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文献にみる補償の精神【2】
「三年諸役不入とする」(玉川上水)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開いて以来今年で 401年を迎えた。天正18年(1590)7月豊臣秀吉は、家康の所領三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5ケ国を没収し、代わりに伊豆、相模、武蔵、下総、上野の5ケ国を与え、江戸城を居城とするよう命じた。この国替えに家康の家臣たちは激怒したが、家康は一言の愚痴も言わず、家臣たちをなだめた。同年8月家康は駿府城に戻らず、小田原征伐先から江戸城に着任、49歳のときである。

 長禄元年(1457)江戸城は、武将・歌人太田道灌が築いた。そのころは1000人規模の軍事的一拠点に過ぎなかった。家康の入城のときは、遠山景政の持城で、景政はほとんど小田原城に詰めていたため、廃城のように荒れ果てていたという。   

 この江戸城の東南は遠浅の海辺で、満潮のときは城の近くまで潮がやってきた。東側にはのちに外堀となった平川が流れ、さらに、城の周辺には大沢池、神田沼、忍不沼が広がり 100軒程の一寒村を形成していた。
 家康の家臣とその家族も江戸に移住、家康たちは江戸の市街地を造成し、利根川、荒川の荒れ狂う大河を治め、沼地を田園に造り変え、関東平野を黄金の地へと改造していくこととなる。 

 移封が発令されると直ちに、家康は大久保藤五郎忠行に上水に係わる調査を命じ、まもなく小石川上水が通水し飲料水の確保がなされた。この上水は井の頭池を水源とするのちの神田上水の基となった。家康は市街地の開発に着手、海岸地帯の埋立工事により市街地を着々と拡大していった。日比谷の入江は西の丸造営の掘削土、神田上水掛桶工事に伴うお茶の水丘陵地の掘削土で埋め立てられ、今日の日比谷の街が造られている。徳川幕府の人質政策によって、諸大名やその家族たちも江戸に住むようになり、さらに、都市の発展に伴って人口が増加し、江戸の飲料水は神田上水では到底賄いきれなくなってきた。

 そこで、徳川幕府は、承応2年(1653)老中松平伊豆守信綱を惣奉行、道奉行伊奈半十郎忠治を監督者、玉川庄右衛門、清右衛門兄弟を工事請負人として、玉川上水を開削した。多摩川左岸、羽村(現、羽村市)取水口から、江戸四谷大木戸まで延長約43km、高低差92mである。翌年、良質な飲料水が江戸城と市街地に供給されるようになった。

 この事業に関する松浦節の『約束の奔流−小説・玉川上水秘話』(新人物往来社・平成15年)は、関東郡代伊奈半十郎、半左衛門父子の立場から描いている。次のように事業地にかかる高井戸村民の対応について、「辛夷の花」の章により引用する。

 工事請負人の庄右衛門が五日前に、高井戸に現れた。八人の測量衆を指揮して村のあちこちを測り、次々に標識の杭を打っていく。「今日は仮の測量じゃ。御上水の候補となる道筋を探っておる。ここが水路と決まったわけではない」
 そう言って測量を続ける真っ只中に、源次が猛然と飛び込んで行って問い詰めた。
 そうして名主の杉山家が上水路にかかることを知ったのである。志乃は隣村へ出かけていて留守であった。
 源次は、詰問する前から水路の道筋を見抜いていたようだったと、居合わせた卯之吉は、志乃に語っている。村人たちが驚き、他の誰の家と誰の畑の上を通るのかと詰め寄ったとき、測量衆が源次に襲いかかった。
 源次はひどく殴られ蹴られ、頭と肩に傷を負った。血を流して倒れた源次を、かれらは縛った。
「この者、関東郡代の陣屋にて預かる」
 捨て台詞を残して荷車に乗せて連れ去った。

 まもなく半十郎のはからいで、源次は釈放されたが、玉川兄弟が地域住民に対し、乱暴な工事請負者として捉えられ、意外な感じを受けた。
 続いて、半十郎、半左衛門と高井戸村民とのやりとりを描いている。

