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位置未確認ダムを探して…「下大沢池」

安 部  塁
1.はじめに

 三重県の「下大沢池」は、ダム便覧2011において、
所在地:三重県伊賀市下友田
位置情報:北緯34度50分27秒,東経136度11分54秒【位置未確認】
と記載されています。このアースダムについては、これまで調べた限りにおいては、現存していない可能性が非常に高くなりました。
 これは、その理由を中間報告としてまとめたものです。

 ダム便覧記載の情報によれば、下大沢池は、堤高16m、堤頂長150m、堤体積65,000立方メートルのアースダムであるとされています。ダム事業者は、鞆田土地改良区で、1936年(昭和11年)に竣工されたことになっています。

 所在地名の「下友田(しもともだ)」とダム事業者名の土地改良区「鞆田(ともだ)」は、この地域を流れる淀川水系鞆田川に由来した名称です。


三重県伊賀市・名張市で見かける標識「伊賀の国」
 様々な理由によって、位置未確認となっているダムでも、その諸元は便覧に掲載されています。しかし、これらの情報の中でも堤体積は、残念ながらあまり参考にすることができません。実際に数値で示されたとしても一般人が、外見から計算することは絶対と言って良いほど不可能であるからです。
 一方、堤高は、ある程度まで参考になります。たとえば樹木の高さなどから目測で堤高を判別することができます。しかし、現地のロケーションなどとの関係から判断が難しいこともあります。また仮に、測量機器を利用して計測した場合であっても、地上に露出している部分だけが必ずしも堤高であるとは限りません。通常は、基礎岩盤を多少埋め戻す仕事をしているはずです。また、残土処理で下流面が盛り立てられているケースもあります。

 こうした中、堤頂長は最も参考することができる数値ということになります。また、堤長は現地に行かなくてもある程度までは地図で読み取ることが可能です。
 ダム便覧の記載では「下大沢池」は、堤長が150mほどあることになっています。この数字をそのまま鵜呑みにしてしまうと、伊賀市下友田には、下大沢池は存在しないことになります。地図で確認する限り、堤長150m級の溜池は見当たらないからです。その場合「下友田」という地名にこだわらず近隣周辺にまで調査対象を試みなければなりません。

 ところで香川県にある『公淵池』というアースダムは、ダム便覧では堤頂長が「260m」となっています。しかし、現地の案内板では「堤長450m」と表記されていました。公淵池は堤体左岸から上流に向って本体から連続する補助堤体が存在しています。おそらく管理している四箇池土地改良区では、本堤に接続している補助堤体の部分を含めて450mと表記しているものと考えられます。

 下大沢池もまた同様の理由により、ウィングのような本堤に貼りついた副堤体の部分を含めて「150m」と記録されている可能性が強いと考えられました。下大沢池については、位置未確認でありながら推定の位置情報が記載されています。まずは、その場所に行って現況を確認することから始めなければなりません。

2.小袋(コブクロ)池

 ダム便覧に掲載されていた
北緯34度50分27秒,東経136度11分54秒【位置未確認】
の場所付近に到着しました。その場所にある溜池は、アースダムを名乗るには、かなり堤高が不足している印象です。本堤の長さはとても150mあるとは考えられません。堤体背面に設置されている階段を上り副堤体の有無を観察してみます。


下大沢池の推定位置にあった堤体

階段右側が余水吐シュート部
 階段の横に位置するコンクリートの部分が、余水吐きです。しかし、鞍部堤体らしきものは確認できません。予想通りダム便覧記載の諸元とは大きく異なります。


堤体上流面
 農作業中の方に話を伺うと、
◆あの溜池は、コブクロ池と呼んでいる。(漢字で書くと小さい袋。)
◆この近くではシモオオサワ池という名前は聞いたことがない。
◆溜池は、個人で持っているものを含めると一体いくつあるかわからないほどある。
◆ここで大きな溜池といえば「大沢池」と「古池」だろうか。
◆「大沢池」は、農免道路からは判りにくいがコンクリで塗り固められた道を登ればよい。
ということでした。

 農家の方は、"個人が持っている"(溜池)と言っていました。この言葉には正直驚きました。この地方では、個人で溜池を所有している人が存在しているようです。日本は資本主義国家であり私有財産権は憲法で保障されている制度です。それゆえ、個人所有のダムや溜池が実在していても、少しも不思議ではないはずでした。現実に個人で溜池を所有しているという話は全く想像の範囲外でした。

