宮ヶ瀬ダムは2億m3近い貯水容量があるのに、流域面積は100km2ちょっとしかない。それでは水が十分に溜まらないので、隣の道志川から分水する計画となっている。本来この水は相模川にある津久井湖に入るべき水であるから、必要なときには津久井湖に水を戻せる水路も設置してある。
前者を道志導水路、後者を津久井導水路と呼んでいる。道志導水路は間違った命名で、本来は宮ケ瀬導水路か道志分水路とすべきものだ。導水は持っていく先の名前を、分水は分流する地点の名前を付けるのが一般的な約束だからだ。例えば福岡導水は筑後川から福岡市に水を持っていく施設であり、大河津分水は信濃川と放水路の分岐点の名前が付いている。
赴任したときにそれに気付いて、名前を変更しようとしたのだが、すでに長年その名前で呼んでいて、補償の話などもそれで進めているということで、変更はかなわなかった。完成した時点で変えればいいと思っていたのだが、ついにそのまま通ってしまっている。
これらの導水路により、相模、津久井、宮ケ瀬3ダムが総合運用されることになり、相模川の水利用率は約8割と、日本の川としては信じられないような利用率となっている。悪く言いたい人は河川収奪が進んでいるなどとのたまうだろうが、今も鮎釣りの盛んないい川である。
宮ヶ瀬ダム 導水路は2本ともトンネルで、その掘削により、トンネルの上の山の木が枯れるのではないかと危惧されたが、いろいろと文献など調べると、150m以上の被りがあればあまり問題が生じていないようであるし、発破をかけて掘るのではなく、トンネルボーリングマシンでガリガリ掘って、すぐにライニングをするから心配は要らないと地元に説明した。
本気でそう信じていて、自信をもって説明したのだが、実際の工事では湧水が多く、山の木も枯れて、補償するはめになったようだ。いわゆる緑のダムから水を汲み出すと木が枯れてしまうという当たり前の事実が、はからずも実証されたということでもある。
このトンネルボーリングマシン、今では珍しくもなんともないが、わが国で最初に本式のトンネルボーリングマシンを使用したのは、多目的ダムの大川ダムを下池とし、大内ダムを上池とする、当時の電源開発株式会社の純揚水下郷発電所の工事であった。トンネルをたくさん掘っている道路や鉄道の工事でなく、たまにしか掘ることのないダム事業にからんだところから始まっているというのは、どことなく面白い。
ダムというものは不都合が生じた時の影響が大きいから、基本的には非常に保守的な事業の進め方をする。経験を尊ぶのだ。一方で、新しい技術は積極的に取り入れる。ダム工事そのものは単発的で、しがらみが少なく、数年で終わってしまうせいだと思う。実際、道路や河川の事務所は永続的なものとして設置されるが、ダムの工事事務所は仮設でしかない。管理所になって初めて永続的なものとなる。
そんなことで、ダム現場ではいろいろ新しいことが試みられている。RCDやらELCM、CSGなど門外漢にはわけのわからない工法が採用され、それなりに定着しているのもその表れなのだろう。
(これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事の転載です。)
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