水道事業の概要と小河内貯水池について、約10分ご説明申し上げたのであるが、とくに渇水で貯水量が減少しているので、給水事業は楽観できないこと、そのため先ごろ、都民に対し、二〇%の節水を要望したことを申し上げたところ、皇后陛下は大きくうなづかれ、天皇陛下からは説明が終わったとき、はっきりしたお声で「大切な仕事だからしっかりやって下さい」とのお言葉を頂戴したのである。
二階の廊下に置かれたダムの模型についてご説明を申し上げたが、その際「移転世帯はいくらか、移転民には十分な補償をしたか」とのご下問に対し、私の「規定に基づき十分な補償をいたしました」との答えに、ご満足のご様子がうかがえた。
東京都民の日常生活に極めて大切な施設を見ることができて、大変に参考になった。現在満水時の三分の一の貯水量の状態を見て、節水の大切なことがよくわかった。将来のため、水問題はさらに研究を重ねてもらいたい。
白いモダンな形の魔法瓶。それがダム竣工式の記念品だった。当時は未だ珍しく、とても重宝させて貰ったものだ。顧みますと都民の水の確保と言う大儀の中で住民のそれぞれが新天地へと移動、我々の祖先は県営開墾事務所長、安池興男先生の斡旋により八ヶ岳への入植を決意。昭和13年4月大きな不安と期待を胸に2才の私と3才の姉を連れ、仲間28戸清里駅に降り立ち以来先生との深い交わりが生まれ運命を共にしたのです。足を踏み入れた八ヶ岳山麓は一面の笹の荒野で、物資の乏しい中での開墾の明け暮れ、気候的には夏青天井が我が家なりと快適だったが冬の雪と寒さは想像をはるかに絶し、誰れ彼れとなくこれでは子供が可哀想だ、学校がほしいと先生に懇願、早速国県に交渉するも理解が得られず最終、水道局のご高配により、これが大きな力となり昭和15年7月苦心の学校が完成。その経過は筆舌に難いものがあり当時における最大のエピソードである。その後住宅をはじめ計画された総てが完了、今日の基礎になっています。