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◇ 8. 川治ダム(鬼怒川)の完成

 川治ダムは、栃木県塩谷郡藤原町大字川治地先に位置する。ダムは昭和58年に完成したが、そのプロセスを追ってみたい。

 川治ダムの予備調査は、昭和37年4月に始まり、昭和43年4月実施計画調査に入り、昭和45年4月川治ダム工事事務所開設、昭和47年1月一筆調査を開始、昭和48年9月損失補償基準の妥結、昭和49年1月ダム本体工事に着手、昭和49年7月水源地域対策特別措置法に基づく指定ダム第1号に指定、昭和52年12月コンクリート打設を開始、昭和55年11月コンクリート打設完了、昭和58年5月試験湛水完了、昭和58年11月川治ダムは完成した。25年前のことである。


 昭和58年頃の時世を振り返ると、中曽根康弘首相のときで、千葉県浦安に東京ディズニーランドがオープン、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」が爆発的な人気を呼び、「さざんかの宿」、「釜山港へ帰れ」の歌が流行した年であった。一方昭和48年と昭和58年の物価の変動は、山手線初乗り30円が120円、はがき10円が40円、新聞購読料1,100円が2,600円、日本酒二級750円が1,200円にそれぞれ上がっている。

 川治ダムに関する書として、建設省関東地方建設局川治ダム工事事務所編・発行『川治ダム工事誌』(昭和59年)、同『川治ダム写真集』(昭和59年)がある。これらの書により、川治ダムの目的、諸元、特徴、補償について述べてみたい。


『川治ダム工事誌』

『川治ダム写真集』
 ダムの目的は次のとおりである。

@ 洪水調節
 洪水調節計画は、ダムサイトにおける計画高水流量1,800m3/sを治水容量3,600万m3を利用して1,400m3/sの調節を行い、400m3/sに低減して一定量を放流する。これにより鬼怒川の基準地点石井における基本高水流量8,800m3/sを五十里、川俣の両ダムと相まって2,600m3/sを調節し、6,200m3/sにする。
A 灌漑用水
 灌漑用水の補給計画として、栃木県の国営鬼怒中央地区土地改良事業2,852ha、千葉県の国営成田用水事業3,327ha、千葉県営根木名川土地改良事業970ha、計7,149haに対し補給を行う。
B 都市用水
 新たに開発された7.12m3/sは都市用水として供給される。水道用水の供給地は、栃木県(宇都宮市、鬼怒川左岸台地、藤原町)と千葉県(県営水道事業、北総地区水道事業)であり、一方、工業用水の供給地は、栃木県(宇都宮市、鬼怒川左岸台地、真岡町)と千葉県(房総臨海地区工業用水事業)である。

 次にダムの諸元をみてみると、堤高140m、堤頂長320m、堤体積70万m3、総貯水容量8,300万m3、有効貯水容量7,600万m3、型式はアーチ式(放物線)コンクリートダムである。起業者は建設省(国土交通省)、施工者は鹿島建設、事業費は773億円を要し、その共同ダム費用割振りは河川46.7%、農業用水14.6%、水道14.0%、工業用水24.7%となっている。



 主なる用地補償は移転家屋77戸、土地取得面積189ha、漁業補償、県道、村道の付替補償であった。前述のように補償基準は昭和48年9月12日に妥結し、昭和51年3月までに全世帯の家屋移転が完了した。

 水没地区のうち、戸中、小指地区30世帯は、付替県道に隣接する宅地や農地がダムの水位の変動及び裏山からの雨水等の影響により、従来の用途による土地利用が困難となった。そのために従前と同様の土地利用が図られるように、盛り土等の地上げ工事を行い、この地に移転した。

 なお、水没者の一人でもあり、また川治ダム対策委員会の事務局長である山越幸吉著『一滴の水』(日向川治ダム対策委員会・昭和58年)は、川治ダム補償交渉の過程について、 「ダム建設のための心の豊かさを求めて」をモットーとして、水没者の生活再建に取り組んだことが真摯に綴られている。


『一滴の水』
 川治ダムにおける技術的特徴について、三木伸夫川治ダム工事事務所長は「工事誌発刊にあたって」のなかで、述べている。「調査設計面では、従来から行われてきた各種の地質調査のほかに、横坑間弾性波調査を行い、地質状況を詳細に明らかにするとともに、基礎岩盤の安定解析では、有限要素法による三次元解析の手法がとり入れられており、クレストゲートの設計では、アーチ曲率半径より69%小さい曲率半径で配置し、さらに橋台、橋脚の下流端にデフレクターを設けて落下水流を中心に集め、岩掘削量の減少、ダム本体の安全性を高めるなどの工夫がなされております。

