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10.大渡ダム(仁淀川)の建設

 仁淀川は、四国の雄峰石鎚山(標高1982m)にその源を発し、愛媛、高知両県にまたがって太平洋に流れる有数の河川である。流路延長 124km、流域面積は1560km2で、その大部分は山地であるが、下流域は高知県の主要な農耕地をなし、最近は特に園芸農業が盛んである。

 また、仁淀川流域は、台風の常襲地帯に位置すると同時に、わが国有数の温暖多雨地帯で、上、中流域域の年間総雨量は、3500mmを越え、その殆どが、台風に起因しており、大洪水を引き起こす原因にもなっている。特に、昭和18年と20年には大洪水に見舞われ、各地に被害を受けたが、まだその復旧の進まぬ昭和21年の洪水ではついに下流域において破堤するなど、大被害を与える惨事となった。これらを契機として昭和23年11月から建設省直轄による河川改修に着手したが、昭和38年8月洪水では基準点伊野において約13,000m3/sにおよぶ出水となった。沿川一帯は近年益々土地利用の高度化、資産の蓄積が進み、治水の安全度をさらに向上させることが重要になってきた。

 このような状況から仁淀川上流に洪水調節、不特定かんがい等用水の補給、水道用水の供給及び発電をあわせた多目的ダムである大渡ダムが建設された。ダムは、左岸高知県吾河郡吾川村漬留、右岸同県高岡郡仁淀村高瀬に位置する。

 この建設記録について、昭和62年大渡ダム工事誌編纂委員会編『大渡ダム工事誌』『大渡ダム写真集』『大渡ダム図集』の3冊が建設省大渡ダム工事事務所から発行されている。

『大渡ダム工事誌』

『大渡ダム写真集』

『大渡ダム図集』
 大渡ダムの建設経過を追ってみると、昭和41年度に実施計画調査に入り、43年度工事に着手、46年9月損失補償基準妥結、51年6月ダムコンクリート打設を開始し、55年8月打設を完了した。そして56年試験湛水を開始したが、57年4月湖岸において地すべりが発生した為貯水位を低下し対策工事を行い、60年10月湛水を再開、61年7月試験湛水を終了し、11月に竣工、翌昭和62年5月大渡ダム管理所となった。

 ダムは次のように4つの目的を持っている。

洪水調節
 大渡ダム地点で計画高水流量6000m3/sのうち、2200m3/sの洪水調節を行い、下流域の洪水被害を軽減する。

・不特定かんがい用水の補給等
 主要地点における流水の正常な機能を維持させるため既得水利である鎌田用水、吾南用水に対して渇水補給を行うとともに、河川維持等に必要な流量の確保をはかる。

・水道
 高知市に対して120,000 m3/日(1.4 m3/s)の水道水を供給する。この1.4 m3/sは約30万人分の水道水を供給可能とする。

・発電
 大渡ダムの貯水池と落差を利用して、洪水調節及び他の利水に支障を与えない範囲で発電を行う大渡発電所(最大使用水量45m3/s、最大出力33,000kw)及び、大渡ダム貯水池を逆調整地として、洪水調節及び他の利水に支障を与えない範囲で発電を行う面河第 三発電所(最大使用容量1,080,000 m3、最大出力22,000kw)により発電を行う。

 一方ダムの諸元は、堤高96m、堤頂長 325m、堤体積 100万m3、有効貯水容量5200万m3、総貯水容量6600万m3、型式重力式コンクリートダムである。起業者は建設省(国土交通省)、施工者は大成建設、事業費は781.83億円(アロケーション治水89.8%、水道 4.7%、発電 5.5%)を要した。

 なお、主なる補償は、吾川村53戸、仁淀村37戸、計90戸の移転家屋となり、取得面積 173.46ha、少額残存補償9世帯10戸、さらに公共補償では吾川村の小学校、付替国道2852m、村道 10974m、特殊補償では四国電力の発電所3件、鉱業権2件、漁業権2件が行われた。一部関係者が補償基準を不満として、ダムサイトに妥結小屋を設置し、ダム反対の運動が強化されたものの、収用裁決がなされ、その後和解が成立した経過もある。

