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ダムインタビュー(78)
橋本コ昭氏に聞く
「水は土地への従属性が非常に強い,それを利用させていただくという立場にいないと成り立たない」
橋本コ昭(はしもと のりあき)さんは,京都大学大学院工学研究科修士課程修了後,昭和50(1970)年4月,関西電力株式会社に入社されます。その後,水力計画課長を経て,金居原
水力発電
所建設準備所副所長として現場を経験された後,土木建築室副部長,土木建築室土木部長を歴任。また支配人,執行役員,常務取締役とキャリアアップされ,社外においては,日本大ダム会議理事,副会長,会長をはじめ,土木学会の理事も務めて来られました。
関西電力のトップだった経験を基に,水力発電についての魅力や将来像についてや,日本大ダム会議での活動などを詳しくお話しして頂き,これからの我が国のエネルギー問題への理解を深めて参りたいと考えます。
また,学生や若手の土木技術者に対して,将来のキャリアアップを考えていくうえで有益なヒントを頂戴しようと思います。
(インタビュー・編集・文:中野、写真:廣池)
学生時代
中野:
橋本さんは学生時代の事は,余り話したくないとおっしゃっておられましたので,少しだけお聞きしたいと思います。土木に進もうと思われたのはどうしてですか?何かきっかけがあったのですか?
橋本:
父親が,鉄鋼会社の事務屋だったからか,小さい頃から私には技術屋になれと言っていました。一人っ子だったということもあり,絶対に技術屋以外は許さんというような感じでした。でも,こちらは全くそういう気にならず,なんとか違う道に行ってやろうと思っていました。
中野:
京都大学工学部を選ばれた理由は。
橋本:
大学紛争が激しくなり,東大の入学試験がなくなったこともあって,これを機会に下宿をしようと,それで京都に脱出しようと思ったのです。ただ親父が工学部,工学部とうるさく言うので,とりあえずは工学部に願書を出さないといけない。でも化学は薬品で頭が痛くなるし,建築は絵心がないし,原子力や機械とかは細かそうで,図面をいっぱい描くので嫌だとか色々ご託を並べていました。その時,ちょうど駿台予備校で私の後ろにいた山田君(後に神奈川県庁の土木の幹部になりました)が「どこ受けるんだ」と聞いてきたので「まだ決めてない」と言ったら「俺は土木を受ける」と。それで「おまえも受けないか」と言うので「何で?」と聞いたら,「雨が降ったら仕事しなくてもいいのは土木だけだ。雨が降ったら予備校サボるお前、向いているのでは?」と。「そうか、それなら受けるわ」といって,それだけで土木を受けてしまった。だから橋やダムが好きでとか,
黒部の太陽
の映画を見て土木屋に憧れてとか,そういう絵になるような話ではありません。むしろ,どうさぼってやろうかというくらいの怠け心が見え見えの選択でした。
中野:
そうなんですか。
橋本:
私が入ったのは,京大の土木系3学科が揃っていた最後の年で,土木工学,衛生工学,交通土木,この3つのいずれかに割り振られました。当時,ちょうど公害問題が騒がれていた事もあって,工学の世界はもう終わりで,これからは生物とか農学だと内心思っていたのですが,まだバイオの分野はありませんでしたから,特にやりたいものもなく衛生工学に行きました。環境系の勉強をやろうと思っていたのですが途中で嫌になり,ほとんど授業に出ずにいました。でも,必修科目の構力,水理,土質だけはちゃんと勉強していて,単位を落としたのは1つもありませんでした。構造力学Tの丹羽先生の授業は数式が多くて大変でしたが,入試の勉強に比べると楽勝ものでした。それと白石先生の構力Uだけは我ながら真剣にやっていましたね。
就職先は関西電力
中野:
大学院の修士を終えて,関西電力に就職されるのですが,就職の際にお世話になったのが中川博次先生ですか?
