[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


ダムの書誌あれこれ(88)
〜東京都のダム(小河内ダム)〜

 これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事を一部修正して転載したものです。著者は、古賀邦雄氏(水・河川・湖沼関係文献研究会)です。
◆ 1. 竣工50周年の小河内ダム

 公共事業の一つにダム建設があるが、その完成までには必ずや幾つもの紆余曲折が到来する。ダム事業の成否は、起業者の財政力、組織力、技術力が必要条件であり、そのダム事業のニーズ即ち大義名分、地元の協調、協力、世論の後押しも絶対に欠かせない。さらに、その時代におけるわが国の政治的、経済的、社会的な状況に多大に左右されることは言うまでもない。また、ダム施行には必然的にダム建設を行う側、行われる側との間に、利害関係が生じ葛藤や確執が生じてくる。

 東京都は、これらの難問題を解決しながら、小河内ダムを昭和6年計画発表し、昭和32年6月に完成させた。平成23年既に完成以来半世紀が過ぎた。わが国の昭和30年〜33年にかけて完成したダムをみてみると、昭和30年佐波川ダム、湯原ダム、角川ダム、上椎葉ダム、須田貝ダム、野反ダム、31年奥泉ダム、来島ダム、糠平ダム、五十里ダム、佐久間ダム、宮川ダム、大牧ダム、32年殿山ダム、鎧畑ダム、井川ダム、鳴子ダム、33年八久和ダム、黒又川第一ダム、美和ダム、笹生川ダム、上野尻ダム、宇連ダムなどが挙げられる。

 この時代の状況は、昭和30年自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成、31年日ソ共同宣言、国際連合に加盟、32年南極観測隊が昭和基地を建設した。33年アメリカ地上軍日本本土から撤退、狩野川台風伊豆地方を襲来、東京タワーが完工した。このような時代背景のもとに、それぞれのダム完成までには、さまざまなドラマがあったことは確かだ。

 小河内ダムは、コレラ菌を防ぐため近代水道の確立を目的とし、さらに首都東京都における人口増加に伴い、水道水の供給を果たす重要な水源であった。昭和30年の東京都の人口は803.7万人に増大している。昭和6年に小河内村に貯水池計画を発表したが、多摩川下流の神奈川県稲毛・二ケ領用水組合との水利上の争い、水没する東京都小河内村・山梨県丹波山村・同県小菅村村民との確執などで延び、ようやくダムの基礎掘削工事を開始するが、日中戦争、太平洋戦争に遭遇し、極度な物資不足のために工事を中止、戦後工事を再開して、昭和32年に完成した。平成19年小河内ダム竣工50周年記念式典が開催されている。


◆ 2. 小河内ダムの目的と諸元

 私は平成22年10月に小河内ダムを訪れた。JR青梅線奥多摩駅から、西東京バスに乗り換え15分ほどで小河内ダム(奥多摩湖)へ着く。バスは満員だった。ダム湖周辺は、観光客や登山者の姿が目に付き、記念写真を撮る光景に出会った。小河内ダムは、都心から約65qの多摩川上流東京都西多摩郡奥多摩町、山梨県都留郡丹波山村、同小菅村に位置する。

 小河内ダム地点の選定について、18,000〜20,000万m3の容量を持つ貯水池が必要であることから、地形上の見地で丹波山、川野、麦山、河内、水根、中山、梅久保、梅沢、古里の9地点があがったが、河内と水根が残り、この両地点において、ボーリング、調査孔、岩質テスト等の調査結果のうえ、断層、フィッシャーの存在を考量して現地点の水根に決定した。小河内ダムの諸元とその目的について、東京都水道局編・発行『小河内ダム』『小河内ダム図集』(昭和35年)、小河内ダムパンフレットなどで見てみたい。

 ダムの諸元は、堤高149m、堤頂長353m、堤体積167.6万m3、堤頂幅12.6m、敷幅131.12m、堤頂標高530m、流域面積262.9km2、湛水面積425ha、最大水深142.5m、満水面積4.25km2、総貯水容量18,910万m3、有効貯水容量18,540万m3、型式越流型直線重力式コンクリートダムである。


