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1 用地交渉の長期化
(1)事業長期化の要因
一般に、ダム事業は長期化しやすいと言われている。事実、水没戸数が100戸を超えるようなダムの大部分は、その事業期間が20年を超えている。
事業の長期化の要因は、大別して三つあろう。第一に、技術上の要因である。ダム事業においては、地質等に不確定要素が多く、設計に当たって慎重な調査・検討が求められるし、鉄道や道路の付け替え、洪水期の対処などのために工事が長期化することも多い。
第二に、財政的な要因である。事業には多額の資金が必要であるが、一旦事業を開始しても、その後の財政状況や事業プライオリティの変化によって、投入される資金量が大きく左右される。投資事業であることに伴う不確実性を抱えているのである。
そして第三が、用地交渉上の要因である。用地交渉が行き詰れば、事業が遅延するのは当然であろう。ただし、用地交渉が長期化するのは、交渉相手の数が多いからではない。図3・1を見て欲しい。この図は、水源地域対策特別措置法が適用されたダムのうち、水没戸数が100戸以上の事業について、それぞれの事業期間と水没戸数との関係をプロットしたものである。これでわかるとおり、事業期間と水没戸数とのあいだに有意な相関関係はない。
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用地交渉が行き詰り長期化するのは、ダム建設への強い反対運動が持続するからである。もう一度図3・1を見て欲しい。そこで示されるように、水没戸数が300戸を超えるダムは、二つのグループにくっきりと分かれている。一つは事業期間10年強のもの(手取川ダム、御所ダム)、もう一つは30年を超える期間を要したもの(八ッ場ダム、川辺川ダム、大滝ダム、徳山ダム、苫田ダム)である。いうまでもなく、後者のグループはいずれも地元の根強いダム建設反対運動に直面したダムであるが、その経緯を調べると、事情や理由は様々であっても、共通する社会的な背景が浮かび上がる。
(2)集団的な交渉
ダム事業における用地交渉の特徴は、集団的な交渉であることである。その理由は、たとえば、 @)面的に広がりのある土地を一挙に取得しなければならないため、個々の地権者に対する用地補償に先立って、被補償者に共通して適用する基準をあらかじめ合意しておく必要があること A)事業に伴って地元コミュニティに様々な影響を及ぼすが、その対応等についてあらかじめ合意しておく必要があること B)被補償者に対して代替地提供等の生活再建措置を講じなければならないが、その的確な実施を確保するために、ニーズを把握して措置に関して合意を得ておく必要があること などである。個人の合意のまえに、地域社会の合意を得ることが必要なのだ。
ところが、通常、社会は一枚岩ではない。交渉団体(あるいは反対運動団体)を結成することそのものが、社会的な対立の的(まと)となることも多い。また、交渉団体が結成された後も、その運営方針やリーダーシップのありかたなど、対立の種は尽きない。さらには、交渉の過程でもともとある地域の課題に直面し、それと取り組むことを余儀なくされることもある。特に、地域社会が失う価値が大きい場合には、強い社会的な摩擦を生じやすいであろう。
つまり、ダム事業をきっかけとして、地域社会が抱える様々な対立や課題が顕在化することが多いのである。このとき、ダム事業への賛否はそのまま社会的な対立の争点となりやすく、あるいはダム事業を受け入れる条件として、地域社会が抱える課題への対応が要求されることとなる。 用地交渉が長期化する背景には、このような地域社会のなかで発生する摩擦が存在するのである。実際にも、比較的事業期間が短い手取川ダムや御所ダムにおいては、交渉団体は一枚岩であった。一方、事業が長期化したダムのうち、八ッ場ダム、大滝ダム、苫田ダムにおいては、それぞれに事情は異なるものの、いずれも地域コミュニティのなかで対立が生じ、容易にそれが解消することはなかった。また、川辺川ダムの場合は「五木の里」の消滅、徳山ダムの場合には徳山村の消滅という、地域社会が育んできた伝統的な価値の喪失に直面し、コミュニティの危機とそれに伴う社会心理的な衝撃に対応しなければならなかったのである。