橋本:
大学4年生の時に親父が亡くなっていたので,働いて母親を養わなければいけない。就職を決める時には何とか給料のいいところへ行きたいと思っていました。当時,電力中央研究所は本給の他に本代とか貰えて,すごく給料が良いと評判だったので,行きたいという希望を紙に書いていたら,それを誰かが見て,研究室の仲間から,「おまえ、電力中央研究所に行きたいらしいけどあかんで、あそこは九州電力の社長推薦をもらっているのがもういるよ」と言われて諦めた記憶があります。そんな時,就職担当の中川先生から電話が掛かってきて部屋へ行ったら,「石原先生から話があったのでぜひ関西電力へ行きなさい」と指示されたのです。当時,石原先生は名誉教授で,関西電力の顧問をされていました。そこで5月の連休明けに関西電力に行きますと,人事の人から「今頃、来たのですか。普通、皆さん連休前には来られてます」と言われてしまいました。
中野:
でも関西電力に無事入られてよかったですね。では,その時に初めて「
黒部の太陽
」をご覧になったのですね。
橋本:
そうですね。新入社員研修で初めて「黒部の太陽」を見ました。熊谷組の持っている完全版です。確かに大変苦労されたというのは鮮烈に思いましたが,もともと雨が降ったら仕事が休めるというくらい土木に対して認識の薄い人間がこの業界に紛れ込んでしまったということですので,フ〜ンという位で一生を決める程の感動までしたかな?という記憶しかありません。
原子力発電所からのスタート
中野:
それで関西電力に入られて,最初に配属されたのが原子力発電所なんですね。
橋本:
会社人生というか人生ゲームの振り出しが大飯(おおい)原子力発電所1,2号機の建設現場でした。建設事務所土木課設計係という部署で2年半過ごし,結構色々なものを造らせて貰って,工事管理も任されたり楽しく過ごしました。当時,建設の申請書に書かれていた
断層
が,三十何年か経ってから原子力規制委員会で問題になりました。前田建設さんに多額の請負費で40mの深さのトレンチを掘ってもらって,ようやく断層部分が出てきた。私としては,もう人生ゲームの上がりに近いところまで来て,結局また大飯の振り出しに戻った。「大飯で始まって大飯で終わるわね」と,家内にも言われましたが…。
中野:
そういうことなんですね。
橋本:
当時は,現場で本当に楽しくやっていた。土木業界の独特の用語で,何円何十銭という言葉も知らない状態で会社へ入っていますからね。つまり1m20cmは1円20銭。あの頃,設計計算もやり,図面も自分で全部描いていました。図面では
コンクリート
構造物は角を面取り型枠まで入れて描くことも教えられました。そういう意味では土木工事現場での基礎だけは徹底的に叩き込まれた。
大飯発電所(写真提供:関西電力)
中野:
新人としては,すごく良いところへ行かれたのですね。
橋本:
あそこの現場の係長以下で大卒は私で2人目でしたか。他の人は,高専卒も少なく高卒の人が大半でした。先輩からは「こら、おまえ」とかと言われてコキ使われましたよ,新入社員は小間使いですからね。私の土木屋としての基礎トレーニングはそこで受けました。
人工島に火力発電所をつくる
中野:
それで,原子力発電所の建設現場から次はどこに行かれたのですか?
水力発電
所ですか?
橋本:
水力発電
所に行かず火力発電所ですね。ちょうどその時,御坊の海岸に人工島を造って火力発電所を建てるという計画があり,そのプロジェクトに放り込まれました。そこで2年ぐらいいました。確か昭和54年の12月までいたと思います。これが難物でした。内海ではなく外洋に人工島を造る。太平洋に面しているので物すごく設計が難しいのです。特に設計波高をどう決めるかとかね。そこを私は担当させられた。誰も出来なかったと言ったらおかしいけれど,基本的に皆経験がなかったので,どう考えたら良いか答えが見付からないのです。
人工島の御坊発電所(写真提供:関西電力)
それまでは,瀬戸内海周辺とか内海に面した場所に火力発電所を造っていましたから。初めて外海に面した場所で,しかも人工島を造ってとなると誰も経験がない。尚かつ,当時の運輸省の港湾局が港湾構造物の設計基準を変えてしまった。それまで規則波で作成していたのを不規則波で採用したのです。
中野:
内海と外海では条件が違うのですね。
提案した新基準が採用された
橋本:
当時,港湾技術研究所にいて後に,横浜国立大学の教授となり,海岸水理学の権威となられた合田良實さんという方の発想がベースになっているのです。その頃までは,旧設計基準通りに造っていたら良いという世界で先輩はやっていたのです。そこに私が放り込まれたのですが,どうも動きが怪しいと思って,もしかすると基準が変わる可能性があるよという話をしたのですが…。それで今日,持って来たのが私の家にこれだけが唯一残っている本です。合田さんの『港湾構造物の耐波設計』というもの。新設計基準ができる前にボロボロになるまで読んで,見よう見まねで設計計算をやっていた現物です。これをベースにして計算していた。新しいやり方をやってみようというのが私だけで,それで基準が変更になった後,私が設計波を決めるという役回りになってしまいました。
中野:
この本で設計計算をされたのですか,何度も読まれたあとがありますね。
「港湾構造物の対波設計」の表紙
橋本:
当時,人工島を造ったら海岸変形も起こるのではないかということで,社内に委員会が出来て京大の石原先生が委員長で,あと東大の堀川清司先生,京大の岩垣先生と防災研の土屋先生,港湾の長尾義三先生,大阪大の室田先生と椹木先生,電力中央研究所の千秋信一さんがメンバーでした。それで,私が計算した設計図書を委員会に持って行き全部説明しましたが,学者の先生は皆さんこれで良しと言ってくれたのですが,なかなか港湾局からOKが出ませんでした。最後は,提唱者の合田良實さんに裁定して頂くことになり,私のやったシミュレーションも全部見ていただきました。それで,本も書かれ,新基準を考えられた人が言うならばということで港湾局の審議官の前で「よし」との裁定が下ったことが今でも忘れられません。合田良實さんは「関電の若い人がやったこの計算でいいと思います」と発言され,それで一気に計画が進んだという,それは感激しました。
中野:
すごい経験でしたね。
橋本:
もう天にも昇る思いでした。
中野:
会社に入られて,まだ4年目ぐらいですよね?