『小河内ダム』
 なお、取水設備として次のように設置された。
@ 水道用は、内径1.6m鋼管を2条水平に布設。水は2種のスルースバルブの操作で取水管を通って、ハウエルバンガーバルブにより水褥池を経て多摩川に放流(最大取水量14.0m3/s)
A 発電用は、内径2.8mの鋼管1条を水平に据付け、下流面に沿うて発電所に入る(最大取水量21.5m3/s)
B 余水吐は、ダム上流90mの左岸にあり、高さ7.2m、巾12.3mのローラゲート5門を有し、開渠で水根沢へ放流される(最大洪水量1,500m3/s)
C 多摩川第一発電所はダム直下にあり、発電機(10,000KVA)2台で最大出力17,200kW、常時6,700kWを発電する。

 起業者は東京都水道局、施工者は鹿島建設(株)で、事業費150.76億円を要した。なお、戦前の一時中止まで2,800万円を支出した。着手年度昭和11年、竣工年度昭和32年である。
 戦後の工事は昼夜兼行で寒中も続行した。

 補償関係は水没世帯945、水没面積394.69ha、鶴の湯温泉利用権補償、東京電力氷川発電所導水路の補償、二ケ領用水負担金、鴨沢小学校移転補償、郷土芸術保存対策費補助などが行われた。なお、水没移転者945世帯は、昭和12年〜昭和18年の間、480世帯移転し、戦後昭和26年〜32年の間に465世帯が、それぞれ旧小河内村、丹波山村、小菅村、奥多摩町、青梅市、昭島市、埼玉県豊岡町、山梨県八ケ岳などに移った。


 ダムの目的は、@東京都民に対する水道用水の供給、Aダム直下の多摩川第一発電所による発電である。小河内ダムの水は、多摩川第一発電所に利用後、多摩川に放流され、下流約34q地点の小作取水堰とその下流2qの羽村取水堰で、水道原水として取水される。その原水は自然流下により村山上貯水池、村山下貯水池、山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山浄水場及び境浄水場へ送水され、さらに、導水ポンプにより小作浄水場へ送られる。また、東村山浄水場から原水連絡管により朝霞浄水場及び三園浄水場へも送水することが出来るようになっている。水道用水が主目的であるが、B灌漑用水及び観光にも役立っている。

 小河内ダムの流域は、東京都奥多摩町、山梨県小菅村、丹波山村、甲州市4市町村にまたがり、流域面積は262.8km2にも及び、東京都水道局はこの流域を含む多摩川上流域水道水源林を管理し、安定した河川流量の確保と小河内ダム湖の保全を図っている。なお、水道水源林に関しては、泉桂子著『近代水源林の誕生とその軌跡』(東京大学出版会・平成16年)に論じられている。

◆ 3. 小河内ダム建設のあゆみ

 小河内ダムの建設過程及び建設後状況について、昭和6年〜平成19年まで、東京都水道局浄水部管理課編・発行『小河内ダム竣工50年の歩み』(2007)のなかのダム年表に、次のように記されている。


『小河内ダム竣工50年の歩み』
@ 戦前のダム建設過程

昭和6年 東京市長、小河内村に貯水池設置計画を発表
     満州事変勃発
  7年 東京市が35区となり、隣接郊外の10公営水道合併
     多摩川水利使用許可願提出
  8年 ダム築造箇所の地質調査着手
  9年 小河内貯水池買収用地の測量に着手
  10年 多摩川下流水利問題、東京市と神奈川県との交渉不調
     小河内貯水池対策委員会設立
     小河内村、丹波山村、小菅村民の1,000人、小河内貯水池工事促進陳情に上京、
     警官隊と衝突、代表者47人が東京府庁に陳情
  11年 多摩川下流の稲毛・川崎二ケ領用水組合との水利上の係争問題解決
  12年 小河内貯水池建設事務所竣功式及び開庁式
     ダム基礎掘削工事着手
     日中戦争勃発
  13年 小河内ダム建設に伴う移転補償、東京市長と小河内村長と覚書調印
     小河内ダム仮排水路工事着手
     資材運搬専用道路築造工事竣工
     小河内貯水池総合起工式
  14年 府県道162号五日市〜甲府線付替工事着手
     11月から15年8月までの間、東京水道は通水開始以来初めて、大渇水に遭遇
     第2次世界大戦勃発
  15年 小河内ダム仮排水路工事竣工
     異常渇水により、玉川系時間給水
  16年 多摩川第一発電所の開発計画東京市で議決
     太平洋戦争勃発
  17年 25tケーブルクレーン据付(のち工事一時中止になり解体)
  18年 コンクリート施工設備ほとんど完成
     ダム築造用主要機械が海軍に徴用
     青梅〜氷川間鉄道工事完成
     拡張事業工事、戦争の影響により一時中止
     都制が施行され、水道事業が都営となる
  20年 水道事務所廃止
     第2次世界大戦、太平洋戦争終わる

