8.御母衣ダム(庄川)の建設
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御母衣ダムは、戦後の経済復興のカギを握る原動力の一つである電力エネルギー確保のために、庄川の上流岐阜県大野郡白川村平瀬地点に、昭和36年電源開発(株)によって完成した。御母衣ダムの建設では、ダムサイトの地質、岩盤の危搦性と、水没に係わる補償の二つの問題が生じた。
ダム工事記録については、都木清・前田祐正編『御母衣ロックフィルダム工事誌』((株)間組・昭和38年)、電源開発(株)編・発行『御母衣第二発電所新設工事記録』(昭和40年)がある。
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ダムの諸元は、堤高 131m、堤頂長 405m、堤体積 795万m3、総貯水容量3億7000万m3、型式はロックフィルダム、事業費は415.26億円を要した。施工者は(株)間組である。主なる補償は、土地取得面積 700ha、移転世帯 240戸、公立学校3、営林署貯水場2、郵便局1、神社5、寺院3、重要文化財2、天然記念物2であった。ダムサイトの地質が御母衣ダム活断層を呈していたため、アメリカのニッケル博士の指導を受け、「ロックフィルダムで大丈夫だ」との見解によって重力式コンクリートダムからロックフィルダムに変更になった経過がある。断層処理を行い、ダムの構造はロック層の中に水漏れを防ぐための粘土層、その間にお互いが崩れこまないようにするためのフィルター層の3層からなり、上流側には保護ロックが設けられ、建設資材は現地調達によるコストダウンがなされた。また、アメリカからの先進の技術と資本導入(世界銀行からの借款)をうけている。
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一方、補償問題については、故郷が喪失することに対するダム建設反対運動がおこった。昭和28年1月「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」(会長建石福蔵)が結成され、死守会は非水没となる支流案を提示し、電源開発(株)高碕達之助総裁、岐阜県武藤嘉門知事らに厳しく陳情を重ねた。
しかしながら、昭和31年5月副総裁藤井宗治が「御母衣ダム建設によって立退きの余儀ない状況に相成ったときは、貴殿方が現実以上に幸福と考えられる方策を、我社は責任を以って樹立し、之を実行するものであることを約束する」との、いわゆる「幸福の覚書」の提出により、死守会は、次第に補償交渉が条件闘争に変化し、解決に向かった。小寺廉吉著・発行『山村民とその居住地〔ふるさと〕の問題』(昭和61年)の書のなかに、ダム反対運動に関しては、死守会書記長若山芳枝著『ふるさとはダムの底に』が掲載されており、詳述されている。
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『山村民とその居住地〔ふるさと〕の問題』 |
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『荘川桜』 |
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御母衣ダム |
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昭和34年11月12日、死守会の解散式に高碕達之助も招かれ、その日、湖底に沈む光輪寺の老桜を目にして次のように語っている。「葉はすっかり落ちていたが、それはヒガン桜に違いなかった。私の脳裏にはこの桜を救いたいという気持ちが胸の奥の方から湧き上がってくるのを私は抑えられなかった。……進歩の名のもとに古き姿は次第にうしなわれていく、だが、人力で救えるかぎりのものはなんとか残していきたい。古きものは古きが故に尊い」
高碕達之助のこの願いは、水没者、樹医、(株)間組の人たちの多くの善意によって巨木桜2本が湖畔中野展望台へ移植された。今日移植から50年を迎えようとしているが、毎春荘川桜は豪華絢爛の花を咲かせている。(電源開発(株)編・発行『荘川桜』(平成13年)
私は、平成18年6月5日御母衣ダムを訪れた。満水であった。巨桜はすでに葉桜であったが朝日をうけて、実に緑が美しく輝き、近づくと7本程の木柱によってしっかりと支えられていた。これらの一本一本の支柱が高碕達之助ら、多くの人の温かい手のように思われてならなかった。その傍らに、
ふるさとは 湖底となりつ うつし来し この老桜咲け とこしへに (高碕達之助)
の碑が建立されている。この歌碑と荘川桜が静かに御母衣ダムを見守っている。
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