ちくしなる犬鳴川の怒るとも鎮めてダムはみちたたへたり
この歌碑は、犬鳴ダムサイトに左岸側に、「犬鳴ダム竣工記念 福岡県・若宮町・宮田町・地域振興整備公団・清水・住友・為廣建設工事共同企業体 平成5年3月」として、建立されていた。
平成23年6月5日博多駅からJR福北ゆたか線の列車に乗り飯塚駅で下車、目の前に忠隈炭鉱のボタ山が3つ並んでそびえる。すでにボタ山でなく緑に覆われていた。一見すればボタ山とは気づく人はいない。遠賀川流域のNPOの仲間たちが遠賀川水系の犬鳴ダム、力丸ダム、福智山ダムを案内してくれた。
犬鳴ダムは、遠賀川水系犬鳴川の福岡県若宮市犬鳴地先に平成6年に、福岡県によって造られた。型式は重力式コンクリートダムで、堤高76.5m、堤頂長230m、堤体積23万m3、総貯水容量は500万m3のダムである。若宮市は福岡市と隣接し、最近自動車産業が誘致され、人口約3万人を擁する町である。犬鳴ダムの目的は、洪水調節、下流の1719.18haの農業用水の補給、それに若宮市に対して日量5000m3の上水道並びに宮田工業団地への日量16130?の工業用水の供給となっている。
犬鳴という地名の由来が、ダムサイト付近の看板に次のように、記されている。「犬鳴山で猟師が犬を連れて猟をしていたが、犬が激しく鳴き続けるので獲物はとれぬと、この犬を鉄砲で撃った。ふと見上げると大蛇が姿をあらわし、犬が鳴いたのは危険を知らせたものと知って、後悔した猟師は坊さんになって犬の塔をたて、それからこの地を犬鳴となったという。」と。こんな悲しい物語がのこる。
犬鳴ダムは、「司書の湖(ししょのうみ)」と名付けられた。犬鳴谷にゆかりの深い、筑前福岡藩家老職にあった加藤司書にちなんでいる。司書は、家老として、犬鳴の地に黒田藩主の有事の際の隠れ家として別邸を築造し、たたら方式を取り入れ、鉄をとりだし、鉄砲をつくり、幕末の動乱に備えたが、佐幕派と勤皇派との争いで、勤王派であった司書は、佐幕派から切腹させられ、35歳の若さであった。ダム名はその司書の名をとっている。これもまた悲しい。
ダムは治水、利水の目的で造られるが、水没する人たちは、かなしいかな故郷を後にしなければならない。犬鳴ダムでは、28世帯が移転した。移転はダムにつきものではあるが、このこともまた悲哀を感じる。
このような3つの悲しみのダムを胸に秘め、散策していると、ホトトギスののどかな鳴き声が谷間に響いてきた。心が少し和んでくる。加えて6月の薫風のダムは心地よかった。
先日からの雨で、ダムは満水に近く、この短歌のように、「犬鳴川の怒るとも鎮めてダムはみちたたへたり」そのものであった。
|