進む世に吾も何かせむ この山峡に生れて60年暁をみる 三笘 善八郎
これは、平成10年1月24日、大山ダムの補償基準の調印式のとき、当時大山町長であった三笘善八郎氏が、その席上で心境を託した歌である。
大山町は、現在は合併して日田市の一部になっているが、『梅栗植えてハワイへ行こう』のキャッチフレーズで知られ、一村一品運動の原点ともなった町である。もともと、地域の振興を通じて自立を図ろうとする意欲の強い土地柄であったのではないか。そして、三笘氏は、その中心的存在として、ダムを活かした地域づくりに向けて、一貫して指導力を発揮してきた。
補償基準の調印に至る道のりは平坦ではなかった。最後の難関は、当時3組織に分かれていた地権者組織の一本化だった。3組織一本化は難航を重ねたが、精力的な取り組みの結果、やっと調整の最終段階にこぎ着けたそのときに、三笘氏は、突然ガンの告知を受け、手術の急を告げられた。明日は入院という日の夜、早めに休んでいると、深夜の午前2時頃、突然の電話があった。一本化がついに合意されたとの知らせだった。
手術は順調に終わり、術後17日で正月2日には退院。組織一本化が成り、いよいよ補償基準の具体的な交渉が進み、その年の暮れに至り大詰めを迎える。そして、なお残る懸案事項の交渉は、町長の三笘氏に全権が委任された。全地権者が、一人の例外もなく、印鑑証明付きで全権委任がなされた。三笘氏は、このことを「生涯忘れ得ぬ宝である」と語っている。
そして年が明け1月24日、念願であった損失補償基準の調印式を迎えた。その日は珍しく大雪に見舞われ、立会人の平松知事が大分から来られるだろうかというスタッフの心配を後目に、水没者の表情は実に晴れ晴れとしていたという。調印式の席上で三笘氏がその心境を歌に託した。それがこの歌である。まさに「暁をみる」心境であったのだろう。
補償基準調印式で。左から2人目が三笘氏。 以上は、(財)日本ダム協会主催の第56回水源地問題実務講習会(平成21年2月26日)における三笘善八郎氏の講演をもとにまとめたものである。 今、大山ダムは本体工事中。下段から少しずつ堤体が姿を現しつつある。ダムはコンクリートの固まりだが、その背後には多くの人々の思いが潜んでいるのではないか。そんなことを思わせる講演であった。
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