どんなダムキーワード検索:水没・移転・・・


相俣
(あいまた)
群馬県
水没による移転によってできた名湯・猿ヶ京温泉
江戸時代には三国街道の関所がおかれるなどした歴史のある温泉だが、ダム建設のため湯島、笹の湯の2つの温泉が水没するため、移転したのが現在の猿ヶ京温泉。赤谷湖の湖畔に大きな旅館・ホテルが建ち並ぶ。猿ケ京という名前は、上杉謙信が関東に赴く際に、ここに申の年の申の日に陣をはったためという説がある。
井川
(いかわ)
静岡県
ダム建設で193戸が移転
ダム建設により当時の井川村総戸数 550戸のうち35%にあたる 193戸が移転。井川村は補償三原則を要請し、斎藤寿夫静岡県知事はこれをを受け入れた。それまでの金銭補償より代替補償を重視し、積極的に新しい村造りが行われた。宅地造成、耕地造成はもちろんのこと、井川小学校、井川中学校の移転、プールの新設、神社合祀移転、簡易水道の布設、巡査駐在所の新設、火葬場の新設、共同墓地の造成なども行われた。
永源寺
(えいげんじ)
滋賀県
213世帯が移転
175戸の水没世帯を含め 213世帯が移転。それもあってか、完成までにかなりの年数を要している。
大島
(おおしま)
愛知県
大島ダム移転者感謝の碑
ダム管理棟から700m程上流のダム湖畔、移転前の集落を見下ろす位置に「大島ダム移転者感謝の碑」がある。試験湛水中の平成13年10月4日に移転世帯や関係機関が出席して除幕式が行われた。水源地域と移転者への感謝の意を表することを目的に建立。碑の裏面には水没移転者の氏名とともに移転前の集落の航空写真が。
大滝
(おおたき)
奈良県
丹生川上神社上社と宮の平遺跡
丹生川上神社上社が水没する。丹生川上神社は、平安中期以後二十二社の一つに数えられる由緒ある神社。しかし、戦国時代の乱世の世に衰退し、所在が不明に。明治から大正時代に、現社地が丹生川上神社上社とされた。水没するため、平成10年に現社地より南西側の高台に遷座。その敷地から遺跡が発見され、3年間に渡って発掘調査。縄紋時代早期から晩期にわたる大規模な縄紋遺跡。
大滝
(おおたき)
奈良県
500戸近い移転戸数
関連事業を含め移転戸数は500戸近くにのぼる。補償関係の話し合いは長期に及び、地権者団体との間で補償基準が合意できず、昭和49年からは異例の個別交渉方式による補償交渉が行われた。その後、土地収用も。補償に長期を要した代表事例では。ダム建設と地域の関係を考える上での貴重な教訓を残したとの指摘も。
小河内
(おごうち)
東京都
石川達三の小説「日陰の村」の舞台
戦前、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々は、そこになかなか順応できず、戦後も窮乏や流転をくりかえした。1937年当時、作家石川達三はその様子を「日陰の村」という小説にえがいた。
小河内
(おごうち)
東京都
移転総数945世帯
建設のために移転を余儀なくされた世帯は総数945世帯に及び、その大多数は旧小河内村の村民だった。昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意がなされたが、小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」と思いを述べている。
釜房
(かまふさ)
宮城県
181世帯が移転
水没地は北川と前川が流れ、耕地の多い豊かな土地だった。釜房ダムの建設によって、約408haが水没し、祖先から受け継いできた土地を離れ、181世帯1,103人が仙台市などへ移転した。
川内
(かわうち)
青森県
36戸が移転
ダム建設によって36戸が移転した。野平・留魂の碑が建てられていて、それによると、戦前、満州や樺太に移住したが敗戦によって故国の地を踏み、昭和24年この下北半島を開拓するも、入植20年にして国の離農政策によって止むなく42戸が離農、残36戸も川内ダムの建設により移転せざるを得なかったという。
