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ダムインタビュー(53)
大田弘さんに聞く
「くろよんは、誇りをもって心がひとつになって、試練を克服した」

 大田 弘(おおた ひろし)さんは、富山県黒部市(旧・宇奈月町)のご出身で、小学生の頃、黒部ダムの建設工事を身近に感じながら育ったそうです。その後、山奥の何もない所から工事にかかり、トンネルを掘り道路を造り、やがて巨大なダムを建設する土木技術者になろうと決意され、昭和50年、北海道大学工学部土木工学科を卒業後、株式会社熊谷組に入社されました。
 黒部川第四発電所は、一昨年、完成50周年を迎えましたが、当時、熊谷組が担当した大町ルート・関電トンネル工事においては、100m弱の破砕帯を掘り抜くのに7ヶ月を要する等、映画「黒部の太陽」に描かれた通りの苦難の歴史がありました。大田さんは、幼い頃の夢であった土木技術者になり、やがてゼネコンのトップに就かれてからも自身の原点とも言える黒部ダムへの想いをテーマに何度もご講演をされておられます。人々の暮らしを支えるダムとして、50年、100年後にも評価される仕事とはどういうものなのか。今回は、土木の仕事を通して得られる喜びや果たさなければならない大きな責任といった、若手技術者にぜひ学んで欲しい土木の心について語って頂きます。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)


黒部ダムの下流に生まれる

中野: お生まれは黒部ダムの近くとのことですが、実際、ダム工事をご覧になったのでしょうか?

大田: 黒部ダムは、私が生まれた村からはおよそ40km上流にありますから、直接見たのでなく話に聞く程度でしたが、村の男衆が現場で大勢働いていることは小さい頃から知っていました。もともと黒部川は日本でも有数の急流河川ですから、治山治水工事は盛んに行われていたので土木工事は見慣れたものでした。黒部川扇状地の土壌改良は、農作物の採れないような痩せた土地に水を安定的に供給する農業用水路、疎水工事が多かったのです。また、大正時代から水力発電事業が行われていました。
 黒部ダムそのものについては、完成してから作業に携わった村の人に連れられて作業用トロッコ電車に乗って行ったことがありました。ダムを見たのはそれが初めてです。

中野: 黒部ダムが完成した当時、村はどのような状況でしたか。


幼少期(左)
大田: 村人の言葉を借りると、川の上流に“世界一のダム”を作っていて、大きな電気を起こすと同時に洪水を防ぐ役割をするという話を聞いていました。でも、それを実感したのは、黒部ダムの竣工式典をテレビで見た時です。当時、テレビは村の小学校に1台だけあったのですが、それを生徒全員と村の人達が集まって見ました。映し出されるダムを観て「これが世界一のダムだ!すごい」と感動しました。が、いちばん印象に残ったのは、見終わった後で校長先生から、同級生の〇〇君のお父さんはこの工事で亡くなったと聞かされたこと。初めてその子の家にお父さんがいなかった理由を知りました。他にも、村には片手、片足になった方もおられたのです。彼らがそれほど大きな傷を負いながらダムを造っていたのだと知り、工事の大変さがすごく印象に残ったのを覚えています。

黒部ダム(提供:関西電力株式会社 北陸支社)

殉職者慰霊碑(提供:関西電力株式会社 北陸支社)
土木技術者になると決意

中野: 小さい頃なので非常に大きな感動だったのでしょうね。

大田: 社会科の授業としてテレビを見たので後で感想文を書くことになり、私は「ダムを事故なしに安全に作る土木技術者になりたい」と書きました。当時、担任だった先生が、以前再会した際に「大田君は、テレビを観て書いた感想文のように建設会社に勤められて夢が叶ったね、おめでとう」と言ってくださいました。
 自分としては、その時思った「ダムを安全に作る」という志の導火線に火がついたのです。式典を見た夜には、村では亡くなった方や怪我をされた方に感謝の意も込めて提灯行例をやりました。昭和38年時点での提灯行列ですから、都会の人の感覚とはちょっと違うと思いますが、ダム完成を村中で祝ったのです。

中野: 小学生でダム技術者になろうと思ったのですか?

大田: 願望というより憧れのようなものだと思います。もともと家の周りでは大きな玉石を積んだり、コンクリートを練ったりして河川の改修工事をやっているのを見ていましたが、黒部ダムの完成をきっかけに、川や用水路に対して非常に興味を持つようになりました。両親や祖父母にこの用水路は誰が作った?その頃の村の様子は?黒部川の歴史は?とか、質問攻めにしたことを覚えています。
 今では、黒部川扇状地は日本ではいちばん美しいとまで言われていますが、江戸時代は暴れ川で48本の川筋があったということで、黒部四十八ヶ瀬という言葉が残っているくらいで、それをどのように制したのかを知りたかったのです。自然と闘うというのではなく、上手くいなすというか、自然と寄り添って上手く暮らしていたことについて非常に関心を持ちました。

