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2 分水問題 |
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河川水を大量に他の流域に導くときには、水利用の秩序が大きく変わる。このような流水の流域変更を「分水」と言い、水力発電における落差の確保、開発した水資源の導水などのために行われるが、その際に社会的な摩擦を招くことが多い。
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(1)尾瀬分水
ア 尾瀬分水計画
七五年間、その取り扱いが決着しなかった水利権がある。尾瀬分水の水利権である。 大正8年(1919)、関東水電(株)は、尾瀬ヶ原(福島県・新潟県・群馬県)から利根川(群馬県)に導水して発電する事業計画をたて、そのための水利使用を関係知事に申請した。知事に申請したのは、旧河川法では、河川管理は知事の権限とされていたからである。(戦前は、知事は内務大臣が任命し、水利権の許可など重要な処分については内務大臣の了承が必要であった。現在のような地方自治制度は整っていない。)
当時は、電力事業の最盛期であり、たくさんの電力会社が水力発電事業を計画し、争って水利権を獲得する状況にあった(注1)。早く申請して水利権を確保し、後に事業計画をより具体化して(申請した取水量などの変更を伴うこともある)工事に取り掛かるというのがその当時の通例である。尾瀬分水の水利権申請もその一つである。 この申請に対して、大正11年(1921)6月6日、関係知事は水利使用を許可した。その際に内務大臣の強い意向が働いたとされている。許可の際には工事計画は具体化していなかったが、分水量は毎秒6.12m3とされている。だが、後述するようにこの水利権をめぐって強い反対意見があり、工事着手に至らないまま、分水量を含めて尾瀬分水計画の具体的な内容は変更を重ねてきた。
概略は、尾瀬ヶ原からの流出地点付近(流出する河川は只見川、阿賀野川水系の本川であり日本海に注ぐ)を堰き止め、貯水池で流量を調節したのち、利根川(太平洋に注ぐ)の上流端付近までトンネル水路で導水してその落差により発電すると同時に、分水により増した流量で利根川に連なる発電所の発電量を増加させるという計画である。たとえば昭和13年(1938)には、国力増強のために電力開発が必要であるとして、尾瀬ヶ原に設置する堰の高さは80メートル、分水量は最大毎秒100m3、発電出力は52万キロワット強という最大規模の計画が提唱されている。(位置関係は図−2を参照)
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イ 二つの摩擦
この水利権は、大きく二つの摩擦を惹き起こした。最初の摩擦は、自然保護と産業開発との対立である。当時から、尾瀬ヶ原の自然は貴重なものであり、その保護を徹底すべしという意見が強く、尾瀬ヶ原の貯水池化に対して学者の有力な反対があるばかりでなく、文部省もこの計画に消極的であった。一方、群馬県は、尾瀬ヶ原の面積の3分の2は群馬県に属することなどもあり産業需要に応える必要を説いたほか、国策として電源開発を優先すべしとして、逓信省(当時電気事業を主管していた)はこの計画の実現を強く後押しした。この対立をめぐっては、国会でも議論になったが、工事計画が具体的ではなかったこともあり、内務省は事業計画に対する判断を留保したまま推移したのである。
戦後を迎え、この水利権の一部として、尾瀬沼(尾瀬ヶ原の上流)から片品川(利根川支川)に年間2万トンを分水して発電することが許可され、昭和24年(1949)に実現した。工事が容易で、工作物は小さく、分水量も少ない。尾瀬沼の水深が3メートルの幅で調節されるが、自然への影響は軽微と判断されたのであろう。また、背景には戦後復興の必要(たとえば電力不足のため停電が珍しくなかった)もあったと推測される。しかし、争点となっている大規模な尾瀬分水の取り扱いについては決着しないままであった。
そして摩擦は別の形で再燃した。水資源の確保をめぐる争いである。経済の高度成長とともに、水資源の不足が問題となった。特に、首都圏は深刻な渇水に見舞われ、水資源の開発が急がれたが、このとき、尾瀬分水が注目されたのである。需要に比べて流量に余力がある只見川から、水需給がタイトである利根川に分水する計画は、水資源を有効に利用して、水問題を解決するために推進すべきものであると主張された。そして、関東の1都5県は「尾瀬水利対策期成同盟会」を結成して尾瀬分水の実現を働きかけたのである。
これに対して、自然保護の立場からの反対もあったが、むしろ強かったのは、分水元となる福島県などの、地域の水資源を奪われるという危機感による反発である。「水が不足するなら、水が豊富な日本海側に人口・産業を移転すればよい」というような主張もなされ、福島県、新潟県が中心となって東北地方の諸県に呼びかけて尾瀬分水反対の論陣を張った。このような主張は、水力発電か自然保護かで対立した戦前には見られなかったものであり、水資源の賦存が地域開発のポテンシャルを左右するという認識が広まった結果であろう。