川原
(かわばる)
宮崎県
武者小路実篤の「新しき村」
「友情」、「その妹」、「人間萬歳」などで知られる小説家・武者小路実篤(明治18年〜昭和51年)は、自然と社会と人間が調和した桃源郷の実現を目指し、「新しき村」を大正7年日向(宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城)に、続いて昭和13年埼玉県(入間郡毛呂山町大字葛貫下中尾)に創立した。日向の新しき村は、小丸川右岸沿いの土地 6.5haで、そこに子供を含めた18人が入居。その後、川原ダム(当時は浜口ダム)の建設に伴い、新しき村の土地の一部の水田4反2畝が水没した。
川辺川
(かわべがわ)
熊本県
代替地の造成が完了
ダム建設による移転住民の移転先として、五木村の中心部が移転する「頭地代替地」の宅地部分が完成し、役場など公共施設をはじめ家屋移転もほぼ完了した。平成17年8月現在、中学校、高校の移転予定地と農地の代替地の前面盛土を施工中。
川俣
(かわまた)
栃木県
川俣湖温泉ができた
川俣湖温泉のある川俣集落は川俣ダムの建設にともない、この地に移転。1990年に温泉が発見された。湖畔の新しい温泉で、上流の川俣温泉とは異なる。ダム湖の名を持つ温泉。
境川
(さかいがわ)
富山県
ダム湖は「桂湖」
平成2年に公募。「レイクかつら」などの案もあったが、親しみやすいと桂湖に。桂集落がダム湖の湖底に沈んだ。
佐久間(元)
(さくま)
静岡県
補償交渉は団体交渉方式
用地などの補償交渉はそれまでは権利者と個別に交渉する方式だったが、佐久間ダムでは、町村ごとの対策委員会との団体交渉方式をとった。今は大規模ダムでは団体交渉方式が通常だが、その始まりは佐久間ダムらしい。水没個数296戸、用地買収面積約530haだった。
佐比内溜池
(さひないためいけ)
岩手県
湖底に佐比内鉄鉱山遺跡
佐比内鉄鉱山は万延元年(1860)に造られ、高炉2座を有し、明治2年まで鉄の生産が続いた。佐比内溜池ができてその湖底に水没したが、昭和56年(1981)の台風でダムが破損し、修理のため水が抜かれたときに調査が行われ、1番高炉に当たる遺構が確認された。水没しているが、遠野市指定の史跡となっている。
早明浦(元)
(さめうら)
高知県
水没は387世帯
ダム建設により多くの家屋が水没し、水没世帯は387世帯にのぼった。一時反対運動も強かった。昭和35年建設省のダム計画がほぼ固まったとき、大川村中切地区に「早明浦ダム絶対反対」の大看板を掲げ、村内 600ケ所に反対の立て看板が立った。砦として大川村役場庁舎コンクリート3階建を新築。昭和38年早明浦ダム調査所が開設されたときには、村民大会でダム建設絶対阻止が挙村一致で議決。
下筌(元)
(しもうけ)
大分県
蜂の巣城で有名
ダム建設史上最大の紛争と言われる「蜂の巣城紛争」。室原知幸氏を中心に13年余りに渡って反対運動が繰り広げられた。その後の公共事業の進め方に多大な教訓を残した。
下筌(再)
(しもうけ)
大分県
蜂の巣城で有名
1972年にできた下筌ダムは、ダム建設史上最大の紛争と言われる「蜂の巣城紛争」で有名。室原知幸氏を中心に13年余りに渡って反対運動が繰り広げられた。その後の公共事業の進め方に多大の教訓を残した。
下久保
(しもくぼ)
群馬県
310世帯が水没・移転
ダムの建設のために310世帯(773棟)が水没・移転した。また、学校・官公署が11棟あった。
滝里
(たきさと)
北海道
変わった外観の滝里ダム資料館
ユニークな外観。資料館全体を展示物としてデザインしたという。水没した滝里町の懐かしい街並みを映像で眺めることができる。アーチストによる様々なオブジェや、巨大な万華鏡のような映像シアターなど、他のダム資料館とは一味違う。開館期間は、5月〜11月中旬で、期間中無休。