 更に施工面においても、温度応力に着目したパイプクーリング手法の改良、夏季におけるプレクーリングの導入、越冬ブロックの養生、マットの使用、データ処理に電算機を導入した施工管理など、多くの技術的研究開発がなされております。」

 前掲書『川治ダム工事誌』には、歴代所長たちの想い出が綴られており、また座談会の様子も載っている。そのなかからいくつかのエピソードをあげてみたい。

 近藤徹第2代調査事務所長
 「昭和42年調査所時代を振り返って、このころから電卓が出始め、タイガー計算機にとってかわることになるが、コピーはまだ湿式であった。実施計画調査の成否がかかっている報告書作りに、職員全員(事務職と運転手を含めて)が徹夜で作成した。川治ダム建設につながると思っていたので、皆満足感に溢れているようであった。」

 堀和夫初代工事事務所長
 「昭和43年4月事務所発足時は拡大川治ダム反対の声の中に出発した。話し合いの糸口を見出そうと努力した。先ず地域を知り、栗山の人の気持ちになることだという観点で、水没に関連した、地域再建問題を解く鍵を求めて、今市、川俣、湯西川、更には鹿沼、又五十里ダムの水没移転の方々を尋ねて、黒磯方面など県下一円を歩きまわった。ダムの出来る地域を知り、地元の方々の心を理解し、地元の人になり切って、その上で人々の和と協力で、ダムは出来るということを教えてくれたのが川治ダムであった。」

 和気三郎第2代工事事務所長
 「補償交渉は地上げによる生活再建の目途がついた昭和48年5月から始められたが、週3回の正式会議のペースで合計35回の交渉の結果、結論を得た。その間多忙の中をさいて集まって頂いた交渉委員の方々のご協力と熱意には頭が下がる思いがした。いよいよ本体発注、オイルショックに遭遇し、工務課は設計書が完成した時には、再び改算の憂き目にあい、誠に大変な時期であった。」

 糸林芳彦第3代工事事務所長
 「それにしても、元県会議員の故星功先生、元藤原町長の故星次郎氏、漁業補償の交渉に際して、特に私と関係の深かった元藤原町漁業協同組合長故川村耕作氏の三方をはじめ、川治ダム建設工事に深いかかわり合いを持ちながらも、鬼怒川の渓谷に聳えるコンクリートの金字塔であるこの大アーチの完成した姿を見ることなく世を去ってしまった方々のご冥福を心からお祈りしたい気持ちでいっぱいです。」

 北村律太郎第5代工事事務所長
 「高さ140mアーチダムは、当時としては全国第3位であり、川治温泉郷眼下に、V字渓谷に屹立していく本体の建設は壮観であり、ダム技術的にも左右岸アバット岩盤強化PS工、特殊コンソリデーション工など、興味ある経験をさせて頂いたと思っている。原石の沸石類問題は、山口甚郎所長より引き継いだ重要な技術上の課題であったが、原石山での思い切った廃棄で概ね正常な骨材を得ることができた。乾燥収縮、温度応力による亀裂の防止対策として、骨材のプレクーリング、パイプクーリングの通水規制、断熱マットによる養生など、新しい試みで、よい成果を得られたものと考えている。右岸グラウトギャラリー奥での新断層の発見にはいささかヒヤリとさせられたが、土研での迅速な御検討を頂き、結果に支障がないということで、ツイているなとつくづく思った次第である。その他、縦亀裂の多い基礎岩盤、左岸の断層群等、設計・施工上の多くの問題も土木研究所各室の適切な御指導を頂き、無事に乗り切ることができた。」

 このようにみてくると、川治ダムの完成までの16年間は水没者の生活再建やオイルショクなど様々な問題に遭遇しているが、一つ一つの問題について、丁寧に対応しながら地元の方々のご協力を得て、竣工したことがよく分かる。

 所長たちの座談会のなかで、糸林芳彦所長は「これからのダムづくり」として、「後味のいいダムをつくりたいというのが、私の念願でございます。」と語っている。そういう意味では、川治ダムは完成後、水源地の住民と水の恩恵をうける千葉県下流住民との交流が続き、治水や農業用水、水道用水、工業用水における水の役割が、鬼怒川上下流域の人たちの親愛なる友情を築きあげた。


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