A 戦後のダム建設過程

昭和21年 都から台湾総督府に譲渡した小河内貯水池ダム築造工事用機械類の
     買戻しに関し、台湾総督府残務整理事務所と東京都の間で覚書交換
  22年 キャスリーン台風により金町浄水場停止(23年3月復旧)
  23年 ダム事業再開、小河内貯水池建設事務所設置
  24年 技術顧問会議制度設置(昭和32年8月まで41回開催)
  25年 小河内ダム基礎グラウチング工事着手
  26年 東京都と小河内村補償関係覚書交換
  27年 東京都と丹波山村・小菅村補償関係覚書交換
     氷川〜水根間の専用鉄道輸送開始
  28年 小河内ダムコンクリート打込開始、ダム定礎式
  29年 小河内ダム築造用冷凍工場火災
  30年 多摩川第一発電所工事着手
  31年 小河内ダム余水吐のコンクリート打込開始
  32年 小河内ダム余水吐コンクリート打込完了
     小河内ダムコンクリート打込完了
     小河内貯水池貯水開始
     小河内ダム竣功式
     多摩川第一発電所発電開始
  33年 小河内貯水池築造工事殉職者87名の慰霊碑除幕式

B ダム建設後の状況

昭和36年 天皇・皇后陛下小河内ダム行啓
  39年 多摩川系大渇水、貯水量過去最低84万5千m3(0.46%)
  55年 小河内貯水池第2号取水施設完成
  56年 台風10号により完成以来最大放流870m3/sを記録
  59年 貯水池湛水開始以来初めてアオコ大量発生
平成元年 雲風呂橋架替完成
  3年 麦山浮橋架替完成
  4年 多摩川冷水対策施設完成
  5年 諸畑橋架替完成
  6年 記録的な猛暑、利根川水系異常渇水
  7年 ダム直下からの河川維持量の放流開始
  8年 第2号取水庭の小河内防災ヘリポート供用開始
  10年 「奥多摩水と緑のふれあい館」開館
  11年 小河内貯水池太陽光発電設備開所式
  13年 水道水源林100周年記念式開催
  16年 アオコ対策用表層水移送装置の設置
  17年 奥多摩湖がダム湖百選に選ばれる
  19年 奥多摩湖いこいの路全線開通
     小河内ダム竣工50周年記念式挙行

◆ 4. 小河内ダムの施工

 小河内ダムの施工については、前掲書『小河内ダム』のなかで、小河内貯水池建設事務所長佐藤志郎は、工事報告で次のように述べている。また、ダム工事写真集として東京都水道局編・発行『小河内ダム』(昭和32年)がある。

(1) 小河内ダムは、わが国で計画された最初の高ダムであり、その設計・施工に当たっては海外の著名なダムについての調査研究を行ない慎重に実施した。施工に当たっては最も重要視した点は基礎岩盤の処理とダムコンクリートの熱処理である。

(2) 岩盤処理については、精密なる地質調査の下に十分な掘削をなし、更に総延長約60,000mに及ぶ岩盤の強化並びに止水のセメント注入を実施し、ダムコンクリートの熱処理はプレクーリング及びパイプクーリングを併用してその完璧を期し、冷却管延長は実に940,000mに及んだ。


『小河内ダム』
(3) コンクリートの打込みは上下流方向に30m、これに直角に15mのブロックとし、一層の打上がり高さ1.5mの柱状工法により、各ブロックの縦横断継手面には、延べ142,000m2のセメント注入を実施した。

(4) コンクリート用骨材はその大部分を現地生産とし、毎時450tの生産能力を有する砕石工場を設備し、総生産量は約3,160,000tに達し、この外川砂590,000tを使用した。セメントは日本セメント株式会社製中庸熱セメントすなわち浅野マスコンセメント321,000tを使用した。