滝里
(たきさと)
北海道
移転戸数136戸
ダム建設のため2市1町の3地区が水没。移転戸数は136戸にのぼる。水没民有地の9割は田畑であった。生活再建相談所の開設、代替地取得についての斡旋、取得資金の利子補給、代替宅地の造成などの生活再建措置を実施。
立ヶ畑
(たちがはた)
兵庫県
護岸に石臼が並ぶ
ダム湖右岸の護岸に、約90mに渡り、160個の石臼が並ぶ。かつてこのあたりでは、線香にする原料粉を製造するため、水車が多くあり、石臼が使われていた。烏原村が水没するときに、人々は記念に使っていた石臼をここに残したという。
立ヶ畑
(たちがはた)
兵庫県
ダム湖は「烏原貯水池」
もともとここには烏原村があった。烏原村は、明治37年、烏原貯水池築堤のため水底に没した。水没時の戸数は98戸、人口414人。烏原村からダム湖は「烏原貯水池」と名付けられた。
津軽(再)
(つがる)
青森県
マタギの村
白神山地には古くから「マタギ」と呼ばれる狩猟を生業とする人達がいた。西目屋村砂子瀬地区・川原平地区はマタギの村として知られる。目屋ダム建設により移転し、津軽ダム建設により再び移転するという。
鶴田(元)
(つるだ)
鹿児島県
6月にはレンガ造りの発電所遺構が出現
梅雨期の治水対策で水位が低くなる毎年6月上旬に、レンガ造りの旧曽木発電所遺構が姿を現す。中世ヨーロッパの古城の雰囲気を漂わせる。チッソの創業者・野口遵(したがう)が1909(明治42)年に建設した産業遺産。建設された2基のうちの1基。ダム湖が完成したのに伴い湖底に沈んだ。
手取川
(てどりがわ)
石川県
水没330戸
ダム建設に伴い330戸が水没。反対運動が起こり、補償交渉は難航し、生活再建が急務だった。1974年に水源地域対策特別措置法が施行され、7月20日、20ダムについて第1回のダム指定があったが、そのうちの一つ。水没戸数が多いため、法第9条指定ダムだった。
徳山
(とくやま)
岐阜県
徳山の写真を撮り続けた増山たづ子さん
増山たづ子さん(旧徳山村戸入出身、大正6年生まれ)は、60歳を過ぎてから、ふるさと徳山の写真を撮り続けてきた。その数は数万枚にも及ぶ。写真集や展示会などで紹介されており、写真の素晴らしさとともに、水没地の様子を知る貴重な資料でもある。
徳山
(とくやま)
岐阜県
ダム湖は「徳山湖」
旧徳山村の住民らから公募し、2008年2月に「徳山湖」に決定したと発表。公募で最も多かった名称で、建設に伴って廃村となった旧徳山村の名称を残し、移転した村民に対する感謝の意を表すものだという。
徳山
(とくやま)
岐阜県
旧徳山村は廃村になった
旧徳山村は1970年の国勢調査の人口は1583人だった。ダムの建設に伴い、水没する集落の村民は揖斐川、本巣(もとす)、糸貫(いとぬき)、北方(きたがた)の4町の5地区に集団移転。466戸すべてが移転して無人となり、1987年4月に藤橋村に編入された。これにより旧徳山村は廃村となった。
苫田
(とまた)
岡山県
水没戸数470戸
水没面積330ha、水没農地面積155ha、水没戸数470戸と、ダム建設に伴い多くの影響。反対運動が起こり、共有地運動も。土地収用の手続きが進められ、事業認定取り消し訴訟の提起も。一方、水没者のため各種生活再建対策や(財)吉井川水源地域対策基金の設立など、生活再建と地域振興の努力も。
長井
(ながい)
山形県
管野ダムが水没した
長井ダムの建設によって、上流にあった管野ダムが水没した。管野ダムは、堤高44.5mの重力式コンクリートダムで、山形県が建設した最初の多目的ダムだった。今は、ながい百秋湖の湖底にあって、流入する土砂を堆積させる施設として機能している。
長島
(ながしま)
静岡県
レインボーブリッジ
