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10.寒河江ダム(最上川水系寒河江川)の建設

 寒河江市は山形盆地の西側に位置し、人口約44000人で周辺地とともにサクランボの生産地として有名である。

 寒河江川は朝日岳北麓を水源として大越川、八木沢川、熊野川、田沢川を併合し、寒河江市で最上川と合流する流路延長59.2km、流域面積478.4km2である。

 寒河江川流域は年間雨量は4000mmに及ぶが、急勾配の地形と相まって沿川地域に幾度となく大水害をもたらした。また降水量に恵まれているにもかかわらず、前述のように急勾配のため保水性に乏しく一度干ばつになると、水不足をきたした。このように治水、利水を含めて地域開発上に著しい障害となってきた。これらを解消するために寒河江ダムが施工されることとなった。

 平成3年3月建設省(現国土交通省)によって、寒河江川上流の山形県西村山郡西川町大字砂子関字横手、同大字月岡字ガバチの地点に完成した。

 このダムの建設経過を追ってみたい。

昭和43年    予備調査
  47年    実施計画調査
  49年 4月 寒河江ダム工事事務所開設
      5月 土地建物調査
  50年 6月 損失補償基準の協定調印式
  51年 6月 少数残存者補償契約
  52年 3月 水源地域対策特別措置法によるダム指定
      6月 本体工事起工式
  53年10月 仮排水トンネル完成、寒河江川転流
  56年 7月 国道112号(月山花笠ライン)開通
  62年 9月 フィル堤体本体盛立完了
  63年    水ケ瀞発電所の廃止
平成 元年10月 試験湛水開始
   2年 2月 竣工式
   3年 3月 寒河江ダム完成

 このダム建設について、東北建設協会制作『寒河江ダム工事誌』(寒河江ダム工事事務所・平成3年)、同『寒河江ダム資料集』(平成3年)、同『寒河江ダム写真集』(平成3年)、寒河江ダム工事事務所編・発行『寒河江ダム図集』(平成3年)、飛島・三井建設共同企業体編・発行『寒河江ダム工事誌』(平成3年)がある。

『寒河江ダム工事誌』

『寒河江ダム資料集』

『寒河江ダム写真集』
『寒河江ダム図集』

『寒河江ダム工事誌』

 これらの書から寒河江ダムの目的、諸元、特徴について記してみる。
 このダムは5つの目的を持った多目的ダムである。

◇ダム地点における計画高水流量2000m3/Sを最大300m3/Sに調整して放流することで、白川ダムや長井ダムの上流群と合わせて最上川の下野地点(村山市)の基本高水流量7000m3/Sを5600m3/Sに低減し、下流地域の洪水を防ぐ。

◇寒河江川及び最上川沿川の既得水利に対し用水を補給するとともに、ダム下流の寒河江川及び最上川に対し維持流量を補給し、流水の正常な機能の維持と増進を図る。

◇最上川、鮭川沿川の農地約5900haに対し、最大9.46m3/Sの農業用水を補給する。

◇村上地域6市6町(山形市、寒河江市、上山市、村上市、天童市、東根市、河北町、西川町、朝日町、大江町、山辺町、中山町)に対し、村山地区水道事業所から最大239000m3/日の水道用水を供給する。

◇ダム下流の本導寺発電所において、ダムに貯めた水の落差を利用して最大出力75000kwの発電を行い、また、寒河江川に築造された逆調整池を利用した水ケ瀞発電所において最大出力5000kwの発電を行う。

 ダムの諸元は堤高112m、堤頂長510m、堤体積 フィル堤体1035万m3、コンクリート26.5万m3、総貯水容量10900万m3、有効貯水容量9800万m3、型式は中央コアロックフィルダムである。起業者は国土交通省、施工者は飛島、三井建設共同企業体、事業費は1330億円を要した。建設費負担率は河川73.2%、水道9.8%、灌漑11.9%、発電5.1%となっている。

 寒河江ダムの技術的特徴について次の点を挙げることができる。(『東北のダム五十年』より)

左岸アバット上流部の堆積層については、掘削除去するより、押え盛土で対応することが得策となり、地震時挙動の安全性なども踏まえた堤体とのすり付け形状で設計。

非常用洪水吐きは自由越流式にすると越流幅が大きくなり大規模となるため、ダムゲートとして初めて大型フラップゲート(4門3m×14m)を採用。

◇寒河江川は多雪地帯であって、融雪期が長く冷水河川であり、またダム流入河川の一つである四ツ谷川は流域が荒廃しているため濁りやすく微細汚濁物の大きな供給源となっている。
 このような背景から寒河江ダムは、灌漑期の冷水、洪水時の濁水を考慮して、その対策として独立塔・直径5段取水ゲートを有するわが国最大級(塔高66.50m)の選択取水設備を設置。取水ゲートは直線多段式を採用し、リフティングビーム、整流版、ローラーゲートの3つの部分からなっている。

◇寒河江ダムは管理用電力を賄うための水力発電を設置し、七ケ宿ダムにおける管理用発電の先駆けとなった。

 また、わが国初のコンピューターを導入した「フィルダム工事管理システム」を開発し、盛立計画の立案、施工データの収集・分析・評価などの施工管理を迅速に行い、盛立工事の効率化を図り、足掛け8年、純施工日数1261日の短期間で盛立を完了。こうした技術に対し評価され、(社)全日本建設技術協会の「全建賞」、「第2回土木学会東北支部技術賞」を受賞した。