(5) 川砂とセメントの輸送は、国鉄氷川駅からダム地点まで専用鉄道を延長し、ダムコンクリートの打込み工程に応ずる輸送の確保をなし、その総輸送量は約1,000,000tに及んだ。この鉄道建設には設計施工とも日本国有鉄道に依頼し、昭和27年11月完成し、じらい本年(昭和32年)7月ダム工事完成迄円滑なる資材輸送の使命を果たした。

(6) 砕石工場、コンクリート混合所、25tケーブルクレ−ン等は、当初フーバーダムで使用した機械設備を中古品として輸入したものを基幹として1系統をもって発足したが、ダムコンクリート打込み工程の進展に即応し、主として国産機械をもって、それぞれ2系統に増強し、最盛期には1日最大3,600m3年間600,000m3に及ぶコンクリートを打込んだ。

(7) ダムコンクリート工事は、総量1,675,680m3で、昭和28年3月末打込みを開始して以来、昭和7月打込み完成まで4年3ヵ月を要し、工事は骨材生産工事を西松建設株式会社と、またコンクリート打込み工事を鹿島建設株会社とそれぞれ請負契約により施工した。

(8) 余水吐はダム地点上流200m付近より水根沢に放流され、その計画最大放流量は1秒間1,500m3である。

(9) 付替道路は満水面から5m乃至10m上の湖畔に沿って設けられ、トンネル18ヵ所延長約3,400m、橋梁8ヵ所延長780mを含み総延長23.5qに及ぶ、極めて観光価値に富む、幅6mの快適な道路で、特に貯水池を横断する深山橋長さ200mに及び、奥多摩湖の目として一段と景観を添えている。

(10) 小河内貯水池建設に伴う事業用地は、全体で1,500町歩であり、このうち保安林、水源涵養林等500町歩を除き、実際買収面積は約1,000町歩で、また事業用地内の移転家屋は、戦前および再開後の移転を含めて945世帯となった。

(11) 貯水池関係事業費は、工事着手以来昭和18年一時中止に至るまでに約2,800万円、昭和23年工事再開後今日迄に約145億円であり、その財源は大部分起債により、残りの一部は水道一般財源によった。

(12) 本事業は、水道の水源を確保することが主目的であるが、小河内ダム完成による調節流量によって極めて有利な水力発電事業が行なわれ、併せて灌漑利水に、洪水調節に、また観光の面での役割を果たす、多目的ダムである。

(13) 昭和11年本工事着工以来ダム岩盤掘削、施工設備、ダムコンクリート打込み作業並びに専用鉄道、付替道路その他附属工事等一切を併せて不測の事故により87名の尊い殉職者を出した。ここに謹んで殉職者の英霊に対し、敬虔なる感謝の誠を捧げ、その御冥福をお祈りする。


◆ 5. 小河内ダム工事の実態

 実際の小河内ダム工事ついて、施工者である鹿島建設(株)編・発行『小河内ダム工事誌』(昭和34年)には、図表を多く駆使しながら著されている。この書から追ってみる。

@ 岩盤掘削は当社着手前、既に水道局直営で約300,000m3は施工済みであったが、昭和28年2月上旬より本格的に左、右岸掘削に着手し、大半はパワーシャベル(日立0.6m3)、ブルドーザ(D−80)を使用し、硝はダンプトラック又は機関車(5t車鍋トロ索引)で下流側へ、又現場の状況に応じ軽索道及び木トロも併用し、総施工量200,000m3余に及んだ。なお、荒取掘削後の基礎岩盤の仕上処理(平均深さ60p)は慎重入念に大ダムの基礎として万全を期し施工した。