ダムの建設にともない井川線の一部区間が水没するため、付け替えた。新たに「レインボーブリッジ」と「奥大井湖上駅」が誕生。大きく蛇行した大井川の渓谷に架けられたレインボーブリッジは長さ286mと195mの二つのまっ赤な鉄橋からなり、中間に奥大井湖上駅が。レインボーブリッジには湖上遊歩道があり歩いて渡ることができる。美しい景観は、秘境奥大井の新しい魅力。
長島
(ながしま)
静岡県
日本の鉄道では唯一のアプト式
井川線のアプトいちしろ駅〜長島ダム駅間は、列車はアプト式。日本の鉄道ではここだけ。線路の中央にノコギリの歯のようなギザギザのついた第3のレールがあって、この上を機関車が歯車をかみ合わせながら走る。ダム建設に伴って井川線の一部区間が水没するため、線路を付け替えた。その結果急勾配ができて、アプト式が誕生したという。
二風谷
(にぶたに)
北海道
古くからのアイヌ民族の居住地
二風谷はアイヌ民族の聖地だという。古くからアイヌ民族が住み、沙流川の河岸では毎年チプサンケという舟降ろしの儀式が行われていたという。このため反対運動が起こり、土地収用収用採決取り消し訴訟などが。
糠平
(ぬかびら)
北海道
ダム建設で糠平温泉が移転
ダムの西側の台地に糠平温泉がある。糠平温泉は、大正8年に大雪山の原生林の中に温泉を発見、その後、道路が整備され、昭和9年には15件の宿が軒を並べる湯治場として賑ったという。ダムの真下あたりに元の糠平の街があったが、ダム建設により現在地に移転したもの。
別子
(べっし)
愛媛県
七番ダムが水没
ここにかつて七番ダムがあったが、下流に別子ダムが建設されたため水没した。七番ダムは、昭和4年に建設され、石張りのきれいなダムだったという。
三春
(みはる)
福島県
148世帯が移転
ダム建設により148世帯が移転。このうちダム周辺には過半の87世帯が。三春町外へは45世帯と少ない。周辺移転型であるが、これは水没地が複雑に入り込み様々な残地ができること、山深くはない「里ダム」であることなどによるという。代替宅地や水田の造成・整備を実施。
御母衣
(みぼろ)
岐阜県
230戸が水没
ダム建設により、牛丸・尾上地区の一部と岩瀬・赤谷・中野・海上の地区が水没した。水没戸数は合わせて230戸。水没地域は穀倉地帯が広がり、荘川村の中心地だった。水没予定地の住民の間では「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」が結成されるなど強い反対運動起こったが、電源開発など関係者のねばり強い説得があって、建設にこぎつけた。
宮ヶ瀬
(みやがせ)
神奈川県
多数の移転家屋
水没地の面積が広く、ダム建設に伴って多くの住民が移転を余儀なくされた。移転戸数は281戸におよぶ。代替地が造成され、湖に面した2カ所に合わせて52戸、その他の多くはダム下流の厚木市郊外の宮の里に移転。
八ッ場
(やんば)
群馬県
温泉街など水没多数
ダム建設に伴い、川原畑、川原湯地区が全戸水没、横壁、林、長野原地区はその一部が水没。水没世帯は約340に及ぶ。中でも川原湯温泉街では18軒の旅館や約50軒の土産店、小売店、サービス業が全部水没することになる。公共施設としては、小中学校、JR吾妻線、国道145号等が水没。水没者の多くは、集落ごとにダム湖の湖畔に代替地を造成する「現地再建方式」(ずり上がり方式)により移転。公共施設は移転や付替え。生活再建を進め、新しいまちづくりを目指す。
湯田
(ゆだ)
岩手県
移転世帯が622戸
ダム建設のため移転を余儀なくされる世帯は622戸にものぼり、用地補償関係の交渉に時間を費やした。水没地住民には、造成宅地を提供する新しい補償方式がとられた。そのほか、旧国鉄の付け替え延長が15.3キロ、国道の付け替えが13.35キロなど、大規模な補償が行われた。
竜門
(りゅうもん)
熊本県
ダム湖は「班蛇口湖」
竜門ダム建設によって斑蛇口(はんじゃく)地区が水没した。その地区名をとったのではないかと思われる。