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文献にみる補償の精神【54】
「移転民には十分な補償をしたか」
(小河内ダム・東京都)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. 昭和天皇の御製

 昭和36年10月25日、昭和天皇、皇后両陛下は、渇水で貯水量が減少した多摩川上流の小河内ダム(奥多摩湖)をご視察された。ご案内役を務めたのは東京都水道局長小林重一であった。このことについて、小林重一著『東京サバクに雨が降る』(自費出版・昭和52年)なかで、渇水した小河内貯水池に両陛下をお迎えして、という項目で次のように記されている。

水道事業の概要と小河内貯水池について、約10分ご説明申し上げたのであるが、とくに渇水で貯水量が減少しているので、給水事業は楽観できないこと、そのため先ごろ、都民に対し、二〇%の節水を要望したことを申し上げたところ、皇后陛下は大きくうなづかれ、天皇陛下からは説明が終わったとき、はっきりしたお声で「大切な仕事だからしっかりやって下さい」とのお言葉を頂戴したのである。

 さらに、小林局長のご説明は続く。

 二階の廊下に置かれたダムの模型についてご説明を申し上げたが、その際「移転世帯はいくらか、移転民には十分な補償をしたか」とのご下問に対し、私の「規定に基づき十分な補償をいたしました」との答えに、ご満足のご様子がうかがえた。

 このようにダムの移転補償のことについて、皇族のなかで問われたのは、昭和天皇が初めてではなかろうか。
 翌々27日両陛下のご視察のご感想が宮内庁を通じて、東京都へ次のように寄せられている。

 東京都民の日常生活に極めて大切な施設を見ることができて、大変に参考になった。現在満水時の三分の一の貯水量の状態を見て、節水の大切なことがよくわかった。将来のため、水問題はさらに研究を重ねてもらいたい。

 昭和37年正月御製が発表された。

  水涸れせる小河内ダムの水底にひとむら挙げて沈みしものを

 小林重一氏は御製について、小河内ダムのご視察で、移転民、その後の安否を気遣われ、また貯水池回復の大御心がうかがわれる、と記している。


2. 小河内ダムの建設

 小河内ダムは、都心から60kmのぼつた多摩川の東京都奥多摩町に位置する。その完成までには、苦難の連続であった。

 ダム建設の発端は、明治42年5月、当時の東京市長尾崎行雄が多摩川水源地を踏査し、ここにダムを造り、東京の水百年の計を決意したときといえる。
 昭和7年7月東京市会において第二水道拡張事業を議決、昭和11年7月事業認可、小河内村と補償交渉にはいるが、多摩川下流にある神奈川県稲毛川崎ニヶ領用水組合との水争いが生じ、ダム建設が延び、昭和13年11月建設工事に着手したものの戦時下により、ダム資材が不足。昭和18年10月太平戦争のため中断に至った。ようやく戦後の昭和23年9月ダム工事が再開され、昭和32年11月に完成した。

 その後の主な経過は、昭和55年3月第2号取水施設建設工事竣工、平成4年6月多摩川冷水対策施設(導水路)竣工、平成19年小河内ダム竣工50周年を迎えた。

 ダムの諸元をみてみると、堤高149m、堤頂長353m、堤体積167.6m3、流域面積262.8km2、総貯水容量1億8910m3、有効貯水容量1億8540m3、型式は非越流型直線重力式コンクリートダム、起業者は東京都、施工者は鹿島建設で、事業費は150.7億円であった。なお、移転家屋は945世帯である。残念なことに87名が工事で亡くなった。


3. 湖底の故郷

 前述の稲毛川崎二ヶ領用水の問題については、昭和8年から4年間かけて交渉がもたれ、水量調整がなされ、関係用水路改修費等を東京府も負担することで決着したという。この間小河内村、山梨県丹波山村、小菅村の移転者たちはどっちつかずで不安な日々を過ごし、この問題が解決後の補償交渉では、戦時下のなかで十分な協議もなされず移転せざるを得なかった。さらに太平洋戦争に突入したからなお更であった。