 地図で事前に確認してある通り、「大沢池」や「古池」は、ともに150m規模の堤体を認めることができません。しかし、最も規模の大きな「大沢池」に向かうことにしました。

 途中、『雨乞山』という名前の小さな山を横に見て通ります。『雨乞山』という名前が示すほど、過去には旱害に苦しめられてきた歴史があったのです。地元の方の話では、日照りが続いたときに、この山の頂上でたき火を行い、恵みの雨を祈ったという伝承があるそうです。このような雨乞いの儀式は、明治の中頃まで行われていました。
 『雨乞山』という名前を持つ山は、実は、伊賀市周辺では数多くあって「○○地区の『雨乞山』」と呼ぶ方法が正しいようです。この地域では『雨乞山』は固有名詞ではなく、普通名詞として扱われていました。個人で溜池を所有しようと思う気持ちが何となく理解できます。


雨乞山
 各種ある農業用道路の中でも「農免道路」と称される道路は、一般に整備が行き届いています。目印となるコンクリートで舗装された道らしい入口を見つけることができました。こうして、「大沢池」に到着します。

3.大沢池


大沢池堤体下流面
 大沢池は、しっかりと築造されたアース堤体でした。余水吐きが右岸に設けられています。コンクリートの状況から、近年、改修工事が施されていると考えられます。越流部に橋は設置されておりません。代わりに、切り倒した丸太が渡してあります。堤頂部の長さは、およそ30m程度です。左岸から上流に向かって副堤体のようなものがありますが、本体を含めて150mもあるとは思えません。


大沢池堤体上流面
 地元の方が「大沢池」と呼んでいるこの堤体に、2つの石碑がたたずむように設置されていました。驚いたことに、1つは、縦書きの「下大澤池」、もう1つは篆書体の右書きで「下大澤池之碑」と読み取ることがきます。この堤体が「下大沢池」である可能性が高くなりました。位置情報は、
北緯34度50分56秒、東経136度11分04秒付近
ということになります。


石碑

下大澤池之碑
 この「下大澤池之碑」には、次のような文字が刻まれていました。

此地山間有水田引池水爰稼穡中友田字白楚田面凡拾數町歩地皆肥沃収穫甚多按寛
政以前有古池者引以便灌漑然會旱天則池水缺乏青田生龜裂而化不食之地農民患之
於是明治丗六年深井氏等ト地干下友田下大澤欲新築池備旱魃不為衆議所容冩大正
十十一十三年之交赤帝縦其威衆憶瀦水池也切官亦救金而邀民意於此起耕地整理組
合者期水利完成縣亦遣佐野技師設計之松山耕整副組合長督其工昭和四年起工石工
百四十三土工四千百有九工雖炎暑爍石飛雪撲面之日勤勉協力促工至同五年十月竣
工池溏僅十七間深水丗一尺容積五千四百餘立坪郡内推此池為第二位銘曰

 漢文調で意味不明な部分もありますが、恐らく次のような内容が記載されているものと考えました。

・この地は山間部にあって水田は隣接する中友田の白楚という所にある池からから用水を導いて10数町歩の農地を耕作してきた、ここは収穫も多い肥沃な土地である
・明治より以前からあった古池の水で灌漑を行ってきた、しかし旱魃にあうと、その溜池の水はたちまち欠乏し水田に亀裂が入る、こうして農民は食べることができず大変な思いをしてきた
・ここにおいて、明治36年地元の有力者が中心となり旱魃に備えて、下友田の下大沢に新たに溜池を築造することを国会に請願したが認められなかった
・大正10年、11年、13年と続く旱害で国から義援金を受け、こうして溜池建設を目的とする耕地整理組合が結成された
・県から派遣された佐野技師による設計と松山副組合長指導で昭和4年に起工した
・石工143人ほか4,119人の労力を費やし、夏の猛暑や小石や雪に顔面が打たれるようなことがあったがこれを乗りきって、一致協力のもと昭和5年10月、この池が竣工した
・池の堤はわずか17間であるが、水深は31尺、貯水容量5,400立方坪、これは、郡内第2位の規模である

