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◇ 8. 横山ダム(揖斐川)の建設

 昭和34年8月、9月の台風によって、揖斐川上流は未曾有の大水害となった。岐阜県揖斐郡藤橋村(現・揖斐川町)東横山に位置する、建設省(国土交通省)施行の横山ダムは建設中であったが、ダムの必要性はいちだんと高まった。皮肉にも、この機に及んで、いままで横山ダムの建設に反対していた水没者たちは「下流の人々の安全をまもるためにダム建設はやむをえない」という考え方に変わってきた。そして「よその土地へ移って暮らす」心境となり、真剣に話し合うようになったという。昭和35年には、水没者が三派に分かれていた20人組、17人組、個人補償委員会とそれぞれ補償基準を妥結し、翌年36年藤橋村との公共補償、漁業補償を妥結、そして昭和37年ダム本体のコンクリート打設が開始され、昭和39年6月に完成した。

 横山ダムの諸元をみてみると、堤高80.8m、堤頂長220m、堤体積31.9万m3、総貯水容量4,300万m3、有効貯水容量3,300万m3、ゲートとしてクレストゲート2門、オリフィスゲート3門、非常用バルブ1門、オリフィス予備ゲート3門を備え、型式中空重力式コンクリートダムである。起業者は建設省、施工者は間組で事業費は62億円を要した。


 主なる補償は水没世帯数56戸、土地取得面積221.14ha、公共補償、漁業補償、発電所補償であった。なお、川尻地区、鬼姫生地区、親地区の3集落の水没者たちは、揖斐郡内の揖斐川町、池田町、大野町、岐阜県内には岐阜市、大垣市、北方、神戸、それに県外では愛知県、東京都へ移転している。


 横山ダムに関する書については、建設省中部地方建設局横山ダム工事事務所編・発行『横山ダム工事誌(上)』(昭和40年)、同『横山ダム工事誌(下)』(昭和40年)、国土交通省中部地方整備局横山ダム工事事務所編・発行『横山ダム建設記録』(平成19年)が刊行されている。この書等を参考にして、横山ダムの建設を追ってみる。

『横山ダム工事誌(上)』

『横山ダム工事誌(下)』

『横山ダム建設記録』
 横山ダムは次の3つの目的を持った多目的ダムである。

@ 洪水調節
 洪水期(6月16日から10月15日までの間をいう)においては、洪水調節を行う場合を除き、水位を下記の標高以下に制限するものとする。洪水調節は、予備放流により標高192.7mを限度として水位を低下させ、当該水位から標高207.5mまでの容量最大2,200万m3を利用して行う。

A 灌漑用水
 灌漑期(5月11日から9月25日までの間をいう)においては、灌漑用水補給のために、西平地点及び岡島地点において取水出来るように横山ダムから放流する。ただし、灌漑のためのダムからの補給量は、半旬平均13.5m3/sを超えないものとする。


B 発電
 横山発電所の取水量は129m3/s以内とし、必要に応じて下流の久瀬及び西平調整池において横山発電所からの放流量を逆調整するものとする。
 発電のための有効貯水量は、標高207.5mから標高180mまでの3,300万m3とする。最大有効落差63.3m、最大出力7万kWである。

 次に横山ダムの建設過程をみてみたい。

昭和26年   岐阜県、多目的ダム調査着手
  28年4月 岐阜県から建設省へ移管、予備調査
  32年1月 横山ダム建設反対期成同盟の結成
    4月 実施計画調査開始、横山ダム調査事務所の設置
  33年3月 条件付立ち入り調査承認の覚書
  34年4月 横山ダム工事事務所に組織替え、建設工事着手
    6月 横山ダム工事説明
8月、9月 台風7号、伊勢湾台風による揖斐川大水害
  35年2月 藤橋村議会、条件付着工同意
    9月 本体掘削着手
       この間一般補償基準の妥結
  36年2月 仮排水路通水
       藤橋村公共補償調印
    5月 漁業補償調印
  37年2月 本体コンクリート打設開始
  38年5月 コンクリート打設完了
  39年2月 湛水開始
    6月 横山ダム竣工式(大垣市にて)
    10月 横山ダム管理所発足

 ダム建設の経過を辿ると、昭和32年の調査開始以来、用地補償の解決まで約3ヵ年を要し、工事等に4年、ダム完成まで7年を経ている。

 前掲書『横山ダム工事誌(下)』の終わりに、技術資料と用地職員及び技術者の座談会が掲載されている。その中からいくつかダム建設の困難性について、挙げてみる。先ず用地職員が交渉に関わった苦労である。

(1) 私たちが予期しなかったことは、水没者が17人組、20人組の2派に分かれた。17人組が期間延長に対して懐疑的であったことから、我々は非常に神経をつかった。

(2) 昭和33年ごろ、現場に行ったところ、至る所に立入禁止の立札が立てられ、覚書で認められながら現実には立入り出来なかった状態であった。だから、個々に話をつけて一つ一つの問題を解決を得たうえでようやく立入ることが出来た。

(3) 借地で進むことは問題であるが、地元の要望にダムサイトは全部借地した。また測量伐採に伴う立木補償についても、最初はなかなか了解してもらえなかった。ダムサイトの借地契約は原状回復の条件が入っていたため相当苦労した。