『小河内ダム工事誌』
A コンクリート打込みは、各プラントの設備が一応整っていたため、河床岩盤ブロック仕上完了後、昭和28年3月19日より逐次開始したが、諸種の故障続出し打設量は微々たる状況であった。しかし、第二混合所(昭和28年11月完成)、冷凍工場(昭和29年2月完成、第二混合所に直結)及び25tケーブルクレーン(昭和29年2月に完成)の新設、並びにコンクリート運搬路の改良工事、コンクリートバケット及び台車の改造を引き続いて実施し、昭和29年3月より漸く月間、30,000m3を越す態勢となった。このため左、右岸の右岸岩盤掘削及びコンソリデーショングラウチングのため打設ブロック(柱状工法長さ30m×巾15.0m×打上高1.5m)は、かなり掣肘を受けたが、昭和30年3月頃より漸くブロックが拡がり、月間50,000m3に達し、1日平均2,000m3の軌道にのり、昭和31年5月には66,776m3/月の最高記録を樹立した(日間最高3,500m3)。工程は計画通り順調に進み昭和32年1月より最終段階の標高+525m上の打込みにかかり堤頂部、車歩道及び高欄等を全部7月21日に完成した。

B 堤体の熱処理は、プリクーリングとパイプクーリングの両方を採用し、プリクーリングは、4月より11月迄行い、打設温度を標準+12℃とし、この間は冷凍工場直結の第2混合所を使用した。パイプクーリングは、これを二段階に分け、第一次クーリングは+4℃の冷凍水を打設直後より14日間通してコンクリート初期温度の上昇をおさえ、第二次クーリングは冬期間自然水を40日〜70日間通水し、最終安定温度+12.2℃迄冷却した。

C 基礎グラウチングは、低圧、中圧、高圧の3段階に分け、鑚孔深さ15m〜60m、圧力7.0kgf/cm2〜17.5kgf/cm2で、総延長35,370mに達した。継手グラウチングは堤体を堤頂より15.0mごとのグラウトリフトに分かち、さらに直角及び平行の継手面に分け各区分毎に堤体下流面に及び監査廊より施工した。

D 仮排水トンネルゲート閉塞作業は、昭和32年6月6日に午後7時実施し、予期の成果を収めて湛水が開始された。水は9日より取水鉄管を通り下流側に放流され(ハウエルバンガ−バルブ使用内径4.00mのフード管を経て放流)水褥池を経て、東電氷川発電所へ送られた。

E 湛水に伴いダム上流側諸施設(第一、第二混合所、冷凍工場、砕石工場及び運搬路設備等)の解体撤去をダムコンクリート打込終了後(7月21日)に始め3ヵ月ですべて完了した。

F プラント撤去後は、ダム下流側に別途にバッチャープラント(28切ミキサー2基)を設置し、雑工事全部のコンクリート約20,000m3を混合し、ダンプトラックで現地に運搬した。

G 多摩川第一発電所建築工事及び附帯工事とも11月20日に完成、21日から取水は発電用取水管に切替えられ発電が開始した。



 小河内ダムの竣功式は昭和32年11月26日に行なわれた。昭和13年着工以来、昭和18年には戦争に遭遇し、一時中止され、戦後の昭和23年工事が再開された。このように紆余曲折を経て、完成まで18年の歳月が流れた。当時国内で施工されたダムの高さは70m級であったが、その2倍にもなる150m級のダムの完成に至ったことは、日本のダム技術者の優秀性と勤勉性、努力性を物語っている。特に、現代では、高ダムの施工法はRCD工法によるが、この工法は昭和40年代後半から開発されたもので、小河内ダムは従前の柱状工法であった。既に述べてきたが、これは非常に手間がかかり、15mずつのブロックに分けて上下流に適当な長さに切って、そこにコンクリート打設し、パイプクーリングをして、さらにジョイントグラウチングというブロック間の隙間を埋め、なおかつ熱処理を施さなければならない。しかしながら、これらを克服して総貯水容量18,910万m3の壮大なダム湖が誕生した。


◆ 6. 戦前における小河内ダム問題

 水没移転者は945世帯であるが、昭和12年から昭和18年の間、480世帯が移転、残りの465世帯は戦後の移転となる。前述の小河内ダム建設のあゆみを振り返ると、昭和10年小河内村、丹波山村、小菅村民1,000人が小河内貯水池工事促進陳情に上京、警察官と衝突事件が起こった。昭和12年には日中戦争が勃発、村中の若者たちは出征。このような世情のダム造りで、昭和13年小河内村の補償の合意がなされた。この合意に関し、小河内村役場編・発行『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)に、小澤市平小河内村村長の苦渋の心境について、次のように述べている。

