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日本の近代水道布設の目的の一つは、コレラ菌など伝染病の感染を防ぐことであった。明治10年9月長崎に来航したイギリスの商船からコレラ患者が発生、折からの西南の役後の帰還兵から瞬く間に全国に蔓延した。コレラ患者数13,710人、そのうち7969人が死亡した。さらに、明治12年愛媛から発生したコレラ患者数 162,637人、そのうち 105,786人が死亡している。
明治10年〜明治20年の水系伝染病発生の合計患者数 821,320人(死亡者 372,262人)で、その内訳はコレラ患者数 412,577人(死亡者 273,816人)、赤痢患者数 157,876人(死亡者39,096人)、腸チフス患者数 250,867人(死亡者59,350人)と悲惨な事態を引きおこした。明治10年の日本の人口は3587万人に対し、罹患率は非常に高い。のちに判明するが、その原因は汚染された飲み水による水系消化器系伝染病であった。ドイツ人コッホによるコレラ菌の発見は明治16(1883)年のことである。
このような伝染病に対処するために清浄な水道水が必要であった。日本初の近代化水道の布設は明治20年横浜(計画給水人口7万人)においてイギリス人工兵少将ヘンリー・スペンサー・パーマーの計画、設計、監督によって、水源相模川(取水口津久井町)から野毛山貯水池(横浜市)まで約43キロが施行された。
皮肉なことであるが、伝染病を防ぐ近代水道布設に尽力したパーマーさえも、明治26年腸チフスにかかり、リューマチを併発、脳卒中をおこし、54歳で東京麻布で逝去した。昭和62年パーマーの胸像が野毛山貯水池の公園内に建立されたが、この建立は、パーマーによる横浜に完成した日本最初の近代水道の百周年を記念したものである。
以上、日本の近代化水道の創設については、斉藤博康著『水道事業の民営化・公民連携−その歴史と21世紀の潮流』(日本水道新聞社・平成15年)と、樋口次郎著『祖父パーマー・横浜近代水道の創設者』(有隣堂・平成10年)を参考とした。
コレラの大流行を契機として、東京の近代化水道布設は明治21年に調査、設計が開始され、明治31年玉川上水路を利用し多摩川の水を淀橋浄水場(昭和40年廃止、現東京都庁舎を含む新宿副都心)に導き、沈殿、ろ過を行って有圧鉄管において給水を始めた。第一次水道拡張事業として、大正2年に村山貯水池、境浄水場の建設に着工、大正13年完成。大正15年金町浄水場、昭和9年山口貯水池がそれぞれ完成した。
第二次水道拡張事業として、東京市水道局は、人口 600万人の水道用水を確保するため、昭和6年多摩川上流(東京市西多摩郡小河内村、山梨県北都留郡丹波山村、同小菅村)地点に小河内ダム建設の計画を発表した。
ところが、昭和7年多摩川下流の神奈川県稲毛・川崎2ケ領用水組合との間で農業用水における利水上の紛争が生じ、解決に昭和11年まで要し、その約4ケ年の間、水没村民は塗炭の苦しみを味わった。ある水没村民は家業に手がつかず不安な日々を過ごし、また移転先を物色し、手付金を払ったのに補償金が出ず、手付金が無駄になった者もいた。さらに補償金を目当てに借金したためその利子の支払いで苦しい生活を強いられた者もいた。家屋や土地を抵当に入れて借金している者も多く、悪質な金融ブローカーが横行していた。これらの苦境を打開するために水没村民たちは、多摩川を下り、東京市庁へ陳情を行うが途中で警察官に阻止されている。この悲惨な状況下でも、日中戦争さなか村民の若者たちが出征していった。
昭和13年漸く小河内村の補償の合意がなされた。この合意に関し、小河内村役場編・発行『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、小河内村長小澤市平の苦渋のにじみ出た「補償の精神」を読みとることができる。
「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである。 我々の考え方が單に土地や家屋の賣買にあつたのでは、先祖に對して申譯が無い。帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、犠牲奉公の實を全ふするにあつたのである。 村民が物の賣買觀にのみ終始するものであつたなら、それは先祖への反逆でありかくては、村民は犬死となるものである。(中略) 顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば、我等と市との紛爭は容易に解決の機運に逹しなかつたらうと思ふ。 昭和十二年春、東京市が始めて發表した本村の、土地家屋買収價格其の他の問題は、我々日本國民として信ずる一村犠牲の精神と價値と隔たること頗る遠く、到底承服し得られぬ數字であつた。 本村は、粥を啜つても餓死しても水根澤の死線を守つて、權利の爲めに抗爭し、第二の苦難を敢てしやうとした村民であつたが國内摩擦相剋を避けんとする國民總動員運動の折柄に、我等は此の衝突こそ事變下に許すべからずとして、急轉して解決の方針に向つたのである。是れこそ對市問題解決の動機である。今日圓滿な解決を來し當局と提携事業の進行を見るのは同慶の至りである。」
水没村民の子供たちもまた、故郷を去らねばならない。その心情を本澤貞子(西高二女)の作文をこの書から引用する。
「春の山吹やつゝじ、夏の山百合や秋のもみじ、又幾千年の昔から行はれた車人形、獅子舞など私達にとつて最も樂しく、何時迄も何時迄も心に殘り、夢となる事でせう。もう留浦で多くの人々は家をこはした樣です。農夫の働く有樣を見ても後幾年も居られないのだ、留浦の方では豊岡へ八王子へと行つてしまふのになどと思ひ心細くて耕すのもいやだと言ふ樣な風も見えます。(中略) 東京市民六百萬の爲だと考へますれば、しかたがありません。私達は喜んで懐しい村を後に致しませうさあ皆さん、一緒に今迄御恩になつた小河内へさよならを云ひませう「小河内よさよなら」小河内の諸神樣よ新しき村に行つてから後も、何時迄も何時迄も私達小河内村民をお守りなさつて下さい。そして立派な國民となれます樣に。・・・・・」
このように村長は「帝都の御用水の爲め・・・犠牲奉公の實を全ふする」と、また子供も「東京市民六百萬の爲だと考へますれば、しかたがありません」と言明している。戦争という社会背景で、時代の流れがそのまま「補償の精神」を貫いている。
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