現在使っている水が使えないとなると、新たな水資源開発施設を手当しなければならなくなる。その場合、八ッ場ダム計画以降にも水利用は進んでいるから、新しい水資源開発施設は単価の高いものにならざるを得ない。八ッ場ダムによる開発水は、計画が承認された段階で確定され、既得水利権と同様の扱いになっているのである。八ッ場ダムを中止して得することはひとつもない。中止するということはその権利を放棄するということである。
止める理由はなんなのか。吾妻渓谷という自然を守りたいのか。でもなぜ?渓谷そのものはほとんど残るように計画されているし、景観を配慮した水量も流すような計画になっている。一般的な思い込みで、犠牲者などと言われる水没住民も、長い時間をかけた話し合いにより、それなりに納得をして移住している。
吾妻渓谷 ただひたすらダムが嫌いだということなのだろうか。しかし、そんなものは世の中にたくさんあるはずだ。自分の好きなものにだけ囲まれて生活できると思うほうがおかしい。いやなら目に触れないところに自分が逃げていけばいいのであって、目障りだから消えてなくなれなどという権利などない。一方には金と時間をかけてわざわざダムを見に行く人たちもいるのだ。
ムダというキャッチフレーズもあった。水を必要とする人がいて、洪水を防御して欲しい人がいるのなら、そのための施設はムダではないと思う。効率のよしあしはあるだろう。それはきっちりと実証すればよいことだ。初めからダム無しなどと制限する必要はない。それを受け入れた国土交通省を情けないと思うと同時に、国民と政治に対し、無責任だとの感を免れない。
政治主導は結構だ。それが民主主義というものなのだろう。だからといって、事務局であるべき役人が、言うべきことを言わないというのはおかしい。それは怠慢だ。長い経験と蓄積した資料に基づくシミュレーション(これをこうやればこのようなことが起こるはずだという想定)を示す義務がある。
それは抵抗でもなんでもない。結果としてその想定が間違っていたら、自らの不明を恥じて引き下がればよい。言われたようにやっているだけなのだから、自分には責任はありませんという今の態度は、自分からは進んで何をしようともしないコンビニやファストフードのアルバイトと同じではないか。それなら給料を下げられても文句は言えない。
専門家集団の言うことに耳を貸さず、なんの根拠もない自らの感覚のみに基づいて「仕分け」などということを行う政治家に問題があることはもちろんだが、それにテレビ番組を見るような感覚で喝采をする国民も反省する必要がある。専門家集団は本来自らの手足として働く集団のはずだ。それを使いこなさず敵視することが被災地の復興を遅らせている一因だということをいろいろな場面で思い知らされる。
幸い良識のある新大臣によって八ッ場ダム建設事業は継続されることになったが、凍結されていた間の国家的損失は誰が補ってくれるのだろう。結局は回りまわって我々国民が負担することになるのだろう。権力を持った人間が思いつきでものを言うことが、いかに高くつくかを覚ってもらいたいものだ。
(これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事の転載です。)
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