 前掲書の寒河江ダム工事事務所発行『寒河江ダム工事誌』のなかで、ダム計画から完成までの歴代所長の想い出を記してみたい。

「ダム計画について、振り返って見ると、山形工事で実施した予備調査時代に選定された狭窄部のダム軸線は地質的には閃緑岩からなるが、特に左岸側は断層破砕帯や貫入岩に沿って熱水変質作用を受け、相当量の地質調査を実施しても信頼出来る基礎岩盤確認するに至らなかった。そこで土木研究所とも慎重に協議した結果、当初計画の重力式コンクリートダムを中心コア型ロックフィルダムに変更すると同時に軸線を約100m上流に移動し現計画の通り確定した。」(初代所長 相原圭介)

「ダム築造後、年数が経つにつれて、この地質の弱点と対策工の使命というものが忘れられがちであります。そこでこの地質対策工の設計、施工内容を詳細に、明確に、しかも将来長期にわたって管理部門が引き継いでいくためには、この工事誌(図面集を含む)は唯一無二のものと考えられます。」(第2代所長 川村幸司)

「道路の建設上の問題は、地滑り、のり面崩壊の問題であり、工事の進捗とともに対応に追われた。ダムサイトの左岸の横手トンネルの工事の際に変化が生じたのもこの頃である。………112号の付替道路の下流の始点付近で、2回に亘ってのり面崩壊が生じ、ダム上流部落の交通を遮断することになり、迷惑をかけた。上流の人達との厳しいやりとりの中で御理解を頂いたものの、復旧の間に一時期、完成した上段仮排水路を一般交通に供したこと等は今でも苦い思い出である。」(第3代所長 城島誠之)

「国道112号付替工事にも思い出は深い。横手トンネルまで一部供用され、続いて小砂関トンネル、月山沢トンネルの貫通を待って、月山沢大橋の架設工事そして連続桁コンクリート床版打設工程へと入った。長さ315m、風が強く沢の深い30m近い高所作業のためか、順調に来ていた工事も56年冬にさしかかり、俄然、難工事に変わった。冷害が東北を襲った年でもあり、例年に比べ早い降雪は作業中の型枠、鉄筋の工事工程の遅れとなり更に一週間連続豪雪となって襲いかかり型枠と鉄筋内に食いこんだ雪を除去しなければコンクリート打設は不可能であり、そのまま工事を中断すれば雪の重みで型枠は谷底に落下するだろう。翌年7月の国道開通は大目標である。このため、直ちに、雪に慣れた地元業者の協力を要請し、数百人に及ぶ人海戦術による除雪作業を展開し、降雪のあい間を見て、一気にコンクリート打設を敢行し、工期は遅れたもののかくして56年7月国道112号は愛称〃月山花笠ライン〃として無事開通にこぎつけることができた。開通パレードに参加し、あの悪夢の様な11月の豪雪中の難工事を思いつつ、庄内、村山地方を結ぶ大動脈の完成に心から祝福した。」(第4代所長 荒井治)

「〃アイデア町長〃として知られる西川町の横山町長さんが噴水の話を事務所に持ってこられたのは私の二代前の所長のときのようです。安易にダム費では作れない。しかし、ダム事業に理解を示され、これまでなにかにつけて応援して下さった町長はじめ西川町の人達が、真に噴水を望むのであれば……………。まさに、晴天の霹靂でしたが、県単費による寒河江ダム環境整備事業補助金が決まり、これに一部町費も加えることで地元負担金が具体化したのです。」(第7代所長 斉藤晴雄)

 主なる補償関係は、水没等土地取得面積327.26ha、家屋移転105世帯、月山沢小中学校等の公共補償、漁業補償、発電所補償である。


『寒河江ダム補償生活再建

 寒河江ダム工事事務所編『寒河江ダム補償生活再建(東北建設協会・昭和53年)によると、昭和50年3月28日に損失補償基準発表、3ケ月後の6月26日に損失補償基準の協定締結がなされている。水没等移転105世帯の内訳は、水没93、付替道路3、少数残存者9で、地区別では西川町砂小関33世帯、月山45、四ツ谷8、二ツ掛19である。生活再建については、白川ダム、釜房ダム等の先例視察を始め、職業の斡旋、工場見学、職業の指導、西川町に集団移転地の造成、さらに山形県は移住者の移転の促進を図るために利子補償など積極的に行われた。その結果、移転先は、西川町22世帯、寒河江市55世帯、山形市20世帯、天童市5世帯、中山町1世帯、県外1世帯とそれぞれ新生活をスタートした。
 昭和51年4月29日、寒河江市では、ダム移入者を歓迎する集いで、成田市長は「お嫁さんを迎えた気持ちで、これからの生活に万全を図りたい」と挨拶。

 さらに、同年5月20日は寒河江ダム移転者新生活激励会が西川町開発センターで開かれ、新生活の門出を祝った。

 前述のように、損失補償基準提示から3ケ月後に補償妥結調印がなされたことは特筆に値する。この早期解決の一因は白川ダムの補償交渉の好影響を受けているようだ。白川ダムと同様に地権者と企業者は、誠実に用地調査や交渉を積み重ねるなかで、双方に「善意と信頼」の絆が成立していった。

 この信頼関係は、先例視察に出掛けたときのことを用地職員が次のように述べていることからも理解できる。

「水没住民のための釜房ダム視察に随行したときのことです。たまたま仙台七夕の期間でもあり、一番丁通りを見物させたことです。日中あつい暑中を、見物人の人込みの中を迷子?にならないようにお互い手をつないぎあってもらい、また私達は前後に立ち、寒河江ダムの小旗を目印に、幼稚園の先生よろしく、水没住民(オバチャン)達をフーフー汗をかきながら引率した思い出が、今でも目に見えるようです。」(高橋貞男)

 ダムの施工技術は次のダム建設に応用されることが多い。補償交渉もまた他ダムへの影響が強く反映される。


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