7.小牧ダム(庄川)の建設
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この庄川合口ダムから、上流約3km程に、富山県砺波市庄川町小牧字矢ケ瀬地点に昭和5年小牧ダムが水力発電用(最大出力72,000KW)を目的として完成した。
ダムの諸元は、堤高79.2m、堤頂長 300.8m、堤体積28.9万m3、総貯水容量3385万m3、型式重力式コンクリートダム、起業者は関西電力(株)、施工者は佐藤工業(株)である。17のゲートを備え、当時東洋一のダムを誇った。
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小牧ダムは、富山県氷見市出身の実業家セメント王といわれた浅野総一郎が、庄川水力電気(株)を創立し、社長となって、建設を始めた。当時のダム式発電工事は日本では未経験で、大正9年アメリカ「ストーンド・エプスター社」に工事の設計、施工について委託契約を締結。大正12年9月におこった関東大震災の影響で、資金調達が不能となり、アメリカ技師団が帰国、その後日本電力(株)が工事を引き継ぎ、大正14年浅野の懇願を受けて石井頴一郎が工事主任となった。
石井頴一郎著『ダムの話』(朝日新聞社・昭和24年)のなかで、小牧ダムの施工について次のように述べている。
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『ダムの話』 |
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小牧では監査廊は上下二段に造り、上部のものは高さ七尺、幅四尺、下部のものは高さ一0尺、幅八尺とした。下部監査廊には上から堤體内の排水管が来ており、下からは地中の排水管が開口し、これ等の水を集めて下流に排除している。監査廊はまた堤體内部の亀裂の有無、コンクリート内部温度の測定、漏水の程度を等を調べるに役立つのである。 洪水を流すためにダムから離れて排水路の出来ている所もあるし、ダムの上から溢水させるのもある。地形、地質、ダムの高さ等によつて決定される。溢水式のものは頂部を丸めてある。普通、その上に水門を設置して貯水池の水位を調節している。この水門にも種々あつて、小牧ではテンターゲートと言つて扇形のもの。黒部小屋平ダムはローラーゲートといつて圓筒形の長い水門、與瀬のダムはストーニーゲートといつて大きな四角な水門を特殊の装置で上下するものなど、排水量、設置場所によつてそれぞれ適當な水門が選ばれる。小牧ダムではその外にこの特殊装置の排水門が三ケ所設けられている。尚ダムの右岸にはエレベーター式魚道が設置され、左岸端には流木の運材設備が設けられている。溢水するダムに於いては洪水時ダムの下流が洗掘されないように長いコンクリート床が河底に造られている。小牧では床が水勢で破壊されないように深みを保つように床の下流端に小副堰堤が築かれている。 ダム工事は進められたが、洪水に見舞われ、用地、かんがい用水、流木、魚道などの複雑な問題が起こり、この解決のために、エレベーター式の魚道、流木の運材設備も設置された。とくに、難問だったのは、小牧ダムは庄川本川の築造であったため飛騨・五箇山の材木を流す飛州木材会社との間で争いが生じたことである。いわゆる「庄川流木事件」である。木材会社側は、ダム撤去と発電計画の中止の訴訟をおこし、その間いくたびか流血の惨事となった。木材会社側は裁判で負けたものの、電力会社は巨額の補償金を支払った。それは、山林労働者、流材人夫に対し失業補償を行い、またこの地域の山林所有者の木材会社の株を取得し、「百万円道路」を建設した。この百万円道路は、国鉄越美南線美濃白鳥駅から白川村役場鳩谷に至る間で、百万円道路の開通によって、まもなくこの路線に国鉄バスが走るようになり、庄川沿いの地域の状態が一変し、人的、物的交流が盛んとなり、地域開発に貢献することとなった。なお、木材輸送は、昭和9年高山線の開通によって鉄道輸送に変わった。その後の電源開発によるダム造りは、木材の輸送に代わる鉄道、道路の建設が慣行となってくる。 大正8年浅野総一郎は庄川を視察して「おお黄金が流れている」と言ったという。それから昭和5年紆余曲折を経て、小牧ダムは完成したが、昭和8年8月内務省、逓信省、農林省、富山県、岐阜県などの斡旋でようやくすべての問題が解決し
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この「庄川流木事件」については、石山賢吉著『庄川問題』(ダイヤモンド社・昭和7年)、北陸タイムス社編・発行『庄川堰堤反対理由と経過』(大正15年)、小坂田和美著・発行『庄川流木争議』(平成4年)、小説では高見順の『流木』(竹村書店・昭和12年)、山田和の『瀑流』(文藝春秋・平成14年)などが刊行された
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『庄川問題』 |
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『庄川堰堤反対理由と経過』 |
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『庄川流木争議』 |
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『流木』 |
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小牧ダムは我国土木史上における特筆されるダムである。それは大正14年物部長穂東京帝大助教授が「貯水用重力式堰堤の特性及び其合理的設計方法」を発表し、小牧ダムはこれによる「耐震設計理論」を適用した最初のダムであるからである。その後、ハイダム建設の嚆矢となった。さらに平成14年、小牧ダムは河川ダムにおける初の「国の登録有形文化財」になった。
当時東洋一のダムを誇った小牧ダムは完成後80年を過ぎようとしているが、今日、その円曲で優美な姿は緑の湖面に映し出され、その風格と威厳を保っている。
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