このように、用地交渉の長期化が事業期間の長期化の原因となることが多いのは確かであるが、その理由は、補償基準について合意できないためではなくて、ダム事業に端を発して惹起された地域社会の摩擦が長期化することにある。従って、ダムの用地補償交渉の中心的な課題は、補償基準の内容に関してというよりは、事業に対する合意を形成することとなる場合が多い。関係者からの種々の要請を把握して対応しつつ、発生する社会的な対立の緩衝役となるなど、地域社会のなかの様々な摩擦の緩和に尽力するプロセスが必須となるのである。
2 地域社会の摩擦(注1)
(1)社会的な統合の危機
地域社会の摩擦のうちで最も大きいと思われるのは、ダム事業をきっかけとして、地域共同体を支えている社会的な統合関係が危機に直面することである。 たとえば、大滝ダム(紀の川水系紀の川、1962年着手、2002年完成(ただし、試験貯水時に地すべりが発生したためその対策工事を継続中)、総貯水容量8,400万立方メートル、重力式コンクリートダム、水没戸数399戸)の場合はこれに当てはまると考える。大滝ダムの水没地の主要産業は林業であり、被補償者の多くは山林労働に従事していた。その結果、そのコミュニティにおいては、山林所有者、その代理人、山林労働者という階層的な関係が成立し、この関係を基礎としてコミュニティが運営されてきたのである。
ところがダム計画をきっかけに、山林労働から離職して別の地域に移住する(つまり既存のコミュニティからの離脱)という選択が容易となった。一方で、既存コミュニティの存続を求める人々は、ダム湖の周辺に代替地を造成して、現地で生活再建を図ることを希望した。被補償者はそれぞれが移住するかどうかの決断に迫られたのである。
このような情況の下で、地区外に移転を希望する人々は用地補償の早期実施を求めたため、その要求に応じるかたちで地区外移転者を対象にした補償基準が作成され、個別に用地補償が行われた。他方、現地での生活再建を希望する者は、代替地計画が明確にならないあいだは補償基準を受け入れることはできず、交渉を継続するほかない。
つまり、コミュニティが地区外移転者と現地再建者とに明確に分裂し、用地補償においても分離した対応がなされたということである。その結果、コミュニティの一体性は決定的に失われた。そして、地区外移転者は地域社会を離れて行き、現地再建者はやせ細ったコミュニティのもとで交渉を継続することになった。地域に取り残されたという気持ちが湧き上がるのは当然であろう。そして、現地再建者との交渉は難航し長期化するのであるが、これは自然の成り行きであった。 個人の選択は十分に尊重されなければならないし、地域の産業基盤が変容するのもやむを得ないであろう。だが、地域社会の統合が危うくなれば、交渉が長期化するのは必至である。少なくとも、個別対応を先行させるなどによって地域社会の摩擦を助長させるような交渉は、避けなければならないのである。
確かに集団的な交渉には多大の労力を要するが、そのプロセスを経るからこそ地域社会はその変容を受け入れる機運が生まれ、合意が形成されていくのである。
(2)政治的な摩擦
ダム計画への対応は、地域社会の政治的な争点になりやすい。また、集団的な交渉においては、集団をまとめるリーダーシップが必要となる。政治的な摩擦を伴うことが多いのである。 たとえば、前回紹介した八ッ場ダムは、その摩擦が強く現れた例である。この地域では有力な二人の政治家が勢力を競いあう関係にあった。ダム計画への対応や交渉のリーダーシップなどについて両方の意見は一致せず、ダム計画への賛否如何が、そのまま政治的な態度の表明に直結するような情況が生まれたのである。
このような環境の下では、地域社会の合意を得ることは非常に困難である。交渉過程で一方の勢力の意見に配慮することは、もう一方の勢力の反発を招くことになるからである。事業者として種々の提案をし、調整の役割を果たすことはできるかもしれない。だが、八ッ場ダムは、現地での生活再建を目指したこともあって交渉に当たっては多数の課題や争点を伴う。そしてそのそれぞれについて、政治的なリーダーシップの競い合いが表面化し、コミュニティ内部での合意形成が難航した。また、行政の対応も政治的な摩擦と無縁ではいられない。交渉の入り口で足踏み状態が続いたのである。
同様の事情は、苫田ダム(吉井川水系吉井川、1972年着手、2004年完成、総貯水容量8,410万m3、重力式コンクリートダム、水没戸数370戸)についても言えるであろう。ダム建設に対する賛否がそのまま政治的な対立となり、建設促進と反対に分かれて互いに競いあうような関係が長く続いて、交渉は遅々として進まなかったのである。(なお、苫田ダム事業の長期化については、水没地が比較的豊かな水田地帯であったことなど、ダム計画のあり方に対する反発も影響しているかも知れない。)