 碑文最終行の「池溏僅十七間」の意味は、「池の堤塘の長さ(堤頂長)が17間」であると解釈しました。すなわち、これをメートル法に換算した場合、17×1.8m≒30.6mということになります。ダム便覧の「下大沢池」の堤頂長とは全く異なりますが、現在の「大沢池」の堤長にほぼ一致している数値です。

 また続く「容積五千四百餘立坪」とは、「池の貯水容量が約5400立坪」であると解釈可能です。同様にメートル法に換算すると、5,400×6.01≒32,454立方メートルとなります。ダム便覧では、「下大沢池」の総貯水容量が、23,000立方メートルとされています。数字に大きな違いがあり、もはや誤差の範囲として許容できるものではありません。

 なお「深水丗一尺」は「水深が31尺」を意味し、メートルに換算して、31×0.303≒9.4mほどの深さであることが石碑に刻まれています。この「水深」がどの部分を指しているのかは不明ですが、この数値をもって、堤高9.4mと読み替えることはできないと思います。

 さらに、「下大澤池之碑」碑文左側には、漢詩が添えられていました。


漢詩
 石碑の記録によれば、下大沢池は、「昭和4年に着工、昭和5年10月竣工」したことになります。ところが、ダム便覧の記載では、下大沢池の竣工は昭和11年となっています。つまり、5年程の開きがあることになります。


 この場所に「下大澤池」の石碑があったことで、「大沢池=下大沢池」であると考えても良いのかと思いました。しかし、なおも多くの疑問点が残ります。
@地元の人は「下大沢池」という名前は知らないが、「大沢池」という溜池は知っている。
Aその「大沢池」には「下大澤池」の石碑があって、石碑の記述は「大沢池」と一致すると思われる部分がある。
Bしかし、「大沢池」の諸元や竣工年が、ダム便覧記載「下大沢池」のものとは異なっている。
 堂々巡りしてしまいます。

 以上考察するとダム便覧掲載の「下大沢池」の諸元は、「大沢池」のものとは大きく異なり、「下大澤池石碑」の碑文内容とも一致していないと結論付けざるをえません。

4.ほかの可能性

 ダム便覧は、日本のダムのデータベースとして最高峰のものです。毎年(厳密にいえば毎日少しずつ)更新され、信頼性は高いものと言えます。内容には稀に誤った記述もあるようですが、それは莫大な情報量の中で、ごく一部です。ダム便覧の「下大沢池」の情報と石碑に刻まれた内容がこれほどまで異なることがありうるのでしょうか。
 「下大沢池」(ダム便覧掲載)は、「大沢池」でも、また石碑に刻まれた「下大澤池」でもない第3のダムなのでしょうか。
 次のような仮説を立ててみました。

@ 上大沢池未完成説
≪仮説≫計画では「下大沢池」の上流に「上大沢池」を建設する予定で、最初に「下大沢池」が完成した。1つしかない地元で暫定的に「大沢池」と呼ばれていたが、その名前が定着した。その後、戦時色が濃くなり「上大沢池」計画は頓挫して現在に至っている。

≪検証≫石碑の記述内容から判断すると、やはり「下大沢」自体が地名であり、上池・下池の関係ではないと考えるべきです。実際地形をみても「大沢池」の上流に「上大沢池」を建設する余地はないようです。

A 下友田・下友生説
≪仮説≫伊賀市には、別の場所に上友生(かみともの)と下友生(しもともの)という地名が存在している。ダム便覧の「下友田」は、「下友生」の誤記である。実際「下友生」には、堤長100m級の溜池も点在していることが地図で確認できる。

≪検証≫上友生を含め、実際現地でこれらの溜池を確認したところ、ことごとく、堤高が低いものばかりでした。やはり、「下友田」が、「下友生」の誤記である可能性はありえないことになります。

B 大杣池・鴉山池説
≪仮説≫近接する場所でほかに100m級の堤長を持っている溜池は、亀山市との市境に近い所にある大杣(おおそま)池である。隣接して鴉山(からすやま)池もある。これが実は(上)大杣池と、(下)大杣池の関係であって、書類上の過誤で「下大沢池」となっている。発音も「おおさわ」と「おおそま」で類似している。

