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15.月光川ダム(月光川水系月光川)の建設

 月光川は、東北の尾根奥羽山脈の最西部に位置し、出羽丘陵の北端にそびえる鳥海山(標高2230m)にその源を発し、山腹を南下する多くの渓流を三の俣の狭窄部にて合わせ、向きを南西に転じ山麓を流下する。杉沢地内に入り、熊野川を、蚕桑地内において山田川を合流し、向きを西にとり、山形県下最大の穀倉地帯庄内平野の北部を貫流し、江地に至って北に転じ、途中高瀬川、洗沢川を合流し、吹浦地先にて日本海へ注ぐ流路延長251km、流域面積153km2の二級河川である。

 その流域は、山形県飽海郡遊佐町のほとんどの面積を含み、上流は出羽丘陵の水成岩からなり標高1000m以下の丘陵性山脈の上に鳥海山が噴出しており、安山岩質集塊岩や砕屑岩の発達があり、所々に安山岩質の露出がみられる。

 日本海に面した山間部であるため地形的に雨の降り易い地域であるうえ、流程極めて短く、かつ急勾配であるため、幾多の大水害を受けている。

 普段は静かに流れる月光川は、春の融雪や台風による豪雨などにより、恐ろしい洪水をおこしてきた。

 菅原傳作編『月光川史』(月光川水害予防組合・昭和59年)によれば、明治8年、15年、17年、18年、27年、大正15年の大洪水、昭和に入って、6年、7年、30年、33年と洪水に見舞われている。とくに昭和33年7月には遊佐町吹浦観測所で2月で203.3mmの豪雨によって、各地において溢流氾濫し、被害額25億円に達した。


『月光川史』

『月光川ダム工事誌』
 月光川は、一気に日本海に注ぐ独立急流河川であることから、昔から抜本的な水害防止が再三計画されてきたが、地勢地盤等の関係により実現をみるに至らなかったが、ようやく根本的な解決として、洪水調節ダムとして月光川ダムの建設が浮上した。

 昭和45年実施計画の調査が始まり、47年に建設に着手し、9年間の歳月を経て53年に、月光川ダムは、月光川の山形県飽海郡遊佐町大字吉出字金俣地点に完成した。

 このダム建設を記録した山形県月光川ダム建設事務所編・発行『月光川ダム工事誌』(昭和54年)に、そのダムの目的、諸元を追ってみたい。

 ダムの目的は2つである。

◇月光川ダムはダムサイトにおける計画高水流量470m3/Sのうち370m3/Sを放流し、100m3/Sの洪水調節を行い、月光川沿川地域を水害から守る。洪水調節はダム内に設けた放流管から最大370m3/Sの自然放流によって行う。流量配分図は次のとおりである。

◇平成9年6月に、ダムの無効放流水と落差を利用して、ダム管理用の月光川ダム発電所が総事業費5.67億円で完成した。発生電力は最大使用水量4.4m3/Sをもって最大570KWHを管理用電力に使用し、余剰電力は一般電気事業者に供給する。

 ダムの諸元は、堤高48m、堤頂長205m、堤体積コンクリート12.25万m3・フィル5万m3、総貯水容量178万m3、有効貯水容量167万m3、型式は重力コンクリートダム表面遮水型ロックフィル複合ダムである。起業者は山形県、施工者は熊谷組、事業費は48.8億円を要した。

 なお、補償関係は、用地取得面積229haで、そのうち119haが国有林野であった。

 月光川の治水について、振り返ってみる。
 明治15年、月光川の暴れ川に対処するために、治水団体である水利土功会が設立され、月光川筋の堤防改修が始められた。明治26年、月光川水害予防組合が設立され、明治41年「月光川水害予防組合規約」によると、「本組ハ、月光川筋・水害防禦ニ関スル事業本川ヨリ灌漑用水流通ノ為メ設置ノ堰ヲ修築保存スルヲ目的トス」とあり、遊佐村、稲川村、蕨岡村、高瀬村、吹浦村から各々役員が選出されている。

 それ以来、月光川筋の洪水対処に対し、その歴史を刻んできたが、昭和53年月光川ダムの完成によって水害の減災が図られてきたことは月光川史に重要な位置を占める。昭和51年10月、月光川水害予防組合によって「月光川ダム記念碑」(三ツ俣)が建立された。その碑には「われらの宿願ここになり昔を偲び今日を思いこの事業に精神尽力された関係者各位に敬意を捧げると共に希望に輝く遊佐町にとってこの施設が町民の生活基盤としての活用の構想がやがて実現することを期す」と刻まれている。

 月光川ダムは遊佐町の水害から守るかけがえのない施設だ。


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