思うに、このような政治的な摩擦は、ダム建設計画の決定の際にある程度クリアしておくべき課題であろう。建設計画の決定に当たっては、地元の県知事や市町村長の意思が反映されているが、最も影響を被るのは地域社会であり、その動向を見極め、一定の合意を得ておかない限り、たとえ事業に着手してもその後の進捗は滞ることになるのである。強い反対運動が展開されたダムにおいて、「突然、ダム計画が強権的に発表された」という言葉を聞くことが多いのも、事業の意思決定のあり方に対する反発が結局は事業の長期化につながるということを示唆している。
(3)伝統的価値の喪失
地域社会の安定を支えている大事な要素は、その土地に根ざした伝統である。コミュニティへの帰属感は、伝統を共有することによってより強固なものとなる。
従って、ダム事業によってその伝統が失われることは、地域社会の危機である。特に、不便な土地に住み続けた人々にとっては、地域の伝統は自らの生き甲斐と直結しているから、その喪失に対する抵抗は強いものとならざるを得ない。このような事情は、ほとんどすべてのダム事業に共通するであろう。
特に、伝統的な価値が広範に根こそぎ失われるような場合には、抵抗はより強いものとなる。川辺川ダム(球磨川水系川辺川、1967年着手、2008年完成予定(ただし本体工事は未着工)、総貯水容量1億3,300万m3、アーチダム、水没戸数403戸)や徳山ダム(木曾川水系揖斐川、1971年着手、2007年完成、総貯水容量6億6,000万m3、ロックフィルダム、水没戸数511戸)はそのわかりやすい例である。
川辺川ダムによってその中心地が水没することとなる五木村は、五木の子守唄に代表される伝統的な文化や歴史を有しており、その伝統的価値の喪失に対して強力な反対運動が展開された。これを受けて、代替地の造成ばかりで無く、代替地を中心として新たな地域を形成・振興するための計画が立案され、現地での生活再建と地域社会の再生を目指すことが合意されたのである。しかし、その合意までには長い年月を要したほか、その間に事業を取り巻く環境も変化した。伝統的な価値を再生するような地域づくりは、ダム建設に匹敵する困難な事業であるが、それと取り組まない限りダム建設は進捗していかないのである。
また、徳山ダムでは、徳山村内の8つの集落のうち7地区が水没し、1地区は少数残存補償によって地区外に移転することになった。村内の居住者は皆無となり、徳山村は消滅する(注2)。集団移転先は5箇所に分散しており、過去のコミュニティの再生は難しいであろう。徳山村の伝統的な価値は永久に失われるのである。
このような地域社会の喪失は、社会心理的な衝撃を伴うであろう。その衝撃を癒し、事態を受け入れるためには、相応の時間が必要である。人は愛するものを失ったときには悲嘆に陥り、その回復の過程で「愛する者との別れを深く悲しみ嘆く作業」(グリーフワーク)を必要とすると言われている。徳山ダムのケースは、地域社会全体がそのような作業に従事しなければならなかったのではないかと考える。そして残念ながら、そのような地域社会のグリーフワークに対して援助し、ケアするような用意はなく(そもそも事業者はどう対応すればよいかさえもわからなかったのではないか)、時間の経過による癒しを待つほか術(すべ)がなかったと言っても過言ではない。
前回述べたように、生活再建措置の重要性については一定の認識が確立し、対応のための体制も一応は整ってきている。用地補償業務の現場では、生活相談に力を注ぐのはあたりまえのことであるとされ、一対一で人間的な対応をする覚悟も浸透しているであろう。だが、それは個々人の生活に対する支援に留まるのである。
事業関係者は、地域社会が培ってきた伝統的な価値の喪失が社会的な危機を惹起すること、そしてそのような危機こそが事業の受容を阻む強い要因となっていることを十分に理解しなければならない。事業地を事業に供する不動産として捉えるだけでなく、事業地で育まれたコミュニティのかけがえのない固有の価値を尊重し、その継承に最大限に努力し、やむを得ずその価値が失われる場合には、その喪失に伴う衝撃をケアするというような、コミュニティへの影響を見据えた社会心理的な対応に取り組む覚悟が必要である。
