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6.吉野川−大迫ダムの建設


大迫ダム

 吉野川は、その源を奈良県吉野郡川上村南東部境の大台ケ原山(標高 188m)に発し、北西流して本沢川となり、北股川を集め入之波を流れ、上多古川、下多古川、高原川を合わせ吉野町に入り、津風呂ダム(昭和37年完成)より流下した津風呂川の支川を併流して、大淀町、下市町境界を流れ、五条市に入り、五条盆地を東西に蛇行しながら丹生川などの水を集め和歌山県に入り、紀の川となり紀伊水道に注ぐ延長66kmの河川である。

 大迫ダムは、吉野川分水事業のかなめとして昭和32年の開始以来17年を経て、昭和48年10月奈良県吉野郡川上村大迫地先に完成した。このダムの目的は、開発した水を下渕頭首工から大和平野導水幹線等を経て、かんがい用水として大和、紀伊平野の干害の憂いをなくし、あわせて水道用水、工業用水の確保と水力発電を行うものである。大迫ダムの完成によって川上村の広い範囲が湖底に沈んだ。


『大迫ダム誌』

 後世ののために川上村のその変容を記録し、保存する責務をもって、川上村大迫ダム誌編集委員会編『大迫ダム誌』(川上村・昭和58年)がダム完成後10年を経て刊行されている。この書の内容は川上村のあらまし、吉野川分水と十津川・紀の川総合開発事業、大迫ダムの工事と村の対応、個人補償交渉の経緯、水没者移転者の村民の声、大迫発電事業と大滝・入之波ダム建設計画となっている。大迫ダムの諸元は、堤高70.5m、堤頂長 222.3m、堤体積15.8万m3、総貯水容量2670万m3、型式アーチ式コンクリートダムである。起業者は農林水産省近畿農政局、施工者は大成建設(株)、事業費は 63.04億円である。なお、補償関係については、水没移転戸数 151世帯(入之波区 143世帯、大迫区8世帯)、水没面積82.9haとなっており、補償解決は5年を要した。

 この書によれば、大迫ダムの規模、形状がなかなか決定せず、農林、建設両省の国の方針がぐらつき、たびたび計画変更がなされている。この変更は大迫ダム地点の地質の問題と、伊勢湾台風による影響が主な要因であったという。昭和44年3月17日、渇水期を控えて、地質上大迫ダムの安全性について「ダム対策審議会」で話し合いの最中、企業者は仮締切り工事を強行しようとした。これに対し、約 100人の川上村民は実力阻止に出た。奈良県の説得が行われ、4月末に建設省の最終判断にまかせる行政措置で沈着した。地質問題は未解決のままアーチ式ダムの築造に決定した経緯がある。

 この書のあとがきに「農林省など偽政者の立場、村当局の仲介の立場と村民の立場が真っ向から対立した場合もあり、それぞれの立場から共感を呼ぶことのできない記述に終わったことをおそれる。しかし、編集委員会としてはできるだけ多くの資料によって忠実に経過を報告したいと念願した」と記されている。ダム造りの難しさを感じる。

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