≪検証≫現地にあった「鴉山池竣工記念碑」碑文に、鴉山池は昭和29年に竣工、同時に大杣池が拡築されたことが記されていました。この2つの堤体は意外に新しいものでした。なお、大杣池がある場所は、旧阿山郡伊賀町にあたります。現在では、同じ伊賀市として同一の自治体に属していますが、「下大沢池」があるとされる下友田は、旧阿山郡阿山町になります。大杣池を「下大沢池」の別名と考えることには無理があるようです。

 やはり、「下大澤池之碑」がある以上、「大沢池」=「下大沢池」と考えるべきであり、ダム便覧の記載内容の修正依頼を出せば済むことなのかもしれません。

 ところが、あるダム(溜池)で偶然遭遇した「だい」氏を介して、ある方から、下大沢池に関する貴重な情報を教えていただくことができました。「だい」氏とは、改めて言うまでもなく1,300基以上のダムを訪れた(平成24年2月現在)ダムマイスターの「だい」氏です。だいさんから紹介して頂いた方のその方の勤務先には、この地区の溜池台帳が保管されているということでした。さらにまた、この方から三重県立図書館に所蔵されている『伊賀東北五町村旱害史』という1冊の本を紹介していただきました。
 情報によれば、
◇下大沢池は、溜池台帳には記載されていない。
◇大沢池は、溜池台帳では、堤高12m,堤頂長107mと記載されている。
ということです。
 すなわち、「下大沢池」自体が書類上存在していないことを意味していました。
 なお、大沢池の堤頂長は、左岸から上流に延びる部分を含めての数値であるかもしれません。

 さらに、下大沢池の行方に糸口がつかめず困っていたところ、mt.tellという方が、すでに「下大澤池」の石碑についてブログに発表していることが判りました。この方の調査結果では、「下大沢池」が再開発により「大沢池」となったという話を地元JAの方から聞いているということでした。「下大沢池」が再開発により「大沢池」となったとする説は傾聴に値するものだと思います。

 詳細は、mt.tell様のブログを参照してください。
  「下大沢池を探して

5.亀裂田

 大沢池にあった『下大澤池之碑』(昭和5年)には、
「旱天則池水缺乏青田生龜裂」(筆者注:旱天スナワチ池ノ水ガ欠乏シ青田ニ亀裂ヲ生ズ)
という記述がありました。
 また、鴉山池にあった『鴉山池竣工碑』(昭和29年)には、
「旱天ニ遭遇スルヤ田面深ク亀裂シ」
という記述がありました。
 『下大澤池之碑』と『鴉山池竣工碑』の間には、四半世紀程の隔たりがあります。ところが、記述内容には「亀裂」という共通点があります。

 「亀裂」という言葉は、私たちにとって「割れ目」、「ひびわれ」程度の認識であると思います。しかし、この地域においては「亀裂」という言葉には特別な意味がありました。旱魃で発生した亀裂は表層にとどまらず、かなりの深さにまで至るものでした。これは、この地域の土の地質的な特性によるものだそうです。


水田の亀裂状況、『伊賀東北五町村旱害史』挿入写真より引用
 『鴉山池竣工碑』によれば、亀裂を修復するために莫大な労力がかかるため、「大溜池ヲ造リ灌漑貯水ノ基盤」を整備すること以外に抜本的な解決策はなかったと記されています。


溜池の亀裂状況、『伊賀東北五町村旱害史』挿入写真より引用
 旱魃のため、溜池に亀裂が生じた場合には、その深さは人の背丈ほどにも達したようです。
 水争いで怪我人や死者が出たというのは、きわめて近年まであった事実でした。山頂に登り火を焚いて神に雨乞いをするという非科学的な行為は、途方に暮れ、もはやほかに為すすべがなかったからです。決して迷信を信じていた訳ではなかったようです。