水資源の確保をめぐって対立する首都圏各都県と東北地方諸県は、双方が競い合って国会への請願などの運動を続けたが、容易に決着する問題ではない。当然、関係知事の意思が一致するはずは無く、内務省から河川行政事務を引き継いだ建設省は、判断を留保し続けるほかなかった。
ウ 水利権の取り扱い
ところでこの間、水利権はどうなっていたのであろうか。権利は、合併などに伴う地位の一般承継により、関東水電(株)から、東京発電(株)、東京電灯(株)、日本発送電(株)と次々に引き継がれ、昭和26年(1951)には東京電力(株)が権利主体となった。
河川法による許可は、許可条件として付された期限までに工事に着手しないとき、事業実施の見込みがないときなどの場合には取り消すことも可能である。だが、工事着手に関して賛否両論があるなかでその処分を下すのは難しい。一方、大正11年の許可に際して、水利使用の期限は昭和21年(1946)3月末とされていた。その期間が満了するときには、期限の見直しをしなければならない。当時の権利主体であった日本発送電(株)は、許可期限の延長を申請し、その際に同時に、前述した尾瀬沼からの小規模な分水を申請した。そして、尾瀬沼からの分水が許可されるとともに、尾瀬分水水利権の期限は昭和31年(1956)3月末まで延長されたのである。(期限の延長は、10年単位で許可されるのが通例である。)
その後、さらにもう一度期限が更新され、昭和41年(1966)年3月末までとなる。その間、東京電力は、自然保護への要請と首都圏の水資源確保の要求を満たすような現実的な案として、尾瀬ヶ原の貯水池化計画を取りやめて単純に利根川に導水することとし、他方、分水量は毎秒約20m3に増加させるというような事業内容の変更を検討して申し出るなど、事業実現に向けて努力を重ねたが、事業の着手について社会的な合意を得ることはできないままであった。
さて、昭和41年(1966)4月1日、新河川法が施行され、一級河川の水利使用許可は建設大臣が行うこととなった。只見川は一級河川に指定され、尾瀬分水水利権の管理事務も建設大臣に引き継がれることになったが、時あたかも、同水利権の許可期限はその前日までである。そしてこのとき、許可期限の延長申請に対して、3月30日付で福島県知事及び新潟県知事は不許可の、同31日付で群馬県知事は許可の処分をそれぞれ下して建設大臣に進達した。関係知事の意思が一致していないので処分は成立せず、判断が保留されたままの申請として事務が引き継がれたが、水争いに当たっての当事者の意志の強さを垣間見る思いがする(注2)。
このとき建設大臣は、期限延長の申請は受理するものの、判断を避けて処分を保留した。水利権は、許可期限が到来しても、権利保持の意思が継続していれば当然には失効しないと解されているから、尾瀬分水水利権はそのまま存続する。東京電力は、建設大臣に対して速やかに期限延長の許可処分をなすよう行政不服審査を請求し、水利権が失効しないよう注意を怠らなかったし、その後も、10年ごとに期限延長を申請した。そしてその度ごとに、首都圏都県は事業推進、東北地方諸県は不許可処分を求める請願運動を展開したのである。
しかし、尾瀬分水への関心は徐々に薄れ、すでに実現している尾瀬沼からの分水に対しても自然保護の観点から批判が高まるなか(水位低下により湿原の乾燥化が助長されるなどの問題が指摘されている)、事業が実現する可能性は小さくなった。一方で、平成5年(1993)に行政手続法が制定され、行政処分の標準処理期間を定めるための努力が求められるなど、処分を留保し続けることの妥当性が問われかねない事態に至った。そのような背景のもと、建設大臣が処分の責任を負ってから30年後の平成8年(1996)3月31日、東京電力は、許可期限の延長申請を断念する決定を下し、尾瀬分水水利権の放棄を表明した。大正11年に許可された水利使用は、実行されないまま失効したのである。(念のために付記すれば、尾瀬沼から片品川へ分水する発電水利権はなお有効である。)そしてこれを受けて、「尾瀬水利対策期成同盟会」も解散された。 ここに、3四半世紀にわたる尾瀬分水問題が決着したのである。
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(2)分水の難しさ
尾瀬分水問題の長い歴史から汲み取るべきことは多い。たとえば、
@ 自然保護と産業開発の摩擦は決して新しいテーマではなく、その決着に一般的なルールはないということ
A 発電水利権について、あたかも鉱業権のごとくに先に調査・着手したものに優先権があるというような暗黙のルールが存在したこと(ただし、水利使用の許可に当たっては先願者が優先するというルールは無い。現実にも、許可されたまま工事着手されていなかった発電水利権が、その後申請された他の事業者の発電計画と競合し、後者のほうがより合理的で実現性があるとして、前者が遊休水利権として取り消された例もある。)
