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文献にみる補償の精神【32】
「けやぐにならねば、津軽では仕事が出来ね」
(早瀬野ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.杭止神社−堰八太郎左衛門安高

 青森県には、「杭止神社」という一風変わった神社がある。天文年間から文録年間にかけて岩木川中流域に灌漑用の藤崎堰が造られた。この堰役を勤めていたのは堰八太郎左衛門安高で、堰の取入口は早川のために年々壊れ、農民たちは苦しんでいた。

 慶長14年4月14日安高は禊ぎを行い、浅瀬石川の取水口に立ち「この堰根年々破壊、水のらず、諸民の難渋見るに忍びず、われ今は今時一命を捨て一は国恩に報じ二は諸民の難渋を救い三は子孫永久を願う。水神願わくは志を受納し垂れたまえ」と祈り、わが身に杭を打たせ水底に沈んだ。それ以来堰は崩れることはなかったという。村民たちは「杭止神社」を建立し、今日まで安高への感謝の念は続いている。以上、東北建設コンサルタント編『平川事業誌』(東北農政局平川農業水利事業所・平成元年)を引用。

 なお、平成18年2月農林水産省は主に農業用に造られ、地域共同体で守られてきた水路を次世代に継承するために全国の「疏水百選」を選定した。青森県では稲生川用水、土淵堰、岩木川右岸用水が選ばれている。


2.平川農業水利事業について

 平川は、青森・秋田県境の柴森山(標高748m)を水源とし、大落前川、虹貝川、土淵川等支川を合わせ、藤崎町白子で岩木川と合流する流域面積83km2、流路延長36kmの一級河川である。

 昭和40年10月、農林省施行平川農業水利事業が始まった。この事業の地区は、青森県の南西部津軽平野のほぼ中央に位置し、弘前市外1市5町1村に跨がる受益地5700haの地域で、平川沿岸域(上流部)と岩木川中央右岸域(下流部)とに二分される。 上流部は扇状地形を呈し、下流部は岩木川の自然堤防と後背湿地で、傾斜は1/100〜1/1000が大半を占め、標高は最高90m(上流部)、最低3m(下流部)の低湿地である。

 水源は平川とその支流及び溜池に依存しているが、耕地面積に対し流域面積が狭少であり、しかも灌漑期に降雨量が少ないため常時河川流量が乏しく、近年に至るまで慢性的な水不足に悩まされている。また地区内の大部分は用排兼用の未改修のままの土水路であり、取水施設の井堰も老朽荒廃が甚だしく、約半数は湿田状態であり、これらがあいまって適切な水利用を阻害してきた。

 この対策として、平川農業水利事業は、平川の支流虹貝川の上流に早瀬野ダム(有効貯水量1300万m3)を新設して不足水量を確保し、更に河川取水施設として虹貝(取水量1.48m3/S)、三ツ目内(取水量1.07m3/S)、大和沢(取水量0.97m3/S)、五所川原(取水量8.44m3/S)頭首工を新設。その他幹線用水路48.0km(8系統)、幹線排水路6.2km(2系統)、揚排水機場各1ケ所を新設又は改修し、併せてこれら諸施設の一元管理を図る用水管理センターを設置する。
 これにより旱魃・湛水被害を解消し、農家経営の安定を図るものである。


3.早瀬野ダムの諸元・目的

 平川農業水利事業における基幹施設である早瀬野ダムは、南津軽郡大鰐町早瀬野地内に位置し、昭和60年3月に完成した。このダムの建設記録について、大成建設株式会社東北支店早瀬野ダム作業所編・発行『早瀬野ダム工事誌』(昭和60年)がある。このダムの諸元は堤高56m、堤頂長285.88m、堤体積135万m3、有効貯水容量1300万m3、総貯水容量1350万m3、型式は表面遮水を有する中心コアロックフィルダムで、事業費453.3億円を要した。

 早瀬野ダムで開発された農業用水最大取水量7.45m3/Sは、虹貝頭首工、第一統合頭首工、幹線用水路などを通じ、受益面積5700haの田畑を潤している。その内訳は弘前市1396ha、五所川原市1147ha、大鰐町104ha、尾上町171ha、平賀町1291ha、田舎館村74ha、板柳町386ha、鶴田町1131haである。


4.平川農業水利事業、早瀬野ダムの建設の経過

 平川農業水利事業は、昭和44年10月事務所開設以来、16年余りの歳月を経て昭和60年10月に竣工式を迎えた。その建設経過を追ってみた。

昭和34年 4月 青森県が土地改良事業として調査開始
  39年 4月 国営かんがい排水事業地区として直轄調査
  44年 9月 国営平川土地改良事業申請
     10月 東北農政局平川農業水利事業所開設
  45年 7月 早瀬野ダム右岸付替林道工事開始
  46年 4月 特定土地改良区工事(特別会計)指定
      7月 ダム工事本体発注
     10月 ダム用地補償基準妥結
  52年 4月 融雪期、盛立による水質問題発生
         早瀬野ダム環境対策検討会設置
      8月 本事業三ツ目内頭首工工事と昭和50年災道川森山
         災害復旧事業の共同施工についての協定締結
  54年 6月 本事業大和沢頭首工工事と昭和52年災小栗山頭首工災害
         復旧事業の共同施行に関する協定締結
  59年10月 早瀬野ダム完成検査
  60年 3月 早瀬野ダム完成
     10月 平川農業水利事業竣工式