中野: なるほど、それが土木に興味を持ったきっかけになったのですね。

大田: そうですね、土木、治水、歴史への関心を持ったというのがきっかけで、自分のじいさんや親、先祖がどのようにして襷(たすき)をつないで村を作ってきたかということが興味の対象になってきました。

黒部の太陽で、日本一のトンネル掘りを知る

中野: 有名な「黒部の太陽」をご覧になったのは、いつ頃でしょうか。

大田: 高校に進学した頃でした。中学の時には、黒部川沿いから日本一のトンネル掘りが出たという話は聞いていました。ものすごいカリスマ性を持った親方がいると、村の人達はその人に絶大な尊敬の念を持っていたのです。私もその人が「笹島信義」氏(現在の笹島建設会長)だということも知っていました。その時は気付かなかったのですが、後に映画を観て感動して、石原裕次郎の役が笹島氏であり、熊谷組というものを知ったのです。そして自分も土木技術者になると強く心に思い、進路を決めました。


土木を求めて、北の大地を目指す

中野: 大学は土木工学科に進まれる訳ですが、遠くの北海道まで行こうと思われたのはなぜですか?

大田: 親は地元の大学に行って富山県庁とか村役場に勤めることを期待していたと思いますが、私はそれまで一度も北海道に行ったことがなかったので、北海道のイメージが良かったのです。というのも昔、親父が札幌農学校の学生さんから農業指導を受けた等と聞いていましたので、まさに“北の大地”に憧れたのです。正直なところ山育ちですから、東京のような大都会へ行くことは気後れしてためらっていました。行ってみると札幌は100万人都市で、とてつもない大都会だったので少しがっかりしました。

中野: 大学入学後は、土木技術者を目指して勉学に励まれたのですね。

大田: 仕送りがなかったので、授業料、生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れていました。親からの条件は、受験は一度きりで、もしダメなら村に残ることでした。幸いにも特別奨学金を貰うことが出来ましたが、それだけでは生活できません。そんな訳で授業にはあまり出られませんでしたが、いろんなイベントと云うことになると大学に行くので、先生方には大変印象深い学生だったと思います。年末の餅つき大会、寒い時期のおでんの出店等、私が路線を引いた通りに40年たった今でも土木工学科で引き継がれています。その頃は、どちらかというと学生という感じではなくイベント屋というものでした。

中野: 学生仲間で何かやることがお好きだったのでしょうね。

大田: そうですね。中学、高校時代、体育祭ではなぜか応援団長とか実行委員長になってしまうのです。私は山深い村から町の学校、魚津高校へ行きましたが、最初はすごく馬鹿にされ、山猿と呼ばれていました。中学の頃は野球をやっていましたが、村の我がチームにはお揃いのユニフォームもなく、誰もスパイクを履いていないという状況でした。それでも結構強かったので、試合に出て勝つと必ず「山猿、山に帰れ」とヤジを飛ばされていました。自分自身そういうことに対するコンプレックスがすごくあり、何くそ、今に見ていろという思いはありましたね。

中野: だから、「北の大地」を目指された訳ですね。


魚津高校体育祭(中央:トロフィーを持つ)
大田: 今は北陸新幹線も通り、かつての「裏日本」という言葉も死語になりましたが、私たちが小学校の頃の教科書には実際に「裏日本」という記載がありました。たまに親父が町に出た時、絵本を買って来てくれました。そこに“お正月には凧上げて、独楽を回して”と書かれていましたが、村にはそんなことが出来る道具も場所もありませんでした。漫画を読んでも主人公が食べる「おやつ」にドーナツが描かれていたので、ばあちゃんに「おやつをくれ」というと「芋でも食ってろ」と言われました。そんなギャップがあったから、「裏日本」の人間が持つ、黙々とやる、都会の人間に負けないぞ、という思いが「黒部の太陽」にも影響されて「北の大地」への決意が固まりました。もしも私が、あの山の村で生まれていなかったら、北の大地も熊谷組もありませんでしたね。

寡黙で粘り強い富山県人

中野: 北陸の方は、寡黙で勤勉なイメージがありますね。

大田: トンネル掘りには、富山県人が結構多いと思いますよ。どうしてかというのを私なりに理由を考えると、気象条件が格段に厳しい土地柄から来るのではなかろうかと思います。というのも、冬になると、寒いだけでなくどんよりと曇った空に、真っ黒な雲の塊が覆い被さるように、もう本当に手を伸ばせば届くような高さで流れて来る。雪は屋根まで積もる。半年はじっと寒さに耐えて過ごす。そんな所で暮らしているから性格が明るくなるはずがないのです。(笑い)だから踏ん張って、町の者には負けるものかという反発心が奥底にはあるのです。

就職は熊谷組に決めていた

中野: 大学卒業後は熊谷組へ就職される訳ですが、どんな所に会社の魅力を感じられたのですか?

大田:黒部の太陽」の影響もありましたが、喧嘩しながらも最後は全員で力を合わせてもの凄いもの作り上げて行く、そんな土木に魅力を感じた訳です。その点で熊谷組と云うのは日本一だと思いました。

中野: 就職後、最初に配属された部署はどこですか?新人時代のいちばんの思い出は何ですか?