千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影を見ざるに至る。實に断腸の思ひがある。けれども此の断腸の思いひも、既に、東京市発展ため其の犠牲を覚悟したのである。我々の考え方が単に土地や家屋の売買にあったのでは、先祖に対して申訳が無い。帝都の御用水の為の池となることは、村民千載一遇の機会として、犠牲奉公の實を全ふするにあったのである。村民が物の売買観のみに終始するものであったなら、それは先祖へ反逆でありかくては、村民は犬死となるものである。


『湖底のふるさと小河内村報告書』
 さらに、次のように続く

「顧みれば、若し、日支事変の問題が起こらぬのであったならば、我等と市との紛争は容易に解決の機運に達しなかったらうと思ふ。昭和十二年春、東京市が始めて発表した本村の、土地家屋買収価格其の他の問題は、我々日本国民として信ずる一村犠牲の精神と価値と隔たること頗る遠く、到底承服し得られぬ数字であった。本村は粥を啜っても餓死しても水根澤の死線を守って、権利の為めに抗争し、第二の苦難を敢えてしやうとした村民であったが国内摩擦相剋を避けんとする国民総動員運動の折柄に、我等は此の衝突こそ事変下に許すへからずとして、急転して解決に向ったのである。是れこそ対市問題解決の動機である。今日円満な解決を来し当局と提携事業の進行を見るのは同慶至りである。


 また、水没村民の子供達も故郷を去らねばならない。その心情を表した本澤貞子の作文をこの書から引用する。

春の山吹やつゝじ、夏の山百合や秋のもみじ、又幾千年の昔から行なわれた車人形、獅子舞など私達にとっては最も楽しく、何時までも何時までも心に残り、夢となる事でせう。もう留浦で多くの人々は家をこはした様です。農夫の働く有様を見ても後幾年も居られないのだ、留浦の方では豊岡へ八王子へと行ってしまふのになどと思ひ心細くて耕すのもいやだと言う様な風も見えます。東京市民六百萬の為だと考へますれば、しかたがありません。私達は喜んで懐かしい村を後に致しませうさあ皆さん、一緒に今迄御恩になった小河内へさよならを言ひませう「小河内よさようなら」小河内の諸神様よ新しき村に行ってから後も、何時までも何時までも私達小河内村民をお守りなさって下さい。そして立派な国民になれます様に

 昭和10年にかけて、小河内ダム建設の問題は、センセーショナルな事件として、マスコミに度々取り上げられた。徳富猪一郎、鳩山一郎、大野伴睦、北原白秋など多くの有識者から水没村民に援助と同情が寄せられた。ダム問題に揺れる村民、村長、水道関係者の動向に関し、社会派小説家石川達三は『日陰の村』(新潮社・昭和12年)で描いた。また、歌手東海林(しょうじ)太郎は「夕陽は赤し、身は悲し、涙は熱久頬を濡らす、左らば湖底のわ可村よ、幼き夢能ゆりかご与」と歌った「湖底の故郷」(作詞島田磬也・作曲鈴木武男)は、なおさら村民の悲哀をかき立てる。昭和41年その歌碑はダムサイトに建立された。必ずや物事には光と影が伴う。

 多摩川上流からの水によって益々東京は発展していくことになるが、その反面、多摩川上流の村々は東京の発展の犠牲になる。即ちこのことが「日陰の村」となることを如実に物語っているといえる。ダム問題は、常に都市と農山村の相剋として現われることになる。


『日陰の村』
◆ 7. おわりに

 昭和13年ダム移転者のうち28戸は、八ケ岳の麓清里に移転し、開拓に挑んだ。荒野を血の滲むような努力で切り開いていく。次々と開拓の人々に困難が襲い、それに立ち向かい、力を合わせて克服していく。その困難が感激に変わりやがて軌道にのり、楽土を拓くことになる。この清里開拓の成功は強力なリーダーとそれにみんなが協力した結果である。開拓については、岩崎正吾著『清里開拓物語』(山梨ふるさと文庫・昭和63年)が刊行されている。小河内ダム建設の発端は、明治42年5月、当時の東京市長尾崎行雄が多摩川水源地を踏査し、ここにダムを造り、東京の水百年の計を決意したときと、云われている。