 内水面漁組との補償解決後、昭和51年5月海区の漁組から、ダムによってドロメが獲れなくなるということで補償要求がなされた。高知大学の上森先生たちによる調査委員会での検討の結果、「影響がない」という回答を得た。この回答日11月16日の翌日から「けしからん」ということで、漁組が座り込みが始まった。


(撮影:Oh!Doだ!)
 この件について、下平典夫所長は前掲書『大渡ダム工事誌』なかで、次のように述べている。

『そのためには立ち入り禁止の区域をきちんと明示しなければならないということで、上流・下流の締め切りから左岸右岸の高いところへ、ずっとバラ線の柵を張りまして、「関係者以外、立ち入り禁止」という札をつけたり、ダムの下流から入ってくるところ、前の村道のところ、ちょうどコンプレッサー室がありました曲がり角のあたりに黄色い線を入れて、「ここから先は関係者以外、立ち入り禁止」という表示をしたわけです。
 機動隊は絶対に前に出ませんので、企業社と施工者が前に出て、そこで話し合いをするというか言い合いをした。最初は「工事をとめろ」、「いや、影響はない」という話し合いをしておりまして、3日ほどそれを続けましたが、向こうも、そう簡単なものではないという判断と、県のほうも、いつまでもというわけにもいかんので、「なんとか、もう1回、話し合いを」という斡旋もありましたから、「実力行使をしないのであれば、話し合いをしましょう」と。向こうは「工事をとめろ」というけれども、「それはできない。工事をやりながら話し合いはしましょう」ということで、さらに話し合いを続けていきましたが、最終的に回答をしたのは52年の春になってからでした。
 建設省としては、「影響はない。ダム完成後、影響があった場合には、調査して、損害賠償の協議に応じましょう」という文書回答をして解決しました。』

 さらに、渡辺利影所長は大渡ダムの施工技術について、次のように語っている。

『その特徴は、秩父古生層に建設された大規模ダムであり、設計に当たって、基礎岩盤に慎重な評価が加えられ、当時緒についたばかりのFEM解析の手法により、設計が行われたことであります。
 また、この解析法は、本ダムの大きな洪水流量を適格に処理する必要から我が国でも最大級の規模となったコンジットゲートの設計にも適用されています。
 一方、施工施設等では、原石の採取において、グローリーホール工法を改良した立坑ベンチカット工法が、環境等の立地条件を考慮して、ダムにおいてはじめて採用されています。
 また、管理面でみると、本ダムは、洪水調節において、予備放流方式が採用されていますが、これに対処するため、レーダ雨量計等を活用した降雨予測方式の開発や機動的にゲート操作が行えるよう設備において、様々な工夫が図られています。』

 このように工事誌は、ダムを造る側から記されたものであり、完成までの多大な苦労が伺えるものである。


『湖底に消えた仁淀峡谷』

 一方、大渡ダムを造られる側から著した書に、吉岡重忠著(株)発行『湖底に消えた仁淀峡谷』(昭和56年)があり、吾川村、仁淀村のふるさとを離れざるを得ない水没者の心情を切々と描いている。湖水に消えた別枝大橋、長渕小学校、みこの岩、どい瀬、石鎚様といかだ場、和田の氏神様(株)地主八幡様等を捉える。次の短歌にその哀愁が表現されている。

秋葉口のさまかはりたり眼下なる旧道もダムの水に隠れむ
                    (小野興二郎)

父のふるさと仁淀沢渡秋葉口の朱塗りの橋に立ちて思ふも
                    (源田多美子)

ダムとなる川岸に立ち真向えば高き山肌に茶畑の畝   
                    (源田多美子)

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