大田: 土木設計部に配属されました。入社当時から、心の中では都会の者には負けたくないとどこか突っ張っているのですから、ちっとも可愛くない新入社員だったと思います。仕事では、先輩が土木構造物、例えば擁壁だとかの設計をして図面を描いているのですが、いつも同じような計算をしているので、「コンピュータでプログラム組めばすぐ出来る」というような事を言って怒られました。「この計算を一つひとつやることに味(意味)がある」と。で、「どんな味ですか?」とやったら、また怒られました。(笑)
 しかし、本当に単純な計算ですから、コンピュータ化することで、地盤の想定条件がどのくらい変動したら、どう設計に影響するのかをいくつかものケースで計算する方が味が出るのではと言ったのですが受け付けてくれません。全く論理性がないのです。
当時、コンピュータは高価でしたが会社で買ってもらい、同僚と一緒にプログラム開発をしました。それまでの仕事が短時間で済むのでどんなものだ、いうような顔をしました。先輩からすると可愛くない訳です。随分と生意気なヤツだと思われていたでしょうね。

香港でのプロジェクト経験で、極東の日本を知る

中野: ダム現場には行かれたのですか?また、海外プロジェクトも経験されたそうですがどういうものですか?



大田: ダム現場は行っていません。その頃、熊谷組では海外プロジェクトにいち早く取り組んでおり、私は香港の地下鉄工事に携わることになりました。ある意味、運命的で仕事としては新しい知識を吸収するチャンスでした。当時、香港はイギリス領でしたから仕様書は全部ブリティッシュスタンダード(BS)という基準で作成されていたので、まずその内容を理解してプログラム化し、計算書も自動的に英文で打ち出せるようにしたのです。当時、熊谷組では誰も英国の仕様書で設計をやったことがなかったのと、私がプログラムを組んで計算書を作った経験があったので、指名されたのです。

中野: 海外で外国人と組んで仕事をされているのですから、いろんなご苦労があったかと思いますが印象的だったのはどんなことですか?
大田: 現場には日本には無い独特の雰囲気がありました。興味を持ったのは、日本がなぜ極東と言われているのか、ある種のコンプレックスを感じました。どういうことかというと、イギリス人の土木技術者が香港に来るのは彼らにとっては左遷なんです。地の果て、極東に飛ばされたという不満を抱えていたように思えました。当然、日本の技術者は一段下に見られていました。私はそれまで日本を中心とした世界地図しか見てこなかったので感じたことはありませんでしたが、彼らから見ると日本は、まさに極東なんだと思い知ったという訳です。

中野: 海外の土木技術者との接点があり、いろいろ違うというのが分かったのですね。

大田: そうですね。仕事の進め方も、日本と海外ではまるで違っていて、これはどちらが良いとは言いませんが、それぞれ一長一短があります。大きな違いは、海外では極めて論理的です。昼間はまるで喧嘩するような勢いで大議論をしていても、終われば握手して一杯飲みに行こう、とやる訳です。日本では、昼にそういうことがあると飲みに行きませんよね。なので、文化というものはここまで仕事にも影響があるのかと思いました。全く異なる文化で仕事するのは難しいことです。

世界初の複線型シールド工法を開発

中野: そういう意味では、若い時期に海外の仕事をされたのは良い経験になったのでないでしょうか。帰国後、再び現場に出られてから、世界初の複線型シールドマシンによる工法の開発に携われたそうですが。

大田: 地下鉄を複線にするには、当時は2つの車両を丸ごと囲む、非常に大きな円形で造るのが主流でしたが、その方法だと設備だとか空調等いろんな機器のスペースを取っても大きな空間が余る。すると断面が不合理だということで、2つの車両が通るのに必要な断面だけを掘れるような、2つの面を持つシールドマシンが出来ないかと考えたのです。これがマルチフェイスで、後にトリプルにもフォースにも発展することになる訳ですが、まず2つの面を一度に掘ることからやったのです。

上:横2連型MFシールド工法坑内状況
下:京葉都心線京橋トンネル工事シールド機

第16回ITA 総会及び国際コングレス(1990年中国)で発表
中野: 複線を同時に掘れるようにする、すごい発想ですね。

大田: 必要な断面だけを掘ると云う理屈としては非常に合理的なのですが、従来からトンネルは出来るだけアーチ形に掘るというのが力学的には常識とされてきたので、複円形だと、このくびれた部分が崩れるのではないかというイメージがあって、社内のトンネル技術者からは大反対が起こりました。トンネルの常識を知らないヤツが何を言っているのかと。こんなのは熊谷の恥だと。そこまで言われました。

反対を受けたからこそ、課題が明らかに

中野: やはり、あの黒部の破砕帯にトンネルを掘り抜いた熊谷組だからこそという気持ちが強かったからの反対でしょうか。

大田: と云うより、トンネル工事を初めとして我々の仕事は“単にやりました、失敗しました”ということでは済まないのです。人の命がかかっているので、失敗は許されません。だから新しい技術の挑戦度が高ければ高いほど保守的になって当然なのです。技術が大きくジャンプアップする時には必ず大抵抗にあうのです。“これは良い”と皆が認めるようなものは大したことはないのです。あの不可能と言われた破砕帯を突破した笹島さんの班はその後、青函トンネルを掘り、その他の日本の主なトンネルをどんどん掘って行きましたが、そのうちにNATM工法というのが出現して、この対応にすごく苦戦しました。

欧州山岳トンネルの技術を日本に

中野: 海外の最新のトンネル技術が入ってきたのですね?