関西電力の主力事業へ
橋本:
ちょうど4年目ぐらいですね。サラリーマンの技術屋,インハウスエンジニアとして初めて自信が持てたのがこの時です。これでもって技術検討して行く,あうんの呼吸が身についた。いよいよ許可もおりて現場が始まることになり,皆さん現場に行く時に,私だけが一人残って水力計画課に移りました。おまえは次,水力計画をやれと言われ,そこで初めて
水力発電
との付き合いが始まり,ダムに関わることになったのです。
中野:
そうなんですね。最初は原子力発電,次に火力発電,そして水力発電と。電力会社の3本柱をされるわけですね。
橋本:
はい。原子力発電,火力発電をやって,それから水力発電をやって。自分では何とかこの会社で飯を食って行けるなと思いました。社会でも技術屋として飯を食っていけるという自信が自分なりについたのがこの時で一生忘れられない思い出です。
中野:
それだけのインパクトがあったのですね。
橋本:
水力計画に行くとまたトーンが全然違う仕事になり,経済計算だとかそういうのになるのですが,生意気な話,この時は私に出来ないものはないというぐらいに,だんだんと思えてきました。
中野:
それだけ自分に自信がついたということですね。
橋本:
そう。それまで仕事に対してそう思えることもなく,例えば原子力発電所の現場から本店に変わった時などは,もう会社やめようかなと思っていました。相変わらずの仕事で面白くなかったからです。それで「会社面白くないから辞めようかと思っている」と言いましたら,母親が貯金箱を持って来て「辞めるなら辞めてもええよ。でも母さんがお金ないの知ってるよね。そしたらこの貯金箱にいっぱい貯めてから辞めて」と言われた(笑)。
中野:
そう言われたら辞められないですよね。
橋本:
それにお金貯まらないですよ。途中で開けてしまったりするから(笑)。
水力計画の仕事とは
中野:
お母様の切り返しが良いですね。それで,水力計画に行かれてからダムとの関わりが出てくると思いますが,具体的にはどういうお仕事をされていたのですか?
橋本:
仕事的には,調査担務と計画の担務という2つがありました。調査担務というのは,それこそ,発電所を造るのに良い場所はないかと一生懸命探して,出来そうだという所には基礎的な調査をやる。それで,ある程度経済性に目処がついたら,社内で計画稟議を上げて,その地点をきちんと社内でオーソライズさせる。そこまでが調査担務の仕事です。それが終わると計画担務ということで,今度は詳細設計をやり,工事の実施稟議を上げていく。それが通れば,今度は土木課の工事担務に引き継ぐ。そういう流れの中で,私は調査の担務にいたので,最初の地点探しをやっていました。
中野:
なるほど。でも,そればかりではありませんよね。
橋本:
役割分担としてはそういう建前なのですが,結局,地点探しは人について回るということもありまして,計画の方の仕事もしていました。現在,出し平ダムの排砂をやっている新愛本地点(現在は音沢発電所と名称変更)では既に工事が進捗していました。私は,出し平ダムのバイパスの計算,
仮排水路
の計算をしていました。それと水理実験も手伝っていました。
しかし実際,主にやっていたのは純揚水の大河内発電所の着工が遅れていたので,その間を利用して必要な調査を私が担当していました。
出し平ダム(写真提供:関西電力)
今でも忘れられないのは,下部池の長谷ダムで,新日鐵広畑が近いので,そこから出て来るスラグから,
コンクリート
に初めて高炉水砕スラグを使うという検討をしていました。東大の國分先生と東工大の長瀧先生,もう1人,東大の樋口先生だったかな国鉄出身の方。それから電力中央研究所から名古屋大学に行かれた田邉先生などコンクリートの権威の方々に委員になって頂き検討をしていました。工事では阪西徳太郎さんというすごい方の指導を受けました。
長谷ダムの現場で阪西氏と
中野:
ダム造りのエキスパートですね。
橋本:
試験練りした
コンクリート
を前にして皆さん色々とおっしゃっておられたのですが,そのうち阪西徳太郎さんが試験練りのコンクリートをガッと掴んで「よっしゃ、これでいいわ」と言ったら,皆さん,「はあぁ」と(笑)。施工について,全く阪西さんには抵抗出来ない世界でした。「大丈夫、これでええ」の一言だけでした。それは鮮烈な印象でした。その阪西徳太郎さんの息子さんの信太郎さんといって,中部電力で水力計画をやっていた課長さんで,私もよくお付き合いをさせていただきました。ちょうど第5次発電水力調査の時,関西電力では私が担当者,中部電力は阪西さんが課長をやっておられたのです。阪西さんは最後土木部長をされていましたが,早くお亡くなりになりました。
ダムの論文で学位を取得
中野:
いよいよダムに関わるお仕事になるのですね。ダムインタビューなのでそこをお聞きしたいなと思っていますが,ダムではどういう研究論文を書かれたのですか?
