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16.荒沢ダム(赤川水系赤川)の建設

 赤川は、山形・新潟県境の以東岳(標高1771m)に源を発し、山間部を経て朝日村落合で梵字川を合流し、庄野平野を北流して鶴岡市で内川、三川町青山で青竜寺川を、三川町成田新田・酒田市広岡新田の境界で大山川などを合流し、酒田市浜中の開削新田を抜けて日本海に注ぐ流路延長70.4km、流域面積856.7km2の一級河川である。赤川は大鳥池からの最上流区間は「東大鳥川」、西大鳥川合流後は「大鳥川」、梵字川分流後は「赤川」の名称で用いられてきた。

 かつての赤川は下流で大きく北に曲がり、最上川に合流していた。下流域で相次ぐ洪水を防ぐため大正6年、最上川と切り離して日本海に直接注ぐ放水路の工事が本格的に行われ、昭和11年に完成。今の赤川の河口はこのときに定められたものである。

 しかし、昭和15年7月集中豪雨によって赤川上流の荒沢村大島地区は多大の被害を被った。このころから赤川上流に治水ダムの建設が浮上し、内務省最上川工事事務所において、昭和16年〜18年にかけてダム建設計画の調査が行われ、その後山形県に引き継がれ、昭和31年11月荒沢ダムが赤川の鶴岡市荒沢字狩籠地点に完成した。

 このダム建設により荒沢地区42戸200名が移転し、さらに宅地、水田等189haが水没した。昭和30年代は、終戦直後の食糧難から脱しようとしたときであるが、農業生産の拡大、電力エネルギーは渇望されていた。

 荒沢地区の水没移転者を追った亀井良生・佐藤盛夫写真集『湖底に消えたふるさと荒沢村』(東北出版企画・平成17年)により、ダム完成までの経過をみてみたい。

昭和20年12月 電力ダム候補地に山形県内で、荒沢、八久和、野川の3ケ所が挙がる
         。
  22年 5月 「赤川河水統制事業期成同盟会」の設立
         荒沢ダム建設構想化が具体化
  23年12月 荒沢地区は山形県に荒沢ダム建設中止の「請願書」を提出
  24年 7月 「荒沢ダム建設反対同盟会」の設立
         「荒沢ダム建設反対村民大会」が大鳥中学校で開催
  25年 2月 村山道雄知事が荒沢地区に出向き移転交渉を行う
         荒沢地区、ダム建設を承認
      7月 「山形県議会荒沢ダム建設促進委員会」は荒沢地区
         と交渉、反対強く、交渉打ち切る
  26年 1月 荒沢地区に県の最終移転補償提示
  27年12月 荒沢地区の補償交渉解決
  28年 7月 荒沢地区全戸補償調印完了
  29年 6月 移転地赤川干拓地に田植え始まる
     10月 荒沢ダム定礎式
  30年 6月 赤川干拓地大水害
     11月 荒沢ダム湛水開始
  31年11月 荒沢ダム、倉沢発電所竣工式

 ダムは3つの目的を持っている。

ダムサイト地点における計画洪水量1200m3/Sを840m3/Sを洪水調節し、計画放流量360m3/Sを流す。

◇庄内平野の農地約12000haに対し、農業用水を供給する。

◇新設の倉沢発電所において最大出力13600kwの発電を行う。

 ダムの諸元は、堤高63m、堤頂長195.5m、堤体積15.6万m3、総貯水容量4142万m3、有効貯水容量3087万m3、型式重力式コンクリートダムである。起業者は山形県、施工者は熊谷組、事業費は18億円を要した。

 このダムでは200人移転した。前掲書『湖底に消えたふるさと荒沢村』には、まだこのころは藁葺きの家が多く、農村風景を写し出す。牛や、馬も写し出す。さらに、大泉小学校荒沢分校の生徒と教師、山形県赤川堰堤建設事務所、上田沢の映画館には高橋貞二、淡島千景主演の「修善寺物語」の看板、完成間近の昭和30年大洪水、名残を惜しむ荒沢村民の行列、とくに大泉村元村長の土田正孝氏の感慨無量の姿、そして、湛水を見つめる三人の少女たちの後ろ姿に哀愁を感じる。


『湖底に消えたふるさと荒沢村』

(撮影:灰エース)
 平成16年10月24日、酒田市袖浦農業協同組合会館にて、新荒沢・藤山移転50周年記念式典が酒田市黒森に移転した関係者によって開催された。


   古郷を沈めし慈悲は耕雲のめぐみも深きのりのあらさわ  (圓山定雄)


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