 水路の断面図である。
「水路の幅は上流の羽村で広く、下流に行くに従い狭くなる。水に勢いをつけるためじゃ。この図は水路の断面を平均値で描いてある。ここ高井戸は四間だが全水路を平均すると幅は六間となる。三十六尺。水深は平均四尺。これを掛けて断面の体積を出すと、百四十四立方尺だ。つねにこれだけの水量を流す。実感しにくいかも知れぬが、江戸数十万の命を守るには、この水量が必要なのじゃ。これほどの水量を支える懸樋や築樋は、今の技術では築くことができぬ」
 吉兵衛は天を仰ぎ、人々は呆然と顔を見合わす。
「そこで公儀としての願い、過酷なること承知の上で申し渡す。高井戸は、家屋敷を潰される七軒、主たる名請地の畑を失う五軒、合わせて十二軒。谷の北側の、この地を代替地と定むるゆえ、引き移り、新たに高井戸新田を開発してくれい。地味、開墾の可能性、全ての条件においてここが最良と見た。我々はあらゆる援助、便宜を図る」
 半左衛門は、ここまでを言い切った。そして、吉兵衛と他の名主達の顔を、一人一人、確かめるように見つめる。ややあって、吉兵衛が尋ねた。
「御公儀の援助は」
 伊奈半十郎が前へ出た。
「御上水の道奉行として、また、地方支配の関東郡代として申す。鍬下年季は三年。三年諸役不入とする。三年間、年貢を取らず、公儀への奉仕も免除じゃ」
「三年、でござりますか。谷の北に移り、諸役にも出ず、未開の地をひたすら開墾する」
 吉兵衛が身を震わせて、半十郎を見上げる。
「そうじゃ。各々が開墾に精出し、各々の地が物成りを生ずる田畑となったときその田畑を、開墾したる者の名請地として登録する。」
「暮らす家は」
「家屋敷の建替え賃は、一件につき金五両」
「五両」
「食料は、米一俵宛。種籾、肥料等は、必要に応じ無利子にて貸し与える。これが精いっぱいの手当てじゃ」
 半十郎の一言ごとに、声が挙がった。安堵は微塵もなく、不安と苦悶の叫びと聞こえた。それは志乃自身の呻きでもある。
 −−−この杉山家が、消えて無くなる。思い出のいっぱい詰まった、あの蔵も書庫も。わたしの辛夷の木も。

 半十郎は、高井戸地区の7軒の家屋移転、畑を失う者5軒に対し、直ちに代替地を与え、その代替地の開墾の援助を行う。さらに3年間の年貢免除、公儀の諸役の免除、家屋移転費用5両を与え、食料米一俵、種籾、肥料を無利子で貸し与えている。
 半十郎は補償という概念ではなく、あらゆる援助、便宜を図ると言っている。協議ではなく、一方的な通告であるが、今日の「公共用地の取得に伴う損失補償基準」の基本的な考え方と殆ど変わりはないといえる。このことは、現在の憲法29条「財産権はこれを侵してはならない。財産権の内容は公共の福祉に適合するように法律で此れを定める。私有財産は正当な補償の下にこれを公共のために用ひることができる」の規定に通ずる。幕府はこのような援助(補償)について、すでに制度化を図っていたのだろうか。ともかくも、半十郎の決断には、被補償者に対し、温かいおもいやりがにじみ出ていると思われる。しかし、被補償者はこれからの日々の生活に不安を抱いている。

 この小説のあとがきに

 高井戸新田を扱った「辛夷の花」は『新編武蔵風土記稿』の記載による。上水掘削のとき高井戸村へ掛かりて掘通しければ代地として新田を開き賜りしより、かの地の農民ここへ移り住まひける故、新たに中高井戸村と名付けたり

と述べている。このことは、中高井戸村へ移り、その地を開墾し、苦労を重ね、助け合い、生活再建がなされたことが実証される。

 なお、玉川上水の水は、野火止用水、福生分水、熊川分水、拝島分水、千川分水によって武蔵野台地の農地を潤し続けていく。一つの目的を持った利水事業が成功するとのちのちに分水され、他の地域へと供給され、その地域が水の恩恵を受けて発展していくこととなった。

 終わりに、徳川家康の関東移封について繰り返すが、竹村公太郎著『日本文明の謎を解く−21世紀を考えるヒント』(清流出版・平成15年)には、

 江戸城に入った家康は徹底的に関東一帯を歩き廻った。そして、この調査で、宝物を探しあてた。その宝物は日本一広大で日本一肥沃で、日本一豊かな水と温暖な土地『関東平野』。この関東平野は稲作の三条件を備えていた。肥沃、温暖、豊かな水である。・・・・・家康は湿地帯に隠れている関東平野を見抜いた。

と論じる。

 新しい国土の誕生である。関東移封に対し一言の愚痴も言わなかった理由がわかるようである。この家康の判断力、決断力、統率力が、今日の東京を築く原点となったと、いえる。そして、上水も東京の発展に欠かせない一要因である。江戸期の小石川上水、神田上水、玉川上水を経て、現在では、多摩川、利根川、荒川の上流にダムが建設され、さらに導水事業の施行により、東京都民1236万人の生命の水が供給されている。

(2006年2月作成)
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