5.事業推進の困難性

 農業水利事業が完成するまで、技術的な困難に遭遇することもあり、オイルショックによる物価高、工事中における台風水害などの影響を受けることがある。平川農業水利事業では、用地補償の問題と早瀬野ダム本体の盛立工事に水質問題がおこった。

・昭和44年10月事業所開設以来、早急に取りかかったのが、先ず補償の解決であった。ところが、当時青森県では、むつ小川原開発、東通村原子力発電所、東北縦貫自動車など巨大開発事業が始まり、錯綜していた。用地補償は、これらのプロジェクトに関わる土地価格に影響を受けて、なかなか地権者の納得が得られずいたずらに月日が経過したという。ようやく解決したのは丸4年を過ぎた昭和48年10月のことだった。

・補償解決後、早瀬野ダムは堤高56m、堤体積135万m3の中心コア−型ロックフィルダムで昭和50年7月から築堤を進めていたが、約51万m3盛立後の昭和52年4月の融雪期にダム下流左岸側に設けた洪水吐減勢池の貯水が赤色に変色、ドレーンからの浸透水は強酸性を示した。さらに、上流の原石山から下流の虹貝川の水質も酸性化が進行し、鉄・マンガンなどの金属の溶解がおこり、その対策として硫化鉱物の酸化反応を抑制すること、すなわち負荷源となる鉱物と空気、水との接触を極力少なくすること水質対策が行われた。

 これらの補償問題や水質問題に対し、起業者はどのような精神をもって、対応したのであろうか。


6.補償の精神−けやぐにならねば

 前掲書『平川事業誌』のなかで、鈴木眞熙所長は「けやぐに与えられた事業推進」として、次のように語っている。ここに「補償の精神」をみることができる。

【 津軽言葉である「けやぐ」とは、並みの友人から一歩も二歩も進んだ「腹蔵なく話し合え、信頼し合う心からの友人であり、何のためらいもなく相手の膝を枕に寝れる」真の友人、刎頸(ふんけい)の友を云うそうである。
 赴任間もなくあった津軽平川土地改良区役員との初顔合わせの際、白取理事長、田中弘理事長から、「けやぐにならねば、津軽では仕事が出来ね」と云われ、その言葉の裏にある「まずはお手並み拝見」はまだ良いとして「事業所と改良区が眞のけやぐになって、共に事にあたることの大切さ」の意味の深さに、平川事業の難しさと、信頼出来る環境作りの大切さを、しみじみと感じたことであった。
 着任早々の難問は、早瀬野ダム工事の再開にかけての環境問題の解決と原石の確保であった。阿闍羅山の原石使用についての地元や関係者調整では、白取理事長、山口大鰐町長に御骨折を願った。解決までの過程で御両氏から度々御叱責や御教示を頂いたが、虚心坦懐に事情を説明しご相談申し上げた事で最良の道を拓くことが出来、秋の終りには念願の100万m3盛立を達成し、改めて誠心誠意で事にあたることの大切さを教えられた。】

 さらに、鈴木所長は、

【 設計や工事実施に際して、地権者や施設の直接・間接受益者と対立する事が多々発生するが、胸襟を開いて論議し、かつ常に相手の身になって考えて見ることなど、話が終ったあと相手から「けやぐ」として受けいれてもらえる努力の大切さを、五所川原幹線用水路工事は如実に教えてくれたし、それが中・下流部の路線決定、五所川原頭首工等の河川協議、全ての国営事業の推進に役立ったと思っている。】

と述べている。


7.おわりに

 鈴木所長は「けやぐにならねば、津軽では仕事が出来ね」と言われ、この言葉を肝に銘じ、地元の人たちにふれ、用地補償の問題、水質の問題など、種々の難問に日々対処した。相手から「けやぐ」心が受容されたとき、解決への道が開かれた。

 繰り返すことになるが、「けやぐ」心とは、即ち並みの友人から一歩も二歩も進んで腹蔵なく話し合える、信頼し合う心からの友、さらに何のためらいもなく、相手の膝を枕にして寝れるような、真の友人関係である、という。この「けやぐ」心が「補償の精神」を貫いた。

 「杭止神社」に祀られている堰八太郎左衛門安高は、「けやぐ」精神をはるかに超越しているように思われてならない。

 この「けやぐ」の精神は、岩木川流域津軽平野一帯の農業用水を開発し、今日、米、りんご、野菜の農産物の生産増に繋がっているといえるだろう。

  列車行く りんごに触れん ばかりかな  (清水 明子)

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(2007年4月作成)
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