大田: そうです。NATM工法は、New Austrian Tunneling Methodと言って、名前の通り欧州のオーストリアで開発されたトンネルの掘り方なのですが、これが我が国とは全く違う発想です。従来の日本のトンネル掘りは、松の木の杭やH鋼を支保工として立て、矢板という板で落ちてくる土を押さえ、つまり目に見えるもので地盤を押さえて、掘って行く方法でしたが、NATM工法はロックボルトという鋼製の長いボルトを仏像の光背のように扇形に打ち込み、トンネルの天井や壁の面を吹き付けコンクリートで固め、崩れ落ちないように吊って支えるというものです。これが最初は熊谷組のトンネル部隊、笹島班のような協力会社の人には受け入れられませんでした。あんな針金みたいなものを山に打ち込むだけで、地山を支える杭も何もない空間に身を置くというということは恐怖以外にはなかったからです。それでいて熊谷の社員が後ろ下がって“さぁ掘って来て”と言うと、笹島班は熊谷組も不安に思っている技術だと勘ぐられてしまいますから、とにかく熊谷組は最前線で陣頭指揮を取りました。

 トンネル掘りにとって何が怖いかと言えば、落盤です。従来工法では地山が崩れる前には、松の木の杭や矢板がメリメリ、パキパキ鳴り始めるとか、H鋼のボルトがパーンとはじけ飛ぶという破壊の兆候が分かるのですが、NATM工法の場合、崩れる兆候が解らないので、万が一の時に逃げるタイミングがつかめないという恐怖があったのです。だからNATM は危険だという意識が当時の熊谷組と協力会社の間にあり、導入には抵抗があったのです。会社は何を考えているのか、とんでもない事だと。そうなると、こちらも絶対に失敗が出来ないのでそうした反対論者を説得するために、多方面から検証実験を行ないます。それによって、それまで気付かなかった問題点・課題を明らかになりました。さらに熊谷組の社員が技能工と同じ、トンネルの切羽に常に寄り添って施工することで安心感を与え、共に挑戦するという流れを作りました。それが、山岳トンネルに革命を起こしたNATM工法を実用化し熊谷組の新たなトンネル部隊となって一世を風靡するわけです。


抵抗を跳ねのけてこそ、技術が飛躍する



中野: 先ほどお話しに出た複線型シールド(MFシールド)工法の導入でも相当な反対があったと伺いましたが…。

大田: 実はNATM工法を実用化した精鋭のトンネル部隊が、今度はこの新しい複円形シールド工法について大反対したのです。繰り返しになりますが、トンネルというのは基本的には出来るだけアーチで掘る、つまり円形のトンネルにするということが力学的には安定するという事ですから、横方向に円を重ねた複円形のくびれた部分がダメだというのです。つまり、トンネル技術者にしてみれば、こんな瓢箪みたいな形のくびれたトンネルなんて絶対に応用力学に反する…と。
 こういうことを振り返ってみると、我々土木屋の世界では、何が何でもと蛮勇をふるい清水の舞台から飛び降りるようなことをするのではなくて、チャレンジングなことをする時は、一層冷静になって慎重にすることが重要だと。もし何か起きてしまったら大変なことになるのは目に見えているのですから。
だからこそ、こうした新技術を導入する際にはいろんな意見、批判に真正面から向き合ってやっていかねばならないと思います。壁が高いからこそ、それを越えた時には技術はグ〜ンと飛躍的に成果が上がるものだと。

中野: なるほど、新技術には必ず抵抗が出るのですね。

大田: 常に挑戦的な発想で取り組むのと同時に、最悪の事態にならないよう、より慎重にいろんな批判や意見にはきちんと答えていくということで、技術はジャンプアップ出来ると思います。例えば「なぜこんな風に掘るのですか?」と聞かれた時に「そんなことが分からないのか、技術の素人が!」と言うのでなく、そういう素朴な質問にもきちんと答えれることが技術屋としていちばん大事なことではないかと思います。

怯まず、諦めず、かつ謙虚に

中野: 問題点とか改良点とか、そういう部分を納得しないと仕事も技術も前に進んでいかないですからね。

大田: そうですね。要は考える人、計画する人もいれば設計する人もいますが、それをやる人、施工する人がいなければ、どうしようもない訳です。ゼネコンの人間だけでやっていけるものではないから。そのプロジェクトに関わる人の間に信頼関係がなくては実際に仕事も上手くいかないのです。MFシールド工法の開発に、技術研究所時代に取り組んだことが、後の経営に携わることになった自分自身にも大きく役立ったと思います。

経営陣に緊急提言を提出

中野: そうした研究所時代の後、本社に戻られ経営企画部にいかれたそうですが、現場から事務系に移動されたのには何か理由があるのですか?