橋本:
北陸支社の課長時代に,出し平ダムの排砂の第1回目をやりました。これは,計画を立ててから6年間ずっと排砂せずに置いておいたものです。というのは,ダム湖の底に溜まった砂のフロントがダム上流近くまで出てこないと,排砂操作をしても効果がないので,それだけ待っていざ排砂してみたら,これがえらい目に遭いました。
中野:
何か問題が起きたのですか?
橋本:
私は,平成2年の6月末に,以前ニュージェックの社長をしておられた松本さんから引き継いで課長になったのですが,12月に初めての排砂をやることも引継事項でした。操作規定上,一応は洪水の終わりの頃,減水していく時に排砂するというのが原則でした。それで何でそんな冬場に,水の少ない時期にやるのかという話になったのですが,一番最初のケースだから何が起こるかわからない。もし洪水の後処理の時の水でやって,いろいろ問題が起きたら,それは全て排砂したのが原因という話になるからということで,会社と
河川管理者
さんと相談して12月にやることになったのです。関西電力の用地については川の漁業組合さんに皆了解を取っていたのですが,海の漁業協同組合までは了解を取ってなかったので問題になりました。河口から海に真っ黒なヘドロ状のものが出て,6年間溜まっていた底の砂なので硫化水素臭のような匂いはするし大変なことになってしまいました。
中野:
漁業
補償
の問題になりますね。
橋本:
沿岸漁業として大騒ぎになった後,何年もかけて地元の了解を得ながら復旧して,また排砂をさせて貰える様にはなりましたが,その時にいわゆる環境影響調査として川も海も排砂前後の調査をすることになった。排砂するとなった時に,調査要員の手配が必要になるのです。それを予定していても天候の問題で空振りになることが結構あって,それでは困るということで,私が保守のチーフマネジャーか副部長をやっている時で,結局は「山岳域の電力ダムを対象としたダム流入量予測技術の実用化に関する研究」というタイトルで論文を書くレベルまでになり,技術的課題を解決できました。これは,出し平ダムから排砂をするに当たり,最も的確に人を手配するには,最低でも6時間前には人を手配しなければいけない。天候予測の精度を上げて空振りが極力少なくなるようにしたいという願いから,あの頃,Xバンドレーダーの技術が出てきたので,黒部に来る雨雲を正確につかみ,降雨予測をより精度よくやろうというところからスタートして,気象関係の人たちからも協力を頂きながら勉強したのです。それで石原先生の娘婿にあたる池淵先生から「おまえ、俺がもうじき退官するからその前に早くこのテーマで論文を書け」とせかされて,いろいろご指導頂きながら書いたのです。何とか先生の退官には間に合って滑り込んで学位を取得することができました。
中野:
お仕事と研究と両立ですから,結構大変だったのでは。
橋本:
我流の文章で読みにくいのを先生が見て直される。すごくお世話になりました。
金居原水力発電所が建設中止に
中野:
良い先生にお会いできて良かったですね。橋本さんはダム,
水力発電
のことをずっとやられているので凄いなと思いますが。
橋本:
そんなことはありません。でも一つ残念なのは金居原の
揚水発電
所。あそこは,私が副所長で必死になって若い人達に細かい計算をしてもらい,一所懸命設計したのに,結局完成させることが出来なかった。イヌワシ,クマタカといった
猛禽類
のアセスメントでモタモタしているうちに経済状態の鈍化に伴い,電力需要の伸びが下揺れして計画が中止されてしまった。
中野:
そうですね,建設中止になってしまいましたね。
橋本:
あれが一番残念ですね。幻のダムです。
中野:
うちの協会のダム便覧には「消えたダム」としてちゃんと載っていますよ。
橋本:
そうですか,消えたダムですか。
中野:
分類としては消えたダムになっています。橋本さんが,金居原ダムを設計されていたのですか。
橋本:
3年いましたからね。
中野:
ご苦労されたのに,残念ですね。
橋本:
あそこでは,私が次の所長になると豪語していたのですが,だんだん元気がなくなってしまって。
ダム工学会論文賞は断層について
中野:
その頃,
ダム工学会
の論文賞を取られたのですか。
橋本:
金居原発電所の下部ダム近傍の
断層
についての論文です。金居原発電所は滋賀県と岐阜県の県境に計画した
揚水発電
所で,岐阜県の上部ダムは何ともなかったのですが,滋賀県の下部ダムには断層があるのではないかという疑いがあり,滋賀県では随分騒がれました。それで,もしも断層が動いた時にどうなるのか計算出来ないかと思ったのです。下部ダムは