B 利水事業への関心が水力エネルギーから水資源へとシフトし、それに伴って水利用秩序の捉え方も変化したこと
などは、ダム建設に当たって参考となる事実であろう。 そのなかで、分水の難しさを二つあげておきたい。
ア 資源の争奪競争
第一は、分水は、地域の対立を招きやすく、利水の利便性だけによっては決着しないということである。水資源は流域が共有する資源であり、それが他の流域に流出する場合には、流域全体の合意が必要となる。もちろん、分水に当たって事業に合理性が求められるのは当然であり、また、分水元の河川の正常流量を確保するなど既存の水利用は尊重される。だが、流域を共にする人々は一種の運命的な共同体を成しており、その利害について敏感になりやすい。そのため、分水問題は政治的な課題や争点と化すに至ることが多いのである。
それが極端なかたちで現れたのが、尾瀬分水をめぐる首都圏と東北諸県との対立であった。そして、同じような事情による対立は、全国に数多く見られる。
たとえば、福島県と新潟県は尾瀬分水問題では連携したが、只見川の電源開発をめぐっては鋭く対立した。只見川(その水源は尾瀬ヶ原である!)は、水量豊富で落差が急である(包蔵水力が大きい)ことから水力発電に有利な条件を備えていた。そこで戦後すぐに、その総合的な電力開発が計画された。
案は二つあった。日本発送電(株)による案は、只見川本川にダムを連ねて、発電と逆調節(電力需要に応じて発電すると河川流量が大きく変動する。そこで、発電機の下流側に貯水池を設けてその変動をなだらかにすることが必要となるが、この操作を逆調節、そのための施設を逆調節池と言う。)を連続して行うことにより発電の効率を高めるというものである(本流案)。新潟県の案は、只見川上流部にダムを建設し、そこから信濃川の支川に導水して、それ以後は主として水路で発電所を連ね、併せて下流部の水田灌漑に活かして食料の増産にも資するというものである(分流案)。
この両案をめぐって、福島県と新潟県とが対立し、大きな政治問題となったのである。5年にわたる論争の後、昭和28年(1953)に国に設けられた委員会は、本流案を採用しながらその一部として分流による発電を加えると決定した。本流案は計画の合理性に勝るという理由であったが、ここでも、分水計画は否定されたのである。なお、一部実施することとされた分流による発電は、結局その8年後に中止になった。もともと分流案は具体性に欠けていたという意見が強い。 このように、分水をめぐる地域対立は、深刻化する傾向が強いのである。
イ 新しい環境の形成
分水の難しさの第二は、分水は地域の自然的な条件を変え、新しい環境を形成するということである。流域内での水利用であれば、使用後の水はまた同じ流域内の河川に戻る。しかし分水により失われた水は決して還元されないから、その影響は複雑であり、既存水利使用への影響のみで評価するわけにはいかない。慎重さが求められるのである。一方、分水を受け入れる流域も、分水により増加する水資源を所与のものとして、それを前提に生活や産業が展開される。通常、分水は、分水元の河川の自然流量のうち豊水部分(おおむね、正常流量を上回る流水)を取水するのであるが、そうであっても分水を受ける河川の渇水安全度は向上するであろう。分水による直接の目的が失われてもすぐに分水を中止できるとは限らないのである。
仮に尾瀬分水が具体化したとすれば、再度この観点からの吟味が要求されたであろう。尾瀬沼の減水さえも生態系に与える影響が問題となったのであるから、尾瀬ヶ原の水位変化は当然として、只見川全体の河川環境への影響についても慎重、厳密な検討を加えなければならない。また、東京電力は、期せずして利根川に新たな水を供給する事業を進める責任を負うことになり、事業の完成後は、水利用の秩序を保つ上で重要な役割を担うことになったかもしれない。尾瀬分水が具体化すればこれらの問題と直面せざるを得ないのである。環境アセスメントのみならず社会的な影響評価が求められたであろう。地域間の対立以外に、その評価の難しさが尾瀬分水推進の大きな障害となったのではないかと推測される。
ウ 地域計画とともに
ところで、分水が地域間の争いとなりやすいのは、自然流量の一部を他流域に通水することから、いわば資源の争奪競争のような状況を呈するからである。一方、水資源開発によって生み出された流水はもはや自然の存在とは違うものと捉えられ、その利用に関しては開発者の意思が優先する。取水した流水を他流域に導いて利用することも許容されやすいのであるが、この場合にも、利用された水はもはや取水した流域には戻らない。開発された水資源といえども当該河川の流水であることには変わりはないし、取水される水の相当部分は貯留水ではなく自然流水(ただし豊水)であるから、取水元の流域にとっては、分水と同じような影響が生じる。