 東京の人口は昭和11年には600万人であったが、現在1,200万人ほどに増大し、水需要は増えた。今では、東京の水道は多摩川だけでなく、相模川、荒川、利根川の水からも供給されている。小河内ダム竣工後半世紀過ぎた。そこには人々の心を和ませてくれる静かな水景を映し出している。小河内ダムで貯められた水は、東京都民にとって大切な水、命の水であることはいささかも変わりはない。そういう意味で945世帯が湖底に水没したことと、殉職者87名のことは忘れてはならない。


『清里開拓物語』
[関連ダム]  小河内ダム
(2012年11月作成)
ご意見、ご感想、情報提供などがございましたら、 までお願いします。
【 関連する 「このごろ」「テーマページ」】

 (ダムの書誌あれこれ)
  [テ] ダムの書誌あれこれ(1)〜小 河 内 ダ ム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(2)〜佐 久 間 ダ ム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(3)〜松原・下筌 ダ ム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(4)〜児童書〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(5)〜小説を読む〔上〕〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(6)〜小説を読む〔下〕〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(7)〜三峡ダムを考える〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(8)〜台湾のダムを造った日本人・八田與一〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(9)〜温井ダムを訪れる〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(10)〜柳瀬・新宮・富郷ダムと銅山川分水〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(11)〜福岡都市圏のダム(曲淵・牛頸・猪野・鳴淵)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(12)〜佐賀県のダム(北山・厳木・天山)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(13)〜筑後川水系の水資源開発ダム(江川・寺内・筑後大堰・山口調整池)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(14)〜大分県のダム(白水・耶馬渓・平成大堰・行入・野津・矢田)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(15)〜大井川水系のダム(井川・畑薙・長島)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(16)〜神奈川県のダム(相模・城山・三保・宮ケ瀬)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(17)〜香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(18)〜兵庫県のダム(布引五本松・引原・安富・安室・長谷・生野・青野・三宝・大路・大日・牛内・成相・北富士)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(19)〜富山県のダム(室牧・久婦須川・熊野川・境川・利賀川・城端・上市川・上市川第二・布施川ダム・大谷・朝日小川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(20)〜吉野川水系の水資源開発ダム(早明浦ダム、池田ダム、旧吉野川河口堰)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(21)〜島根県のダム(尾原・志津見・山佐・三瓶・八戸・浜田・御部・大長見・美田・銚子)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(22)〜山口県のダム(小瀬川・弥栄・菅野・屋代・中山川・末武川・島地川・川上・荒谷・一の坂・今富・阿武川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(23)〜黒部川のダム(仙人谷・黒四・宇奈月)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(24)〜京都府のダム(大野・天ケ瀬・高山・日吉)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(25)〜石川県のダム(子浦川防災・手取川・小屋・八ケ川ダム・医王)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(26)〜奈良県のダム(猿谷・坂本・大迫・室生・布目・白川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(27)〜天竜川のダム〔上〕(泰阜・平岡・佐久間)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(28)〜天竜川のダム〔下〕(美和・小渋・市の瀬・大泉砂防・横川・片桐・箕輪)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(29)〜千曲川のダム〔上〕(奈川渡・水殿・稲核・高瀬・七倉・大町)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(30)〜千曲川のダム〔下〕(奈良井・水上・小仁熊・北山・古谷・余地・金原・内村・豊丘)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(31)〜山梨県のダム(広瀬・荒川・大門・塩川・深城)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(32)〜三重県のダム(宮川・蓮・君ケ野・滝川・青蓮寺・比奈知・安濃・中里)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(33)〜庄川・常願寺川・小矢部川のダム(庄川合口・小牧・御母衣・有峰・刀利)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(34)〜愛媛県のダム(大谷池・黒瀬・台・石手川・鹿野川・野村)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(35)〜宮崎県のダム〔上〕(轟・上椎葉・一ツ瀬・杉安)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(36)〜宮崎県のダム〔下〕(川原・沖田・田代八重・瓜田・広渡・日南)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(37)〜高知県のダム〔上〕(永瀬、大森川、穴内川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(38)〜高知県のダム〔下〕(鎌井谷、大渡、桐見、中筋川、坂本)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(39)〜青森県のダム〔上〕(目屋、久吉、早瀬野、二庄内)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(40)〜青森県のダム〔中〕(浅瀬石川、浪岡、小泊、下湯)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(41)〜青森県のダム〔下〕(浅虫、川内、天間、世増)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(42)〜山形県のダム〔上〕(白川、長井、前川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(43)〜山形県のダム〔中〕(蔵王、寒河江、白水川、新鶴子、神室、田沢川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(44)〜山形県のダム〔下〕(月光川、荒沢、月山、温海川、横川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(45)〜千葉県のダム〔上〕(山倉、高滝、亀山)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(46)〜千葉県のダム〔中〕(片倉、郡、矢那川、保台、山内)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(47)〜千葉県のダム〔下〕(印旛沼開発、利根川河口堰、東金、長柄)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(48)〜ダムの事典、ダムの紀行〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(49)〜ダムの切手、ダムの話、緑のダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(50)〜ダムの景観〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(51)〜ダム湖の生態〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(52)〜ダムの堆砂〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(53)〜茨城県のダム(飯田・花貫・小山・緒川)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(54)〜矢作川のダム(矢作・雨山・木瀬)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(55)〜埼玉県荒川のダム (上)(二瀬・有間)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(56)〜埼玉県荒川のダム (下)(浦山・合角・滝沢)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(57)〜長崎県のダム (上)(本河内高部/低部・土師野尾・萱瀬再開発)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(58)〜長崎県のダム (下)(相当・川谷・下の原再開発)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(59)〜熊本県のダム (上)(竜門ダム)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(60)〜熊本県のダム (下)(石打・上津浦・緑川・市房)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(61)〜鬼怒川のダム (上)(五十里・川俣)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(62)〜鬼怒川のダム (下)(川治・鬼怒川上流ダム群連携・三河沢)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(63)〜揖斐川のダム (上)(川浦・川浦鞍部・上大須)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(64)〜揖斐川のダム (下)(横山・徳山)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(65)〜長野県・味噌川ダム 〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(66)〜飛騨川のダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(67)〜木曽川水系阿木川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(68)〜桃山発電所、読書第1発電所、賤母発電所、落合ダム、大井ダム、読書ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(69)〜木曽川水系丸山ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(70)〜牧尾ダムと愛知用水 (上)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(71)〜牧尾ダムと愛知用水 (中)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(72)〜牧尾ダムと愛知用水 (下)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(73)〜呑吐ダム・加古川大堰〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(74)〜一庫ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(75)〜利根川水系神流川・下久保ダム、塩沢ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(76)〜阿武隈川水系白石川・七ヶ宿ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(77)〜利根川水系渡良瀬川・草木ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(78)〜利根川最上流・矢木沢ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(79)〜利根川水系楢俣川・奈良俣ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(80)〜神流川発電所(南相木ダム・上野ダム)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(81)〜雄物川水系玉川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(82)〜北上川水系江合川鳴子ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(83)〜北上川水系雫石川・御所ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(84)〜北上川四十四田ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(85)〜米代川水系森吉山ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(86)〜阿賀野川水系大川ダム・大内ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(87)〜東京都のダム(村山上貯水池・村山下貯水池・山口貯水池)〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(89)〜筑後川水系・藤波ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(90)〜江の川土師ダム、太田川高瀬堰〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(91)〜遠賀川福智山ダム・遠賀川河口堰〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(92)〜江の川水系馬洗川支川上下川 灰塚ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(93)〜九頭竜川 九頭竜ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(94)〜九頭竜川水系真名川 笹生川ダム・雲川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(95)〜九頭竜川水系真名川・真名川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(96)〜ダムマニアの撮った写真集〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(97)〜吉井川水系苫田ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(98)〜旭川水系旭川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(99)〜利根川水系薗原ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(100)〜淀川水系琵琶湖支川野洲川ダム・青土ダム・姉川ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(101)〜川内川・鶴田ダムとその再開発事業〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(102)〜筑後川・筑後大堰〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(103)〜阿武隈川水系大滝根川・三春ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(104)〜豊川水系宇連川宇連ダム・大島川大島ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(105)〜安里川水系安里川 金城ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(106)〜荒川水系中津川 滝沢ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(107)〜鹿児島県の川辺ダム、大和ダム、西之谷ダム〜
  [テ] ダムの書誌あれこれ(108)〜肝属川水系串良川支川高隈川 高隈ダム〜
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]