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6.荒川ダム(荒川)の建設

 荒川は国師ケ岳(標高2592m)に源を発し、山岳地帯を南西に流下し、渓谷美を誇る御岳昇仙峡を経て、流れを南に変え、亀沢川を合流し、甲府盆地を北西部より南東部に向け貫流し貢川、相川を合わせ笛吹川に合流する流域面積 182.3km2、流路延長48kmの河川であり、甲府盆地を縦断しており、天井川を形成しているため、古くから洪水が発生し、その反面沿岸一帯の農業用水と甲府市上水道の重要な水源地となっている。


 荒川ダム(能泉湖)は、山梨県甲府市川窪町、高町地先に昭和61年多目的ダムとして完成した。このダムの建設記録、山梨県土木部荒川ダム建設事務所編・発行『荒川ダム』(昭和61年)によると、このダムは4つの目的を持っている


『荒川ダム』

・ダム地点の計画高水流量 670m3/sのうち、 490m3/sの洪水調節を行い、 180m3/sを下流へ流す。金石橋地点下流の水害を防除する。
・既得用水の補給(かんがい面積 766ha)、と河川維持用水として二川橋地点では維持流量 0.5m3/sを確保する。
・甲府市上水道の高区、中区に対し、平瀬地点において上水道用水として最大10万m3/日( 1.157m3/s)を供給する。
・ダム管理費削減等、合理化を図るため、利水放流を利用し、管理用発電出力 490KWを行う。
 ダムの諸元は堤高88m、堤頂長 320m、堤体積 301万m3、総貯水容量1080万m3、型式は中央遮水壁型ロックフィルダムである。施工者は鹿島建設(株)、(株)間組共同企業体、事業費は 356億円を要した。なお、補償関係は取得面積 80.64ha、移転家屋30戸、特殊補償として漁業補償などであった。


『湖底に沈む町・川窪』

 昭和53年3月27日補償協定書が調印されているが、昭和54年〜55年にかけて、水没者の生活、別れ、家屋解体、能泉中学校の閉校を追った伊藤七六・写真、斉藤典男・文『湖底に沈む町・川窪』(自費出版・昭和56年)がある。とくにこの写真集で「荒川ダム建設に伴う能泉地区民激励大会」(昭和54年4月25日)において、望月幸明知事は一人ずつ握手して、会場を回った時、窪田清春さんが知事の手をなかな離そうとしなかったとのことである。このシーンは水没者の故郷を去る無念さであろうか。
 平成18年3月30日、私は甲府市駅前から昇仙峡行のバスに乗った。甲信越に寒波が襲来した日であった。昇仙峡から荒川ダムまで歩いたが、快晴で暖かった。金桜神社方向の手前から右へ曲がると、坂道の沿道にはオオヤマザクラの苗木が植えてある。一本一本に植栽者の名札がついている。やがて右手に風格のある中央遮水型ロックダムが見えてきた。天端道には、両サイドにコンクリート壁はなく、低い岩が敷きつめられ、ダムの全容が眺められた。ゆっくりと昇仙峡まで戻ると雪が舞い始めた。


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