「月刊ダム日本」7月号のグラビアで幌内ダムの写真を見て、大変なつかしい思いをした。といっても以前に見たことがあるわけではなく、そもそも、そこそこ貯水池の体をなしていることさえ知らなかった。放棄されたと聞いていたからだ。跡形もないものと思いこんでいたのである。
では、なぜそんなダムを知っているのか。グラビアのコメントにもあるように、日本では数すくない決壊したダム(ただし堤高13.4mだから現在の定義では大ダムにはならない)のひとつだからだ。太平洋戦争が始まろうとしている時期でもあり、北海道の中でも外れの外れ、一般の人はほとんど訪れることもないようなところでもあるので、あまり知られていない事故である。
このダムのことが、セメント協会発行のコンクリートパンフレット「わかりやすいダムの話」に載っていた。現在このパンフレットは発行されていないが、ダムに関する文献の少ない時代、あっても高価で学生には手の出ないものが多かったときに、この手ごろな値段のパンフレットは本当にありがたかった。今でも十分に通用する内容のものがあるし、そのころの考え方を知るにもいい文献だと思うので、ピックアップして復刻する価値は十分にあると思うのだが。
このダムは発電用のもので、幌内川送電会社により建設された。1940年12月に完成し、翌41年6月に決壊している。監督官庁である北海道庁の許可を得ずに湛水開始しているが、事故後の道庁の調査によれば、基礎掘削をせずに、河床砂礫のうえに水中コンクリートを打ちこんで、それをダム基礎としている。
水圧がかかれば、そんな砂礫層など流失してしまい、空洞ができることは当たり前のことだが、ダム技術者がひとりもいなかったのだろうか。このとき、80mの越流部のうち、50mが流失、残りの30mが崩壊したと記されている。被害としては死亡60人、人家流失破壊36戸、耕地被害80ha、ほかに貯水池内に集積してあった木材が5000m3流されたとされている。
現在の幌内ダム(撮影:samson) これを河口付近で目撃していた人の話を聴いたことがある。材木というものは横になってぷかぷか流されていくものだと思っていたら、こういう大洪水のときは縦に回転しながら流れていくのだという。
翌日洪水がおさまってから、橋の上から川の中を覗き込むと、泳いでいる魚が多かれ少なかれ怪我をしていたとのこと。海に押し出された材木は波によって海岸に押し戻され、それを片付け終わるまでしばらくは船も出せなかったとのことである。
この目撃者は、筆者が十勝ダムの所長をやっていたときの地元の警察署長で、ダムは壊れないのかという質問に対し、幌内ダムが・・・と言い出したら、こういう話になった。知っていてよかった。この署長のいた警察署は当時は木造のおんぼろで、それが映画「幸福の黄色いハンカチ」にそのまま出てきたときにはびっくりした。そのときの署長は渥美清が演じていた。
なお、現在の姿は、戦後発電用として主要部分を作り直す形で再建されたダムのゲートを撤去して、砂防ダムとして使っているものだそうである。
(これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事の転載です。)
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