大田: あえて告白しますと私が勝手にイメージしていた理想の熊谷組というものがあって、そこに近づけたいという強い思いがありました。それはなんと言っても「現場主義」の熊谷組で、例え頻繁に議論・ケンカをしていてもいざという時は協力会社も熊谷組も、皆が一丸となってやっていくという姿です。当時は高度成長期に支えられて会社は大きくなっていましたが、高い目標を掲げ、そこに向かって諦めない、怯まないといった、現場力が次第に劣化しているのではないかと自分が30代後半に差し掛かった時に強く感じました。そこで、土木の熊谷は戦艦大和のように単に巨大化するだけでいずれ沈没するのではないかという趣旨の建白書を書いて、副社長に送りつけたのです。
 私は、会社の資料は家に溜め込まない主義ですが、それだけは残してあります。今、読み返してみても下手くそな文章でしたが、的外れな事は言っていないという感じです。それが土木担当副社長の目に留まり、会って話を聞くから出てこいということになりました。指定された神楽坂の料亭に行くと「君かね、大田君というのは」「はい、大田です」「会社については君の言う通りだ」と、言うのです。「では、ちゃんとやればいいじゃないですか」と言うと「そう、簡単にはいかないんだよ」と…。それがショックでした。
 熊谷組は、当時、国内外の開発事業にチャレンジしていましたが、結果として負債を増やしてしまいました。表だって経営危機とまではなっていませんでしたが、社内では解決策を探っていました。その頃、熊谷組には経営企画部がなかったので、急遽組織を作ることになって全国から5人ほどが集められまして、その一人に私が入っていました。

中野: 建白書を書いたから、おまえがやれというものですか?

大田: それは判りませんが、とにかくどうにかするために人が集められた。そこに私も入っていたということになります。

巨額の負債という熊谷組の破砕帯

中野: そういう問題意識と解決策を見つける能力がある方が集められたのですね。

大田: 経営企画部のような、とにかく数字の面から経営を考える部署を作らなくてはいけない、ということで、メンバーは30代の若手というイメージでした。内示から一週間後には本社に出頭しろと言われました。当時上司だった技術研究所の所長が、「君は覚悟しているのか?技術屋を放棄することになるのだよ。そこを考えて判断しろ」と言われました。しかし、当時から私は“趣味は熊谷組”と人に言える程、会社人間でした。今でもそうですが、技術屋を放棄しようがしまいが、土台である熊谷組が無になればどうしようもない。「熊谷組がひっくりかえってしまえば、技術だけがあってもしようがないのでは」と思いました。最前線の現場で働く協力会社の人の気持ちとか、頑張り具合とかを知っていたので、絶対に経営危機という破砕帯は突破出来ると信じていました。


破砕帯突破中の本坑(提供:関西電力株式会社 北陸支社)

 しかし、周りは、熊谷組は必ずつぶれると言っています。かつて、このトンネルは抜けるはずがないとアメリカの視察団は黒部の破砕帯を見て「イッツ クレージー」と言って帰って行ったそうです。その後、熊谷組が遭遇した2回目の黒部の太陽、経営危機という破砕帯突破も正直、非常に苦しかった。大町トンネルでは、何メートルあるのか分からない破砕帯を熊谷組は掘り抜きましたが、経営危機という破砕帯は、調査が進むごとに負債が100億円単位で増えて行きますから、まさに大難関工事。とても突破出来そうにない山なのに、それでも頑張らなくてはならないというのも辛いものです。先が見えないのに頑張った大町トンネルと、目に見えている巨額の負債による経営危機とどちらが大変かというと、知らない方が幸せということからすると後者の方が大変ではないかと。
カリスマ笹島班長に倣う

中野: それほど大変な思いをしている時、何が支えになったのですか?

大田: 私が破砕帯突破要員として投入されたのは、それまでのいろんな人との出会いや支え、偶然性も手伝った運命だと思いました。その段階で自分が腹をくくり目指したことは故郷の師・笹島班長になることでした。クロヨンの記録を徹底的に読み込み、さらに笹島会長の家にも当時の話を聞きに行きました。でもそれは、過去の思い出話、栄光を聞きにいった訳ではないのです。実際の現場では、映画では表わせないほどのとんでもないことが起きていました。その時の話を聞いたら、我々の目の前に立ちふさがる経営危機などは取るに足らないくらいの破砕帯だと思いました。それによって自分を奮い立たせたのです。

中野: 笹島会長と直接お話されて、いかがでしたか。得るものはありましたか?