そのための方策としては、たとえば、生活再建措置と地域振興とを一体化して新たな価値創造の場を形成すること、コミュニティの記憶を永く留めるための記録の作成・公表、モニュメントの建造、行事の発案とその継続等に取り組むこと、受けた衝撃を受容するための幅広い相談体制を用意することなどが考えられる。工夫した事例を積み重ね、ケアの経験を共有すれば、コミュニティを癒し再生するための方法論が確立していくのではないか。そしてこのような対応は、ダム事業においてだけでなく、過疎化が進行する諸地域においても政策的に取り組むべき課題である。ダム事業での対応は、今後の地域政策の展開に当たってのモデルになると考える。 (4)事業長期化に伴う不安
最後に、地域社会に摩擦が生じる背景として強調しておきたいのは、事業が長期化することによって引き起こされる不安感である。被補償者が生活の先行きに対して不安感を抱くのは当然として、事業の長期化により、地域社会が不安に包まれ不安定になりやすいのである。
たとえば、ダム計画が確定すれば、通常は、水没予定地内では新たな公共事業は行われない。既存の公共施設についても、維持補修はなされるであろうが、更新投資は期待できない。従って、事業が長期化すると、公共的な施設の劣化が目立つようになるのである。あるいは、水没予定地に対する外からの目が常に好意的であるとは限らない。ダム反対運動を地域エゴと捉えるとか、用地交渉の長期化を補償金の増額要求と見る人々もいるであろう。被補償者は、強い不安感を抱えつつ日常生活を送らなければならないのである。
そして、このような情況に長く置かれると、不安感は、悲しみや怒りを伴った疎外感に変容していくのではないか。長期化する用地交渉において直面するのは、そのような地域社会の複雑な心理である。その心理状態を十分に理解することなしには真の合意は難しい。用地交渉においては被補償者とのあいだで「心の交流」が必要であると言われているのは、それゆえである。
3 用地交渉は合意形成
実は、ダム事業に限らず公共事業においては、多少の差はあれ地域社会の摩擦を伴うのである。従って、用地交渉の本質的な課題は、事業に対する合意形成であるとしても誤りではないであろう。用地取得は、地域社会との合意形成の結果なのである。 では、合意形成のためにはどのようなことが必要であろうか。大事なポイントをあげておこう。
@)コミュニケーション
合意形成の基盤は、コミュニケーションにある。そしてコミュニケーションは双方向でなくては意味が無い。一方的な事業説明や情報伝達は「交渉」ではないのである。用地補償担当者は、事業者と被補償者との間に立って、相互の理解を深める役割を担わなければならない。ひとりの人間として、被補償者を対等の立場でちゃんと受け止めることができない限り、交渉の進展は期待し難いのである。
そのためには、事業の意味や合理性について十分に理解しておかなければならないし、被補償者の立場や本当の心を知るだけの感性も持ち合わせなければならない。しかも、コミュニケーションの相手は多様であるし、事業の性格や地域特性によってコミュニケーションのありかたも違うから、その手順はマニュアル化できない。ケース・バイ・ケースで工夫するほかないのである。
最近、事業を効率的に進めるべく、事業説明、意見聴取、意見の集約・整理と対応方針の決定、回答というように手順をスケジュール化し、それに従って合意を得るような手法が導入されている。だが、そのような手法に頼るだけではコミュニケーションは深まらないであろう。手続きを大事にするのは当然として、深いコミュニケーションは、人と人との交流を伴ってこそ可能となるからである。
また、そのようなコミュニケーションのためには、交渉担当者が被補償者の主張や立場を事業の計画、設計、施工などの担当者に伝え、必要に応じて主張や意見を事業に反映するようなしくみも必要となるはずだ。合意形成とはそのような双方向のプロセスなのである。
A)事前の予測と事業への反映
合意形成を円滑に進めるためには、事前に、生じることが予想される問題や課題を把握し、その対応に見通しを持つことが重要である。このときに大事なのは、事前の社会的調査に十分な時間と労力を投入するのは当然として、社会的な影響を事業計画に組み込むことである。