(4) 係争中の土地について、双方の所有者は争いの原因をつくったのは建設省だという。万事そういう言い方をしてきます。

(5) ダムサイトを始め、水没地の買収で実測面積が台帳面積より少ない場合の協議から、調印までかなり苦労した。

(6) 17人組の交渉では、財産を持った者と持たない者では補償額が違う。それを考えると、金銭でなく、山あり、川あり、あゆの獲れる生活環境を造ってくれ、それを建設省が造らなければ、「竹やり以外にない。我々は、今竹やりで突き殺し、自分等も死にたい気持ちである」と、そのときは真剣なことであり、地元も必死であったと思う。

(7) 21人組との補償交渉の話ですが、課長、係長が局の用地官、用地課長と一体となって、連日折衝を強行しているということで、我々も妥結前の晩でしたか、馳せ参じたところ、双方とも非常に疲れ果てた中にも異常な空気があった。それから間もなく補償の大筋が妥結した。委員長をはじめ皆男泣きに泣いていた。悲壮な感に打たれた。

 このように、横山ダムの補償交渉は難航したが、用地職員の懸命な努力の積み重ねで、昭和35年までには解決が図られた。前述したが、昭和34年8月、9月の台風によって、水没者たちは「揖斐川下流域の人々の安全を守るためにダム建設はやむえない」との心境の変化もまた大きな要素を占めていたと言えるであろう。

 次に技術者たちのダム技術に関する苦労を聞いてみたい。

(1) アーチ本体はトライアルメソッドでやったが、引張りを許しても工事費全体が高くなった。ロックフィルは異常洪水が200年確率なので、6,000m3/s位となり余水吐が大きく、工事費が大となりました。その頃、洪水調節と農業用水の噛み合わせを調整して、総貯水量5,200万m3を2段水位により、4,300万m3に変更、満水位も4.5m下げてEL.207.5mにしました。比較設計の結果、ホローグラビティーとの経済比較から約2億円の差でホローと決定しました。

(2) 地形的にU型の谷にはホローが有利な訳ですが、ここは言わば偏平なV型ともいうべき地形です。堤高が低くなるとホローの有利性は失われますから、土木研究所とも相談して左右岸取付部30〜40m以下の堤高の部分は重力という型とし、比較設計もこれでやりました。

(3) 原石山は、ダム用骨材として使えるものかどうかがまず問題点ですが、横坑を掘って調査した結果、表面がやや不安定に見えるのにひきかえ、内部は比較的よく特に本川側上流部はよい様に思いました。しかし他の坑では、蛇紋化している部分も認められ、踏み切るか否かは随分考えました。そして、天然骨材との運搬費の比較などをやりながら慎重に検討していましたが、その頃、阪西さんがおいでになって、原石山を見られた時、比重も大きくよい骨材だ。是非原石でやりなさい。あまりかたくてジョーのブレードの磨耗が大きい様に思う。などのお話を聞き、内心ほっとして原石に踏みきる覚悟を定めました。

(4) 設計をやっても実施に移さないということがあった。いわゆる空振りというやつですが。これがやる方には一番こたえた。

(5) 要するに美和ダムにあったから転用したというのが根本なのですが、むしろ反対にバッチャプラント、セメントサイロあるいはセメント投入機というものの関連性を、この空気輸送設備にあわせて行ったということです。もう一つは美和では低圧ブロアーについて相当苦労され、改造修理してその挙句、これで使いものになるという所まで行ったのです。そしてそれ等を直接美和でやってきた人達が横山に来たので低圧ブロアーに関しては全然心配がなかったのです。

(6) 湛水して、堤頂から湖面を見た時は、仕事やら、地元やらの苦心といいますか、そういうものはあまり考えなかった。とうとうやったという気持ちもなかった。ただこういうものができる迄のたくさんの人の努力と、これに参加できたという感謝の気持ちという、大げさですが、そんなような感慨にふけりました。


 横山ダムの完成は、中部地方における建設省直轄多目的ダムとしては、木曽川丸山ダム(昭和30年完成)、天竜川美和ダム(昭和34年)に次いで第三番目である。なお、わが国初の中空重力式ダム井川ダムは、昭和32年に大井川の上流に完成している。

 横山ダムは紆余曲折を経て、工事費62億円を要し、延べ80万人(残念なことは13人の殉職者がでた)の労力がつぎ込まれた。昭和39年6月28日竣工式を迎えた。この竣工式は、大垣市スポーツセンターの会場に松野岐阜県知事ら1,500人が出席した。もちろん水没者も参加し、心から祝ったという。別会場では横山ダムの建設記録が上映された。

 昭和39年の世相を振り返ると、池田勇人内閣総理大臣のときで、東海道新幹線の開通、東京オリンピックが開催され、高度経済成長期であった。

 都はるみの「アンコ椿は恋の花」、水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」がながれ、物価は白米10s1,125円、理髪料320円、大工手間賃1日2,000円、新聞購読料1ヵ月580円のころである。

 平成21年現在、横山ダムは完成後45年が過ぎた。その間昭和40年9月、昭和50年8月、平成にはいり、14年7月、16年10月のそれぞれの洪水には、その洪水調節の機能を十分発揮し、また、農業用水、水力発電に寄与してきた。だが、貯水池内には、たびたびの洪水により、崩壊地からの多量の土砂が流入し、計画を上回る堆砂状況となってきている。このため平成2年から既得容量の回復を図ることと、併せて容量を確保する排砂施設などの設置による堆砂の軽減を図る、横山ダム再開発事業が行われている。平成20年に横山ダムの上流に完成した徳山ダムにこの堆砂が資材の一部に使用された。いま横山ダムは新しく生まれ変わろうとしている。それを象徴するかのように、ダムサイト上流400mの位置に国道303号を移設する新横山橋(仮称)の架橋建設が進んでいる。


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