大田: 笹島会長は村の憧れの人です。どのくらい地元で尊敬されているかというと、私が北海道大学、一応は旧帝国大学ですが、卒業して就職して村に帰った時、熊谷組の土木に入ったと話したら、「そうか熊谷組かと、良かったなと。天下の笹島組の下請けだからな」と言われました。笹島組の方が尊敬されているのです。人を惚れさせる、尊敬される親方が、笹島会長だったのです。
 余談ですが、私の父親が亡くなった時、村の寺で葬式をやり、お坊さんがお経を唱えていると、急にザワザワと騒がしくなりました。何かなと見たら、笹島さんが来た。紋付袴で。車を降りるまで真っ黒なサングラスを掛けていてサッと取って降りてきた。すると笹島さんが来るというのは、大田さんところの弘は結構出世したのではないかと村で評判になりました。私は当時常務でしたが…。その後、社長になってからも、村にいる親戚にも私は偉くなったなぁとは言われません。新聞とかまめに読んでいる人もいないので、ほとんど知らないから。(笑)

籠に乗る人、そのまた草鞋を作る人

中野: 人物の魅力があるから人はついて行くのですね。

大田: 笹島会長の仕事の進め方は、自分がカリスマとして頂点にいて命令するのでなく、いろんな人間を集めて気持ちを一つにまとめあげていくやり方です。人にはそれぞれ持ち味があります。地盤もそうですが大きい粒、小さい粒、それらが混じり合って一緒になって強固になるのです。液状化するような地盤は粒が揃っているのでかえって危ないのです。人間の社会もまた同じで、いろんな人がいてこそ、物事が進むのです。
 “籠に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を作る人”という格言があります。黒四ダムの建設には、延べで1000万人が関わりました。笹島会長をはじめ世間で語り継がれているヒーローは極々一部の人です。地元には、クロヨンで働いていたという90歳を越えたおばあさんが以前私にこう言いました。「高い山の上で美味しいご飯を炊くのは至難の業。当時の男たちの楽しみは風呂に入ることと、少ないおかずでも腹一杯ご飯を食べること。私はいろんな工夫をして日本一の飯炊き女と言われ、男たちの元気を支えた。だからこう言っては何だが、黒四ダムは私が造ったようなもの』と…。
 草鞋を作る人は籠の担ぎ手の立場になって、担ぎ手は乗る人の立場になって、それぞれの持ち場で力を出すことで、籠は前に進んで行くことが出来ます。時には、乗り手も籠から降りて一緒になって籠を担ぐことで急な山道でも登って行ける。くろよんでは、辛くとも苦しくとも全員がそれぞれの持ち味を活かし、誇りをもって心がひとつになって、試練は克服できるいうことを、笹島会長は身をもって教えてくれたのだと思います。

新入社員研修で黒部の大陽

中野: 熊谷組では新入社員研修に「黒部の太陽」が上映されており、私も以前、拝見させて頂きました。会場では笹島会長ご本人がお話されたので大変驚きました。黒部の太陽を新入社員研修で上映される意味はどうでしょうか?

大田: 今とは時代背景がまったく異なりますし、あれは単なる映画だ、昔はこんなことだったのかと淡々と理解する新人も、会社に入って20年程してもう1回観て感極まる人など感じ方はいろいろです。これは、私がよく言っていても社内でもなかなか伝わらないのですが、黒部ダムのことを過去の栄光、ノスタルジーというふうにとらえる人がいます。トンネルが抜けたから黒部の太陽になったのであって、もしも抜けなかったなら、黒部の地獄だったのです。道具だても違う、生活環境も違う、今ほど豊かでなく貧しかったからこそ出来たとか、いろいろ人は言うけれど、どんなに時代が変わっても、困難には必ずぶつかります。仕事でも、それぞれの人生においてもぶつかる、それは変わりません。その時に人はどう振る舞うかが大事だ、という話を研修で言います。その時代その時代で如何に精一杯生きるかと云うことが大切だと。


黒部の太陽のモデルになった男(看板前)
 黒四ダムの建設はたった50年前の話で決して江戸時代のことではない。しかし、それが土木の熊谷組を作り上げてきたいちばん根っこの部分なんだということを頭の片隅において仕事に立ち向かって欲しいということです。
 あの古くさい映画では、今からすると法律違反のオンパレードみたいな工事をやっている、3Kの極みの中で、世代を越えて何かを感じるのは共通だと思います。びっくりしましたという感想をよく聞きます。何に驚いたと聞くと、昔の人はすごいことをしたのですね。お陰様で現代の豊かさがあるのですね。こちらとしてはそれでもう十分です。

黒部の太陽から何を学ぶか

中野: 私もあの時、映画を見た後の懇親会にも出させて頂き、すごく熊谷組を身近に感じました。

大田: 会社案内のPR誌に、こういうことをやります、こんな会社になりますとか、いろいろ書きます。また売り上げはこうこう、これだけ利益が出ましたといって有価証券報告書とかを仕上げますけど、売り上げの数字と社名を除いて見て、どこの会社かわかるかと?パッとみて、これは熊谷組だと分かるようになればと思います。俺たちはただ金儲けだけやっているのではないぞ、というような気持ちを持っていたいと思っています。
その根本は、やはり苦しい時代、黒部の太陽・経営危機にあると。その経験から学び継承する熊谷組でありたいと思います。
 黒四ダムの工事では全体で171名の方が亡くなりましたが、熊谷組のトンネル工事では32名の方が亡くなりました。この人たちは全部、掘削日本新記録を作った所で亡くなっています。あの苦労した破砕帯の工事では亡くなった方はゼロです。あの危険な破砕帯では一分一秒が危険と隣り合わせでしたから、真剣勝負なので常に半端でない緊張感がありました。ところが毎日、ソレ掘れ、ヤレ掘れとスピードアップしている時に事故を起こして計32名が亡くなってしまった。このことは絶対に忘れてはならないことだと思っています。それは経営に相通じることだと思います。

東日本大震災について

中野: もうすぐ3.11、東日本大震災から4年経ちますがどのようにお考えですか?