従って、開発した水資源の大規模な他流域への導水に当たっても、分水の場合と同様の注意が必要となる。実際、導水事業の取水位置はできるだけ下流部に位置するよう配慮される。また、その水源を河口堰による水資源開発に求めることが多い。取水地点の下流に既存の水利使用が少なければ、取水による影響も最小限に留まるからである。(もっとも、河口近くでの大規模な取水や堰による流況調整は、漁業影響というもう一つの難しい問題を抱えやすい。)
結局、分水を伴う事業は、水利用の問題に留まらず、地域整備の課題とならざるを得ない。そして、地域の総合的な整備計画の一環として実施される導水は、比較的円滑に実現する。地域整備計画の策定の過程で、地域の利害が調整され、合意が形成されるからである。
たとえば、利根川上流部で開発した水資源を利根川中流部から荒川に導水する事業(武蔵水路)は、最大で毎秒50m3という大規模なものであるが、大きな摩擦は起きず、むしろ農業用水の合口など、水利秩序を合理化するきっかけとなった。この事業が順調に進んだ最大の理由は、東京の深刻な水不足(1964年のオリンピック渇水では、最大50%の給水制限が実施された)の解消という強い要請があり、社会的な合意を得やすい状況にあったからである。しかしそれだけでなく、歴史的に利根川水系と荒川水系の水利用が密接な関係にあったこと、首都圏整備計画に位置づけられた事業であること、両水系が水資源開発基本計画のもとにあって事業調整のしくみが用意されていたことなど、地域の一体性を確保できるような環境が整っていたことも合意形成に大きく寄与した(注3)。
このように、分水には地域間の摩擦が伴うことを覚悟しなければならない。そして、地域社会の問題である以上、水利使用者のあいだの交渉・調整に委ねるだけでは対応が難しいのである。その成否は、事業が切実なものであることのほか、地域計画への位置づけが鍵を握るであろう。
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(注1)明治初期の河川利用は、農業用水、漁業、舟運によって占められていたが、これらの者が形成していた河川利用の秩序に、新たに参入したのが水力発電であった。水力発電のためには水利権が必須の財産であり、だからこそ、電力会社は水利権の申請を競った。そして申請に当たっては、補償を含む関係河川利用者との調整が鍵となることも多かった。水利権は、鉱山採掘事業における鉱業権と同様に、水力発電事業における中核的な事業資産であり、その獲得は、事業のための先行投資と考えられたのである。 なお、水利権は、電気事業の会計において無形固定資産とされ、水力発電設備の一部を構成する(電気事業会計規則)。その価額は「取得原価」によるとされているが、包蔵水力(利用可能な水力資源を電力に換算したもの)や開発可能性その他の調査に要した費用、水利使用申請の際に支払った漁業補償費などはこれに含まれるであろう。また、水力発電事業は河川流量の変動により収益が左右される(特に、水路式発電では豊水のみを使用することが多いからその変動が顕著に現れる)ため、その変動を平準化すべく「渇水準備引当金」の積み立て、取り崩しが義務づけられている(電気事業法第36条)が、これは、河川水量が経済的な価値として評価される一つの例である。
(注2)尾瀬分水をめぐる地域的な対立の記録として、「尾瀬と只見川電源開発」(只見町史資料集第3集、只見町史料へんさん委員会、1998年)が貴重である。ここで述べた歴史的な事実の多くは、これによるところが多い。 また筆者は、昭和52年(1977)から約2年間、建設省河川局水利調整室に勤務し、尾瀬分水水利権も担当する立場にあった。もちろん許可期限延長に関する事務手続きを進めるような状況にはなかったが、管理している書類を調べながら、知事から引き継いだ大正11年の水利権申請書が墨書であること、東京電力の行政不服審査請求には権利保全のためであると付記されていることなどを確認して、歴史が生きていると強く実感した記憶がある。
(注3)流域を越える導水事業は、愛知用水、北総用水など灌漑のためのものが多いが、都市用水の利用を目的とした大規模な導水としては、香川用水(吉野川流域から讃岐平野へ、開発水源は早明浦ダム)、福岡導水(筑後川流域から福岡平野へ、開発水源は、江川ダム・寺内ダム・合所ダム・筑後大堰)がある。いずれも開発した水資源を利用するための導水であり、高松渇水(1973)や福岡渇水(1978)という深刻な水不足の経験が背景となっている。また両者とも、水資源開発基本計画(フルプラン)に基づく事業である。 なお、排水の位置も流域の水循環に影響を及ぼす。たとえば、取水された水が他流域に排水されれば、分水と同様に流域内への水の還元は期待できない。よく大規模な下水道計画において終末処理後の排水口の位置が問題となるが、これは水質だけではなく水利用秩序にも影響するからである。
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これは、「月刊ダム日本」に掲載されたものの転載です。
(2006年1月作成)
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