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5.広瀬ダム(笛吹川)の建設

 笛吹川は富士川の最大の支川で、奥秩父山系の甲武信岳(標高2483m)と国師岳(標高2592m)に源を発し、南流して、甲府盆地の東部を貫流し、重川、日川、金川、荒川等を合わせて富士川に合流する流域面積1035km2、流域延長約50kmの河川である。

 笛吹川流域は、古くから開け、とくに甲府盆地東部は一連の農業地帯を構成し、桃、ブドウなど全国有数の生産地で地域発展の基となってきた。その反面、明治40年、43年の大水害、近年では、昭和34年、41年の出水によって多大な災害を被った。昭和32年〜昭和41年の10ケ年において、年平均約3億円にのぼる被害を受けている。この抜本的な洪水対策と農業発展のために、山梨県が事業者として、初の本格的な笛吹川総合開発プロジェクトの一環として、広瀬ダム(広瀬湖)を昭和50年山梨県東山梨郡三富村(現山梨市)に完成させた。山梨県広瀬ダム建設事務所編『広瀬ダム』(山梨県土木部・昭和51年)によると、このダムは4つの目的をもって造られた。


『広瀬ダム』
・広瀬ダム地点において、 560m3/sのうち 250m3/sの洪水調節を行い、 310m3/sを下流へ流す。
・広瀬ダムで取水し、発電に使用した水を塩山市柚子ノ木の調整池で分水した最大4.48m3/sのかんがい用水を右岸水路延長12kmで、春日居町(現笛吹市)まで、左岸では水路36kmで三珠町(現市川三郷町)まで導水し、各々樹園地をかんがいし、桃やブドウの生産増を図る。
・塩山市の上水道に対し、広瀬ダムで20万m3の容量を確保し、柚ノ木調整池で分水した水のうち、最大3000m3/日を供給する。
・山梨県企業局は、広瀬ダムの建設に伴い、既設東京電力(株)の笛吹川第1、第2、第3発電所(合計最大発電力8800KW)の買収廃止し、広瀬(ダム式)、天科(水路式)、柚ノ木(水路式)の3発電所(合計最大発電力3万4300KW)を新設し、発電能力の増大とピーク発電による水の有効利用を行う。



 広瀬ダムの諸元は、堤高75m、堤頂長 255m、堤体積 140万m3、総貯水容量1430万m3、型式は中央遮水壁型ロックフィルダムで、施工者は(株)間組、事業費は59.2億円を要した。

 なお、補償関係は移転家屋37戸、民有地31.4ha、県有地約33.5haを擁し、特殊補償として、鉱業及び漁業補償、笛吹川第1発電所の減電補償が行われた。
 広瀬ダムの建設はマサとの闘いであったという。
 前掲書『広瀬ダム』のなかで、工藤信雄所長は、コア材料の決定について、次のように技術的苦悩を述べている。

 我が国において、コア材料は、粘性土、粘性土と砂質土の混合材が多く使われている時代であったが、ダムサイト付近には粘土、ローム、真砂の三種類が分布しており、これ等の土につきその適性実験を行い、勉強したのであるが、粘土は欠点が多く、ロームも不適で、真砂土(花崗岩の風化)のみがたよりに成る材料であり、真砂を使用せぬ場合は遠距離運搬を余儀なくされてこの種のダムのメリットがなくなる状態であった。
 真砂土材料でのコアは我国では使用した経緯が全く無く、危惧を持ちながら……真砂がコア材料として使用出来るかの土質試験を山梨大学教室始めコンサルタントに依託分析したところ、粒度分布即ち細粒分を増すように改良すれば使用できるであろうという結果をうると共に建設省土木研究所千葉土質研究室に於て研究して頂いたところ、コア材として使用出来るとの判断を頂いた。

 さらに、ダム工事における基礎処理においても、花崗閃緑岩が著しく風化したマサを形成しており、技術的苦悩は続いた。このように広瀬ダムは全国初の風化花崗岩のダムサイトを情熱的な技術力でもって克服し、完成したダムであった。

   山粧ふ ダム波だちて 見張小屋
       (望月主枝)


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