酷暑の東京を逃れて、奄美大島に避暑にいってきた。南の島に避暑というのは半分冗談であるが、実際のところ、東京よりずっと涼しく、島の人たちからはただしい選択であるとほめられた。夜になると、これはどこにいったときも同じことだが、夕食がてら居酒屋に飲みに出かける。
店の人や居合わせた客と歓談することになるが、どこから来た、何をしに来た、から始まって、やがてダム屋だということがわかると、このごろは決まって八ツ場ダムの話になる。関東地方ならまだしも、鹿児島県の南の果てのような島でもその話になったのには、むしろ驚いた。
湖面橋もつながった 中止することについてどう思うかという質問だが、当然、準備万端整って、後はダムを造るだけという段階で中止するのは無駄の最たるものだ、これまで投資した金が何の役にも立たず、移転した水没者の生活再建もむつかしいという返答をする。話をしたすべての人がその返答を聞いて、納得する。そうだよなあという。
続いて、では、なぜ国土交通大臣は中止するというのか、と聞いてくる。これは無駄だというだけで、説明がないからまったく分からないのだが、国民の生活に責任を持たなくていい野党時代にいったことを、何が何でも守ろうとしているだけではないのだろうかというしかない。現に市民の生活に責任を持たなくてはならない首長たちは、軒並み中止に反対しているのだから。
問われるままにダムの効用についても話を始めるが、これにはむつかしいことは何もない。水をためておけば、渇水のときに補給できるし、その水を使って発電をすれば、クリーンだし、循環資源であるから枯渇することはない。洪水を溜め込めば洪水流量を減らせることは明らかだし、効用のみを取り上げれば、反対する理由など何一つない。ただ、効率のよしあしはあるし、事業費に見合った効用が常にあるとは限らない。また、自然を大きく改変することも事実である。
だから、事業着手前に費用対効果の検討をするし、環境影響事前評価も行う。事前評価だけでは実際に想定どおりの効果があったのか、環境に対する影響は想定の範囲内であったのかどうか等は分からないので、実際にダムの運用を開始した後に調査を行って、事後評価するフォローアップ作業も行われている。それらを一切無視して、「ダムはムダ」などという語呂合わせのような素人(大学教授だからといって玄人とは限らない)の言い分を鵜呑みにしてダム建設を取りやめるというのは無責任もはなはだしい。
大体、洪水や渇水が発生したとき、誰がどのように責任を取ってくれるのか。自然現象だから仕方がないといって済ます気なのだろうか。
こうしてダム談義をしながら南の島の夜は更けていくが、ダムに縁のない一般の人が、興味を示してくれるということはある意味でありがたい。八ツ場ダムの事業中止も、思わぬところでダム事業の後押しをしていてくれている。機会を捉えてダムシンパを増やすように読者諸氏にもお願いしたい。話に付き合ってくれた人たちは、たいていは今日はためになったといいながら帰っていくから、つまらぬ世間話よりはおもしろいのだろう。
(これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事の転載です。)
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