系では初の本格的な多目的ダムとして完成した。この建設記録について、天ケ瀬ダム建設誌編集委員会編『天ケ瀬ダム建設誌』(近畿地方建設局・昭和41年)がある。
この書によれば、ダムの目的は ・天ケ瀬ダム建設地点における計画高水流量 1,360m3/sを 220m3/sに調節し、淀川三川合流点における計画高水流量に対する宇治川の合流量を 260m3/sに低減する。 ・宇治市、城陽町、久御山町、八幡町に対する上水道として最大 0.3m3/s、平均 0.197m3/sを供給する。 ・天ケ瀬発電所において最大出力92,000KWの発電を行うこととなり、大峰ダムが水没し、旧志津川発電所は廃止となった。
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ダムの諸元は、堤高73m、堤頂長 254m、堤体積12.2万m3、総貯水容量 2,628万m3で、型式はアーチダムである。起業者は建設省(国土交通省)、施工者は(株)大林組、事業費 66.68億円である。
なお、補償関係は、移転家屋数 149世帯、用地取得面積 170ha、特殊補償として、関西電力・志津川発電所廃止補償、おとぎ電車( 京阪神電鉄経営の遊覧電車)移転補償、池の尾鉱山における試掘権消滅、宇治川汽船の移転補償となっている。地権者は京都府、滋賀県、関西電力(株)と多岐にわたったことから、補償交渉は難航した。
この『工事誌』の発刊に寄せて、歴代の所長たちは、補償交渉における苦難の思い出に関し記されている。とくに、川村昇近畿地建用地部長は、ダム完成後に用地問題が残っており、付替道路用地、水没地の一部、残存農地集団移転地における水路、里道、防災施設の設置など、その解決のため管理所の職員とともに苦労した、とある。一方、ダム技術に関して、藤原樫博所長は「淀川水系における初の多目的ダムで、型式はドーム型アーチ式である。アーチ式ダムを考えたのは工事費節減が第一目的であったが、天下の景観宇治川にはゴッツイ重力式ダムよりは優美なアーチダムの方が似つかわしい」と述べている。続いて、石井文雄所長は「堤体は等厚で左右対称とするためにサドルを使用し、ドーム型アーチとして中心角を落として、推力を地山に向け、鉛直施工継手をグラウトとして一体化しても結果はゾアーに近いものになるという考えで、設計面では、各種考慮を払い、また堤体の厚みには、まだ余裕があったが、強いてこれを削らないことにした」と、天ケ瀬ダムの用・強・美について語っている。現在、天ケ瀬ダムの再開発事業が進捗している。
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