大田: 復興を急がねばというのはよく理解できますが、戦後、脅威のスピードで行われたインフラ整備においては大災害に対する予防的措置を十分に議論し、そのための手段を我々は尽してきたのでしょうか?日本のこの美しい国土というのは、実は危うさと同居しているのだと真剣に覚悟しておかねばならなかったこと。こう言うと言い訳がましくて亡くなられた方々、被災された方々には大変申し訳ないのですが、そういう気持ちがあります。
 また、あの震災は、我々日本人に何を問いかけているのか?ということにまだ答えは出ていません。また、我々土木技術者に何を問いかけているのか?についても同じです。

土木技術は、人間を幸福に出来るのか?

中野: 土木技術者にとって、まだ答えのない課題があるのでしょうか?

大田: 文化勲章受章者の宇沢弘文さんという方の著書「経済学は人間を幸福に出来るのか」の中で、市場原理に曝してはならない“社会的共通資本”の重要性について説いておられます。それは、自然環境、歴史風土、文化、コミュニティ、教育、医療、道路等の社会インフラのことで、これらについては人間の欲の尺度でもある貨幣価値で判断してはいけないものだと…。この考え方には、私は大賛成です。
 東日本大震災は、言葉を選ばずに言わせて貰うと、いわゆるバブル崩壊後、その後横行した拝金主義、節操のない競争主義、周囲のことを気に掛けず自分さえ良ければ良しとする考え方がはびこってしまったことについて、警鐘をならしています。明治以降、とりわけ戦後の70年間において土木技術は日本経済の発展に大きく寄与したことは間違いないのですが、この間の光と影を総括しておかねばならないと思います。例えば400年前の利根川東遷がもたらした江戸の繁栄、その後の首都圏一極集中と災害リスクのかつてない増大についてです。社会インフラについて、費用対効果の面だけで評価することの危うさも意識しておかねばならないと思っています。

ダムについて思う事


厳冬期の黒四ダムで(大町トンネル改修工事視察時)

中野: 大田さんは、社長に就任されてからも現場にはよく足を運ばれていたそうですが、現場がお好きなのですか?

大田: 現場を頻繁に訪ねるのは、熊谷組を支えている現場の社員と協力会社の皆さんの顔色を見に行くことが目的です。また、遠くに行く時は飛行機を利用しますが、私は晴れている時は窓からずっと下を眺めています。大きな都市に流れている川の上流にはひっそりと自然に抱かれるようにダムがあります。人間が地上でダムを見るとすごく巨大ですが、上空から見ると都市の方が遥かに巨大で人間が我が物顔でこれほど陣取って良いのかと感じてしまいます。強欲な人間に文句も言わずに水を供給しているダムについつい手を合わせてしまいます。
 これから日本は人口減少社会になるもののあれだけの都会の広がりと人々の暮らしの繁栄、その生活水・工業水・農業水、電力を支えているのがダムです。日本は雨が多い、川が急である。それに立ち向う、素晴らしい智恵だと思います。ダムだけでなく、疎水にしても溜池にしても、昔から日本人は水について大変苦労してきました。ダムについて、いろんなことで反対している人にも、ぜひとも水の怖さとありがたさを知って欲しいと思います。ダムは都市の遠くでひっそり頑張っていると。そういうことをどう知らせるか、都会の生活がどう支えられているかというのは、いくら口で言ってもなかなか難しいと思います。例えば、水道水に色を付けて、今日の水はなんとかダムから来たとかいうふうにする訳にもいきませんしね。

家族の理解を得ていますか?

中野: まずは家族に、ダムのことを知って貰う必要がありますね?

大田: 一時期は、毎日のようにメディアで「ダムはムダ」と言われたことがありましたが、その頃、ダムに関わっている社員が私に言いましたよ、息子が何も言わないからかえって辛いと…。息子さんはお父さんがダムの仕事をしていることを知っているのに、です。家族を一度ダムに連れて行ったらどうかと私は言いました。現場に立ってダムを見てその役割を理解すれば、意識は変わると思います。先ずは家族に対して体当たりで接していかねばと思います。日々、我々が一緒に生活している家族がまず、そういう理解者であるか?ということです。

中野: そういう伝える努力は大事ですね。


妻・息子の家族をクロヨンへ案内
大田: 伝える、伝え方と云うのは難しいですね。特に、インフラが巨大化・複雑化しましたので、どのようにして、水や電力が安定的に供給されているか?と云うことが実感出来なくなっていますからね。小さい頃、村に長さ20m位の橋が完成した時、万歳三唱をして喜んだものです。それは誰しもが必要としていた悲願の橋が目の前に出来たからだと思います。