 「夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱久頬を濡らす 左らば湖底のわ可村よ 幼き夢能ゆりかご与」と東海林太郎が歌う「湖底の故郷」の碑は、昭和41年ダムサイトに建立された。


4. 補償の精神

 繰返すことになるが、昭和天皇は945世帯の行く末を心から案じておられ、「移転民には十分な補償したか」と尋ねておられる。ここに天皇としての補償精神が現われている。
 ただ、小林氏は「規定に基づき十分な補償をいたしました」と答えている。945世帯の行く末は時代の流れに翻弄された人達もいたのはなかろうか。しかしながらどのような境遇であったにしても、その苦難を乗り越えて人生を切り開いた人達もまたいたことは確かだ。


5. 清里の開拓

 東京都水道局編・発行『小河内ダム竣工50年の歩み』(平成19年)が刊行工された。八ヶ岳の麓に移転した酒井冶孝さんの手記が掲載されている。

 白いモダンな形の魔法瓶。それがダム竣工式の記念品だった。当時は未だ珍しく、とても重宝させて貰ったものだ。顧みますと都民の水の確保と言う大儀の中で住民のそれぞれが新天地へと移動、我々の祖先は県営開墾事務所長、安池興男先生の斡旋により八ヶ岳への入植を決意。昭和13年4月大きな不安と期待を胸に2才の私と3才の姉を連れ、仲間28戸清里駅に降り立ち以来先生との深い交わりが生まれ運命を共にしたのです。足を踏み入れた八ヶ岳山麓は一面の笹の荒野で、物資の乏しい中での開墾の明け暮れ、気候的には夏青天井が我が家なりと快適だったが冬の雪と寒さは想像をはるかに絶し、誰れ彼れとなくこれでは子供が可哀想だ、学校がほしいと先生に懇願、早速国県に交渉するも理解が得られず最終、水道局のご高配により、これが大きな力となり昭和15年7月苦心の学校が完成。その経過は筆舌に難いものがあり当時における最大のエピソードである。その後住宅をはじめ計画された総てが完了、今日の基礎になっています。

 また、清里の開拓については、岩崎正吾著『清里開拓物語』(山梨ふるさと文庫・昭和63年)がある。

 小河内ダムの移転者のうち28戸は清里に住みついた。次々と開拓のひとびとにこんなんが襲い、それに立ち向かい、力を合わせ克服していく。その困難が感激に変わり、やがて軌道に乗り、楽土を拓くことになる。
 この清里開拓の成功は、強力なリーダーとそれにみんなが協力した結果であろう。荒野を血のにじむような努力で切り拓いていくことなど、現在のダム移転補償からは考えられないことだ。雲泥の差である。時代の流れを感じてならない。


6. おわりに

 小河内ダムの水は、ダム直下の多摩川第一発電所で発電をおこし、放流された水は小作取水堰と羽村取水堰で水道原水として取水され、その水は、自然流下により村山貯水池、村山下貯水池、山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山浄水場および境浄水場へ、さらに導水ポンプにより小作浄水場へ送られる。また東村山浄水場から原水連絡管により朝霞浄水場、三園浄水場へも送ることができる。

 東京の人口は昭和11年600万人であったが、現在1200万人ほどに増大し、水需要も増えた。今では、東京の水道水は、多摩川だけでなく、相模川、荒川、利根川の水も供給されている。

 おわりに、近年の小河内ダムの出来事を追ってみたい。
 平成16年アオコ対策用表層水移送装置の設置、17年ダム湖百選にえらばれる。18年奥多摩水と緑のふれあい館来館者200万人達成、19年奥多摩湖いこいの路開通、小河内ダム竣工50周年記念式典が挙行された。
 半世紀後もまた、小河内ダムの水は、東京都民にとって大切な水にはいささかも変わらない。そういう意味で945世帯が湖底に水没したことを忘れてはならないだろう。

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(2009年8月作成)
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