ロックフィルダム
でしたから,下層の変形にも追従性がある。そこでどの程度の地震動になるかということで色々と計算をしました。これは,後で原子力規制委員会に対応する時にも役に立ったのですが,入倉法というやり方です。簡単にいうと,地震の大きさは断層の長さで決まるけれど,その部分の断層について,いわゆるタネ地震のような形で,理屈でもって本当の地震を想定するというやり方です。当時は,まだその考え方が出始めた頃でしたが,京大の土岐先生のご指導を得てそのやり方を初めて使って,ダムの耐力,実力を評価して,それで何とか設計を認めてもらえないかなと思ったのです。
中野:
実際に現場で直面された問題だったのですね。
橋本:
当時,門松武さんが中部地建の河川部長で,後任が濱口達郎さんだと思います。それで説明に行こうと思って,その前にダム技術センターに相談に行きました。開口一番「おまえは構造令、令というものを何と心得ているか」と,凄く怒られたのですが,最後まで冷静に話は聞いて頂いて,直接には書類を出して良いとは言われませんでしたが,自分のところでチェックするという事ならばということで資料をまとめることが出来ました。それ以外には田村重四郎先生からも大分お小言はあったらしいのですが,試案のような形式なので論文賞の受賞を了承していただいたのだと,間接的には聞いております。
大ダム会議で年次例会に 参加して提案したこと
中野:
結果的に論文賞を受賞されたので,
ダム工学会
でも認められたということですね。
次に大ダム会議にも長く係われておられるのですが,これは社外の活動ですね。
橋本:
私自身が大ダム会議で最初に行ったのは,インドのデリーの年次例会です。その頃は,東京電力の藤井常務が大ダム会議の会長をされていました。私はそのとき技術委員会に出たと覚えています。その当時は,会社は毎年大ダム会議に行く人を変えていました。本店の課長になったら海外出張に行かせる,そういうやり方をしていた一環でした。私は,本店の課長の時に初めての海外出張は中国,その翌年にヨーロッパの出張がありました。デリーでの大ダム会議は本店の課長になったからというのではなく,その頃,ちょうど本店の課長が終わって金居原に行っていました。本店の課長を連続して海外出張させないため,たまたま途切れてしまいました。それで「おまえ、ちょっと行って来い」という話になったと思います。そこで,海外の人たちの場合は,いつも同じ人間が来て,顔なじみが出来てお互いに情報交換する。大ダム会議のようなところでは,技術的な難しい話よりは,一種のサロンみたいなところがあるから,毎年,新しい顔になっていたら,聞ける話も聞けず情報的に損をすると思い,そういう席には日本側としてもいつも同じ顔が行くべきじゃないかと,帰国してそのように上司に報告して,それ以降は,少なくとも水力保守のポジションの人間が任期中なら,連続して3年,4年と行けるようにしました。基本的に今は,大体同じ人間が行くようになっています。私が大ダム会議に行って,伝えるよりは,若い人たち,実務の人,同じ人間がずっと行ける形にしたので,そこでいろんな情報を得ているだろうなと思います。
国内も海外も コミュニケーションが大事
中野:
まさにそうですね。海外での仕事は,以前に吉津さんにも伺いましたが,土地柄も含めて,現地の人と馴染んでいかないと上手くいかないものだと。
橋本:
吉津君はどういう観点でそう言ったか,それだけでは判りませんが,そういうことは海外だけじゃないと思いますよ。火力発電所,先ほどの人工島でも地元の人たちとよくコミュニケーションをとらないと。まして水力なんかは,特にダムが出来ることによって,道路や橋が付け替えられ,山村のあり方が改変されるわけですから,地元の方々と仲よくしない限り絶対に上手くいく訳がない。
中野:
ダムは人ありきですからね。
橋本:
うちの会社の伝統ですが,ダム勤務員さんは基本的に全部現地採用です。そして,その川筋ないしはそのダム近くにずっと住んでいる方に担ってもらうことにしています。仮に,夜中に電気が切れて,いわゆる非常用のEGが動くような状態で,真っ暗な中でも大雨が降ったらこの沢からはこのぐらいの水が出てくるということがバーチャルにわかるような,そういう人たちに
ゲート
操作をお願いするというのを基本にしています。
中野:
昔からそうなんですか。
橋本:
そうです。そのために電気部門は合理化してどんどん居なくなっても,川筋ではその人たちが,うちの会社の触角といったらおかしいけど,地域とのつながり,コミュニケーションをよくして貰うように。だからある時,大洪水になり,氾濫が起こっても,ダムのゲート操作は地元の村の者が操作している以上,間違ってない,と本当に信用していただけるし,後でデータ,記録を見ても,操作規定通りにきちんとやっています。それを超えるような大水があったという状況を素直に受け入れていただけるのだと思っています。ただ海外の場合には言葉も違いますし,風習も違う,根本的に日本と違うから,余計その辺は気を使わなければならないという点では,吉津君が言っている通りだと思います。気をつけなければいけない点は,国内も海外も一緒なんだと私は思います。
ダムで働く人は現地採用
中野:
そうですね。そこの地域にいる人たちが使う水とかインフラにかかわってくることになりますからね。
橋本:
そうですね。水というのは,本当に土地への従属性が非常に強い代物ですからね,我々は,あくまでもそれを利用させていただくという立場にいないと,絶対にそうしないと,上手く折り合っていけないなと思いますね。
中野:
海外の仕事でも全部現地の方を採用しておられるのでしょうか?
橋本:
そうですね。基本的には関西電力からの派遣者に加えて多くの現地の方がいるという形です。今,やっているナムニアップの場合は,ラオスの中でも少数民族のモン族の方々の土地がかなり水没する。それで移転を伴うということで,その移転の基本的なところを全部やってもらうのにモン族の中でも英語が出来る人を採用して,ナムニアップの会社SPC(Special purpose company)の社員として地元交渉していただくことにしています。会社のメインになって貰う。それ以外にも,役所との交渉とか仕事は色々ありますので,それはラオスの方に任せる。その他,技術屋としては色々な国の方が入っておられますけどね。ラオスでは,その昔は,フランス領,後に社会主義ですからソビエトに留学していた人が多いですね。ソビエト留学組は上層部に結構います。年配者の方は英語,フランス語も出来る他にロシア語も堪能な人がいらっしゃいます。
ナムニアップダム(主ダム)
(写真提供:関西電力)
ナムニアップダム(
逆調整池
ダム)
(写真提供:関西電力)
中野:
ナムニアップはまもなく出来るのですよね。
橋本:
平成30年の5月に初期湛水になり,それから1年ぐらいかけて営業運転を開始していくのです。
中野:
ナムニアップは地域が求めているダムで,地元の人がたくさん働いているという,そういう意味では黒四と一緒だとお聞きしました。
橋本:
第二の黒四という言い方は,うちの会社にとって巨大プロジェクトだというようなイメージだと思います。
中野:
そうですね。大規模な
水力発電
事業は,国内は余りなかったですね。
フィールドがあると若手が伸びる
橋本:
私が本当に感心しているのは,若い人が物すごく伸びてきたということですね。やっぱりこういうフィールドがあるということは,若手が物凄くしっかりして心強い限りです。よく宝くじ売り場に,今日は一粒万倍日とか書いてありますね。1粒で万倍に増えるという意味です。もともとうちは昭和63年にフィリピンのサンロケ水力プロジェクトに参画して以来,土木屋が関わったのが3人です。このうち1人はすでにリタイアして,インドネシアの方で仕事をやっていますが,あとの2人は,ラオスのSpecial purpose companyの社長と,いわゆる現場のマネジャーですけども副所長クラスの人間がここに行っています。それが今,十何人の関西電力からの派遣技術者を使っていますが,彼ら若い人達は,しっかりやってくれていますから,そういう意味では1粒で入れたのが10倍にはなっている。そういう形で目に見えるようになってきているのはありがたいと思います。
ナムニアップ移転地開村式
中野:
働く場所が与えられるということは,それだけ実力が伸びるというのもあるんでしょうね。
橋本:
人がそんなにたくさん配置できないから,1つのパートのところは責任をもたせているわけですね。外国人とチームを作り,その中の
コア
にしていますから,ここは俺の丁場であると頑張るのです。ここが完成したら,俺が造ったというやつが山ほど出てくるんじゃないかと思っています。
海外の水力発電の可能性
中野:
関西電力さんは海外事業では,他に先駆けて出て行き成功しておられるのですけど,特に注意する点はありますか?