 このような中で、私が最近嬉しい、素晴らしいと思ったのは、地元の子供たちが黒部の扇状地を潤している農業用水路を見に行ったり、その歴史を学んだり、掃除をしてくれていることです。そういう社会体験を通じて、先人たちの努力、その有り難さを学ぶことを教育に取り入れる所が増えてきています。同じように我々も、まずは家族にダムの働きを伝えるということから始めてみても良いのではないかと。
 日本建設業連合会では100万人の市民見学会を長年に渡って行っており、既に200万人を突破しました。建設業には依然、500万人の方々が関わっています。家族4人で2000万人になるのです。そうした身近な人に伝えていく努力が先ずは大切だと思います。

黒部の未来、活性化をどう考える

中野: 最後にこれはお仕事とは離れますが、宇奈月の観光大使をされておられるとのことですがどんな経緯で就任されたのですか?

大田: 私が子供の頃は宇奈月町でしたが、合併して新しく黒部市になる時に、町の歴史を閉じる閉町式というのが催されたのですが、当時の町長から地元の大使になってくれと命じられました。また手前味噌で恐縮ですが、一部上場企業の社長が出たのは町始まって以来のことだからと。仕事で全国あちこちに行くだろうから、ぜひ地元のことをPRして貰いたいということだったのです。

中野: それは今後も続けられるのですか?

大田: もちろんです。地元で開催されたくろよん50周年記念の講演でもお話をさせて頂きましたが、黒部川扇状地はダムなどによってこれだけ豊かな環境が生まれたという事を話すと、若い人にも少しは先人たちの努力や建設業の頑張りが伝わるのではないかと思います。黒四ダムの話は、昔、じいさんから聞いたことがあるな、そういうことだったのか、そんな感じで地元では受け止めて貰っています。

中野: 北陸新幹線が開通してますます地域活性化に役立つと…。

大田: 期待は非常に大きいようです。宇奈月温泉旅館の予約が増えているとも聞きます。私が、一番期待しているのは経済活性化と云うよりも若い連中がかつてのように東京に憧れず、地元の強み・文化・伝統を活かして地元で頑張っていこうと思ってくれることです。
 若い人には是非そうなって欲しい。なんでも都会の真似をするようなことはやめて、有名な温泉地のもの真似をするのではなく、宇奈月温泉でしかやれないようなことを考えて、自分たちの持ち味をもっと追求して欲しいと思います。
 自分では当たり前のことと思っていることでも他所から見たら、素晴らしいという良い所が沢山あります。それを磨いて欲しいです。

中野: 企業の本社も富山に移すというか戻すという動きもあるそうですが。


大田: YKKさんなどが本社機能をさらに黒部へ移管すると聞いています。
 我々の時代は、集団就職で10時間以上掛けて列車に乗り、憧れの東京に向かった。誰もが一生懸命働いて、特急に乗って里帰りして、故郷に錦を飾るぞ、という思いでやってきたということがあります。昔はそれが一つの成功モデルでしたが、これからは都会という呪縛から解き放たれ、東京とは違うモデルになるように願っています。ようやく半世紀の夢だった新幹線が叶ったのですから、地域活性化の起爆剤になるのではと期待しています。
 終わりに一言。この40年間、妻や家族には大変な苦労をかけました。これまでやってこれたのは家族のおかげです。心から感謝しています。

中野: 本日は、貴重なお話をありがとうございました。



(参考)大田弘さん プロフィール

大田 弘 (おおた ひろし)
(株)熊谷組 代表取締役会長
昭和27年 12月30日生
出身地 富山県 黒部市

学歴
昭和50年 3月 北海道大学 工学部土木工学科 卒業

職歴
昭和50年 4月 (株)熊谷組 入社
平成10年 6月 〃 経営企画本部 経営企画部長
平成11年 4月 〃 土木事業本部 副本部長
平成11年 4月 〃 第1営業統括本部 副本部長
平成11年 11月 〃 経営企画本部長
平成14年 4月 〃 執行役員
平成15年 6月 〃 常務取締役
平成15年 6月 〃 常務執行役員
平成17年 4月 〃 代表取締役社長
平成25年 6月 〃 代表取締役会長 (現任)

主な団体歴
平成17年 4月 社団法人日本土木工業協会 理事
平成17年 5月 社団法人日本建設業団体連合会 常任理事
平成21年 4月 社団法人日本土木工業協会 副会長
平成23年 4月 一般社団法人日本建設業連合会 理事(現任)
平成23年 4月 一般社団法人日本建設業連合会 環境委員長(現任)
平成24年 5月 一般社団法人日本建設機械施工協会 副会長(現任)
平成25年 4月 一般社団法人日本建設業連合会 土木本部 副本部長(現任)
平成25年 4月 一般社団法人日本建設業連合会 土木本部 土木運営会議 議長(現任)

[関連ダム]  黒部ダム
(2015年4月作成)
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