祈れどついに雨はこなかった、『伊賀東北五町村旱害史』挿絵より引用
6.検証作業

 現在、地元で「大沢池」と呼ばれている溜池になぜ「下大澤(下大沢)池」の石碑が残されているのか?地元の農家の方も、すでに遠い過去のことで詳しいことは知らないようでした。
 『下大沢池は、再開発されて大沢池になった』という前述の見解が最も有力であると考えられます。その時、旧下大沢池にあった石碑をこの地に移設したものと思われます。
 宮城県の七北田ダムは「蒜但木溜池」を再開発したもので、右岸上流部にはその記念碑があります。また、広島県の竜泉寺ダムも「二つ釜池」を再開発したもので旧池にあった石碑が竜泉寺ダム左岸に移設されています。
 全国的には旧溜池の再開発は決して珍しいものではありません。
 しかし、「大沢池」に関しては確たる証拠が見当たりませんでした。最後の手段として、国土地理院の旧版地図を確認することにしました。その結果、次のことが判明しました。

 明治25年に基本測量されその後、微修正された地図には、「古池」は描かれているものの「下大澤(下大沢)池」はありません。


この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(水口)明治25年測図、昭和23年6月30日発行の一部を抜粋して使用しました。
 昭和37年測量の地図を見ると、現在の「大沢池」付近に、貯水池が記入されています。この形状は、現在の「大沢池」とは異なります。恐らくはこれが「下大澤(下大沢)池」の姿ではないでしょうか。


この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(水口)昭和37年測量、昭和46年10月30日発行の一部を抜粋して使用しました。
 さらに、昭和43年測量の地図では、現在の「大沢池」の形状になっています。論より証拠です。やはり「下大澤(下大沢)池」が再開発されて「大沢池」となったと思われます。


この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(水口)昭和43年測量、昭和46年10月30日発行の一部を抜粋して使用しました。
 上述の通り、「下大澤(下大沢)池」が再開発されて「大沢池」になったとすれば、従前の「下大澤(下大沢)池」よりも堤高が低くなり、また堤頂長が短くなっていることに多少の疑問が残ります。上掲地図を見ると、大沢池の前を通過(北西から南東に)する道路(農面道路)の位置が少し変化しています。この道路工事の際に、「下大澤(下大沢)池」を下流に堤体を移動させて「大沢池」が築造されたと考えられます。再開発の目的は堤高を高くするのではなく、貯水量を増やすことにあったはずです。これにより、かえって堤高が低くなったのかもしれません。

7.おわりに

 「下大澤池之碑」の碑文には、次のような漢詩が添えられていました。


石碑に寄せられた漢詩
身体有血      可以安居      瑞田有水      嘉禾栄如
費工一年      碧水成潴      受七谷泉      停蓄有餘
有時去堰      沛然溢渠      昼夜百日      旱害■塵
官懿其効      衆眉初舒      子孫可楽      後昆可耡
(一部新字体に置換、■=判読困難)

 字面から、簡潔にいえば「一年の工期を費やして溜池ができた。これによって、この土地は実りが豊かな所になった。」という内容が叙情的に記されているのではないかと推定しました。
 「子孫可楽」という文言から、大きな家に4世代で暮らし、一番小さな子供が庭でニワトリと柴犬と戯れている農村光景を連想してしまいます。

 石碑裏面に記載されていた個人名から、関係者と思われる方の血縁者を尋ねてみました。ところが、現実は、ある方は、農業を離れて他県で医師の職に就いているということでした。また、ある方は大きな家に一人でお住まいでした。「主人が存命でしたらお話ができたと思いますが…、私は他所から嫁いできた者なので詳しいことは分りません。」ということです。ご高齢になって一人で大きな旧家を守っているようでした。

 現政権がマニフェストで標榜した目玉政策の一つ「農家の戸別所得補償制度」は、食料自給率の維持という面では一応評価に値するものです。

 一方、補助金交付は、税収面ではマイナスを意味しています。むしろ、多くの農業者が税金を負担しても、経営が成り立つような政策を実現することが未来を切り開くのではないでしょうか。補助金交付は『魅力』ではなく『無力』をイメージします。

 これまで、いくつかの位置未確認ダムを訪れてきて、ヒントを教えてくれた方は皆ご高齢の就農者の方でした。

 現在の就農者は、この地域に限らず高齢層の方が中心となりつつあります。私たちの主食である米は、農家のおじいさん・おばあさんに依存していると言っても過言ではありません。このままでは、20年後には米造り農家が日本から消滅するかもしれません。

 若年層が農業に魅力を感じるような抜本的な農業改革は、年金制度改革以上に深刻なものではないでしょうか。

[関連ダム]  下大沢池
(平成24年2月作成)
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 (安部 塁)
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