それぞれの地域社会はそれぞれ固有の特性を持っている。その特性を把握したうえで、事業が与える影響を多面的に広範に予測し、社会的な摩擦や課題が具体的に予想されるならば、事業計画の代替案を含めてその対応について周到な検討を加えなければならない。環境影響に関しては、環境アセスメント制度によって影響を評価し、事業計画の変更を含めてその対応を検討したうえで社会的な合意を得るしくみが整備されているが、それと同様に、地域の生活・経済・社会に対する影響に関してもアセスメントが必要なのである。さらには、前回述べたように、ダム事業においては生活再建措置が必須であるが、このようなアセスメントは生活再建措置の実効性を確保することにも寄与するであろう。
B)社会経済環境への洞察
社会的な合意如何は、社会経済環境に大きく左右される。冒頭にダム建設に要する事業期間を一瞥したが、図3・1に記載したダム(水特法の対象ダム)の一世代前には、ダム建設の事業期間はおよそ十年というのが常識だったという。
実際、1953年に着手された佐久間ダム(天竜川水系天竜川、総貯水容量3億2,700万m3、重力式コンクリートダム)は、水没戸数約180戸であったが、わずか3年間で完成した。もっともその際に、被補償者からの代替地要求が無視され、生活に困窮した水没者が多かったという調査結果もあるが、そのことが社会的に大きな問題とされることはなかったのである。あるいは、ダム建設史上最大の紛争と言われる「蜂の巣城紛争」の舞台となった下筌ダム(筑後川水系津江川、総貯水容量5,930万m3、アーチダム)は、その後の公共事業のあり方に大きな教訓を残し、事業を進めるための制度の整備を促した事業であるが、その事業期間は13年である。大きな紛争を抱えた事業であったことを考えると意外に短いという感じがする。(なお、蜂の巣城の経緯とその教訓については、次回に紹介する予定である。)
つまり、時代に応じて社会経済環境が変われば、事業のあり方も変わらざるを得ず、従って合意形成に至るプロセスも変わるのである。事業者が社会経済的な環境を洞察して、自らを社会の関係の中で真摯に見つめる謙虚さをもつことで、初めて事業について社会的な合意を得ることができるということである(注3)。
特に、事業が長期化する場合には、事業の環境が変化していくのは当然のことであり、その意味で、事業計画を適時に見直す勇気を欠いては、合意形成に当たって困難に直面することになると考える。
(ここで述べた意見は個人のものであり、みずほ総合研究所の見解ではありません。)
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(注1)ここで紹介した事例は、いずれももっと多様で複雑な背景や経緯を持っている。だが、事業者による反対運動への対応が記録に残ることは稀であり、ましてやダム反対運動の総合的な記録を得ることは非常に困難である。筆者には、個別事例の経緯や背景を丁寧に記述するだけの準備も能力もないのである。従って、ここでの記述は、数少ないまとまった記録(たとえば、萩原好夫「八ッ場ダムの闘い」(岩波書店、1996)は貴重な記録である)を参考にしつつ、筆者の記憶・体験や個人的な印象に基づいて、地域社会が被ったと思われる影響を図式的に概観するに留まる。当事者の目で見れば、不十分・不正確な記述や思い込みによる一方的な断定が含まれているかもしれない。それらは、あげて筆者の責任である。ご容赦願いたい。
(注2)徳山村が消滅した経緯については、筆者が執筆した「ダム事業で消えた村の帰属 −岐阜県徳山村の場合−」(ダム日本No.727(2004年10月)所収)を参考にされたい。そこでは、公共事業によって全住民が移転した事例は徳山村を含めて全国で3例あること、消滅する徳山村の帰属についてどのような議論があったかなどを紹介した。ただしそこでは、被補償者の思いや社会的な視点での経緯については触れていない。
(注3)社会経済環境と事業の進め方にどのような関係があるかを考えるうえで、中国の三峡ダムの実現過程は参考に値する事例である。大きなプロジェクトを左右するのは、構想力、感性、意志の力だと考えるが、それらは社会経済的な環境制約のもとでしか機能しないのである。筆者はその視点から「三峡ダムはなぜ実現するのか?」(ダム日本No.715(2004年5月号)所収)という記事をまとめたことがある。ここで述べた問題を考える上で参考になるかもしれない。
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これは、「月刊ダム日本」に掲載されたものの転載です。
(2007年7月作成)
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