橋本:
まず問題は,水力事業は初期投資が大きくて,資本回収には30年ぐらいかかります。ナムニアップも27年後にBOTでラオスに移管します。27年かからずに,その半分ぐらいを目途にして資本回収できればと思っていますが,そううまくいくかどうかは判りません。ですが,とにかく27年間は責任をもってやると思っています。日本の電力会社の場合,フランスなんかもそうかもしれませんが,途中で,中国みたいに投げ出すようなことはありません。電力会社として地域への供給責任を持って事業している以上,そういう発想自体,DNAとしてない訳です。最後まで責任をもってやらなければならない。そうなると,手離れが悪い水力よりは火力の方が10年ぐらいで資本回収出来るということで,他社さんは,これから出てくるかもしれないけども,基本的には水力は工事の管理だとか設計ということでちょっとしたお手伝いをするけども,本格的に投資するところまではなかなかやらない。むしろ,やるのならば火力の方でという流れになるでしょう。特にこれからは電力の自由化が本格的になりますから,それが良いか悪いかは別として,経済性というか,採算性によりシビアな考えになっていくのではないかと思います。
移転地近景
(写真提供:関西電力)
移転地遠景
(写真提供:関西電力)
中野:
確かに経済性のことを考えると初期投資が多くて資本回収に時間がかかるというのがあれば,やっぱり経営の観点からみると火力とかに行きがちですがなんとか水力の魅力を見つけていただければ…。
橋本:
そうですね,どうしてもそうなる。ただ,とにかく地元の人たちが喜んでくれるようなダムに出来れば良い。海外でやってみて,日本の場合だと敗戦直後ぐらいにダムを造っていた時は,そうだったと思うんですよ。例えば,紀伊半島にある殿山ダム,あれなんかは地元はまだ電気が来てないところでした。こちらは,そこに電気を点けてあげるということを言いながらダムを造りに行っているのです。それと同じで,今ラオスでは電気とか道路もない地域に工事用の道路も造り,生活が一変するような変化を起こしています。その地域の人が本当に幸せになるんだろうなということを考えてあげないといけない。
今まで自給自足のような生活をしていた人たちが,金銭の生活に入っていく訳ですよね。後になって,昔の方が良かったとは思われないようにするために,どういうふうにしていったらいいのか,モン族の社員の人たちにもいろんな話をして,生活が成り立つようなアドバイスをしてあげるように,地元にアプローチしています。そういう完成後のケアということも,全部が全部は出来ないですが,まずは地元の人が自主的にやっていただけるような仕組みだけは作っていかないといかんと思っています。人の人生を変えている訳ですからね。ましてや,今まで何もなかったところの人たちは,価値観まで変えざるを得ないような状況ですから。だから,あそこでは終戦直後の日本みたいなものだと思って,先輩連中はどういうふうにやったか,いろんな苦労があったと思いますけども,それを実現していかなくてはと思いますね。
中野:
そうですね。アフターケアも大事ですね。
橋本:
うちの会社は,そういう意味では水力事業をやっていいと許されている会社ですので,一つ一つを失敗しないように。採算はある程度度外視すると言ったらおかしいですが,投資する時にはある程度のハードルレートがありまして,IRRでリターンで何%いるというのがあるので,それでやっています。最終的にはトラブルが起こらないようなダム,発電所をきちんとつくるということで,多少それが思ったような形にならずとも,それは関西電力の面目をかけてでもきちんとやるべきだという発想は,経営者には基本的にはあると思っています。
くろよんスピリット
中野:
関西電力さんは,黒四からのスタートがあるので,どうしてもそこへ話が行ってしまいますが,くろよんスピリットというか,そうした想いは皆さんありますか。
橋本:
うちは,黒四だけは絶対に手放せない。もしも黒四を手放してしまったら,売り物がなくなってしまいますからね,うちの会社は。DNAとして受け継いでいるし,背骨になっているから。
中野:
本当にそうですね。
橋本:
私みたいに,黒四があるということも知らずに関西電力に入った人間でもね,そうなりますから。
黒部ダム(写真提供:関西電力)
中野:
橋本さんが黒四を知らずに入ったというお話には,びっくりしました。
橋本:
だんだんとここの会社に馴染む,42年も経つと当たり前になります。実は,昔,水力計画にいた頃,忘れられないことがありまして。その頃の上司は,黒四経験者が会社の中にいっぱいで石を投げたらすぐ当たるぐらいいました。当時の私の上司に,専務までやった近藤さんという人がおられました。昔の海軍大将の息子で,本人も海軍兵学校におられ,敗戦後東大の土木を出られた方。黒四の設計からスタートして,最後のダム工区長をやられた。物凄く怖い人だと皆に言われていましたが,私は余りそう思わずにいたのですが,ある時,その方に「水力計画でダムなんてもうろくなものはあらへんですね。その昔、黒四とか、やれた人はよほど運のいい人ですね」と言ったら,「おまえ、生まれてくるのが遅いんだ」と言われました。それで,ナムニアッププロジェクトが始まった時に「所長で行きたい」と社内で言ったら,「おまえはもう無理や。エラくなり過ぎた」と,ちょうど私が常務をしていて最後の年,確か平成26年,黒四の50周年のOB会が大町でありました。当時の会長の森さんのメッセージを代読して,その後,私が現職の土木屋ということで挨拶した時,かつて私は近藤さんに「おまえ、黒四には生まれてくるのが遅いんだ」と言われ,最近,海外のダムプロジェクトで皆さんの後輩がやっていますけども,私がそこに行きたいと言ったら,今度は生まれてくるのが早過ぎたようで行けませんでしたと言いましたら,会場が大爆笑でした(笑)。
中野:
まさにタイミングが合わなかったのですね。
橋本:
そう,合いませんでした。私自身はそういう大きな仕事が出来なかった。ちょうど,大きなプロジェクトの狭間にいたのです。
ダムの魅力について
中野:
でも,思い出になるようなことが関西電力に入ってから,様々な場面でその都度伸びて来られたのだなというのはすぐ判ります。橋本さんにとって,ダムの魅力というのを最後にお聞きしたいのですが。
橋本:
私が思うのは,ダムは人間が自然を征服した訳ではなく,むしろ自然と折り合いながら,それぞれのダムの個性がある。そういうものなのです。ダムそのもの,
コンクリート
があって,こういう設備があってということを,ダムマニアの方はいろんな観点から見ておられると思います。だからより広く一般の人にダムを好きになって貰おうと思ったら,ダムと貯水池,それら全体で見ていただくような試みがもっとあったらいいのにと思うんですよ。時々,寂しい感じのレストランだとか,そういうのがちょこっとダム周辺の道路脇にあったりしますが,地元のためにはそれも大事かもしれないけれどもう少し別な形で見せることができないものか。ダムが自然にどうやって溶け込んでいるかという表現が出来ないのかなといつも思います。
ダムカード
という形で情報が発信されるのも,ファンが1人でも2人でも広がっていただけるのは非常にありがたいことです。
中野:
今は,ドローンとかが出て来て,ダムの姿が色々な角度から見られるようになりました。そういう映像とかがもっと出て来ると良いかもしれませんね。
橋本:
ドローンで見たら,もっと自然との調和というのか,ダムが自然を征服した訳でも何でもないというのがよく判るのではないかと期待します。
中野:
確かに溶け込んでいるというのがもう少し判って貰えるといいですよね。必ずしも自然を破壊しているのではないというのがね。
橋本:
そうなればね。そうした観点が今のダムのいろんな活動の中でちょっと欠けているのかなと。
中野:
最近は,少しずつマスコミというか,テレビでも取り上げられる機会が増えてきました。放流が格好いいとかやってくれるようになってきているので,それはちょっとありがたいかなと。
橋本:
それと,地元の人にもいろんな想いがあって,移住された方もいらっしゃるし,いろんな方がいらっしゃると思うのですが,そういう人の気持ちも含めてすごく自然景観の中に溶け込んで役に立っているということがいえるように,もっと表現の仕方があるのではないかと,いつも感じています。
中野:
そうですね。今日は貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。
(参考)橋本 コ昭 氏プロフィール
昭和23年8月1日生
京都大学大学院工学研究科修士課程修了
(経歴)
昭和50年4月 関西電力株式会社入社
平成4年6月 水力計画課長
7年12月 金居原
水力発電
所
建設準備所副所長
10年5月
ダム工学会
論文賞受賞
「周辺
活断層
を考慮したダムの耐震設計について」
11年6月 土木建築室副部長(土木)
15年6月 土木建築室土木部長
17年6月 支配人・土木建築室長
18年6月 日本大ダム会議理事就任
18年6月 執行役員・土木建築室長
19年5月 日本大ダム会議副会長就任
21年6月 常務取締役
22年5月 土木学会理事
(〜24年5月,企画担当)
25年6月 取締役常務執行役員
26年2月 日本大ダム会議会長就任
取締役退任,エグゼクティブ
・フェロー就任
29年2月 日本大ダム会議会長退任,
顧問就任
【参考】
学位等:京都大学博士(工学)
「山岳域の電力ダムを対象としたダム流入量予測技術の実用化に関する研究」
技術士(電力土木),APEC Eng.(Civil Eng,)
所属学会等:ダム技術センター評議員
[関連ダム]
出し平ダム
長谷ダム
殿山ダム
黒部ダム
(2018年10月作成)
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