| 1911年 | 若いドイツ人、ビス夫妻が武漢から船で重慶まで下る |
| 1919年 | 孫文(1886〜1925)が「建国方略」の中で、三峡ダムについて最初に言及 |
| 1944年 | アメリカ開発局のサバーンが長江三峡の調査に基づき計画書を提出 |
| 1947年 | 国民党政府は三峡ダムに関する一切の設計作業を中止した |
| 1949年 | 中華人民共和国が成立。長江水利委員会を設置 |
| 1953年 | 毛沢東(1983〜1976)が洪水制御の目的のために三峡地域のダムを提唱 |
| 1955年 | ソ連の専門家により、三峡ダムサイトの調査実施 |
| 1956年 | 毛沢東は「江に石の壁を立て、坐峡を堰き止め、高き峡に平なる湖を作り出せ」の詩をつくる |
| | 長江流域企画弁公室(以下「長弁」という。)が設立 |
| 1958年 | 毛沢東は推進派の林一山と反対派の李鋭の意見を聴取、結論出ず |
| 1959年 | 長弁は三斗坪地点を三峡ダムサイトに決定 |
| 1965〜75年 | 文化大革命が発生し、一切のダム建設準備作業を中止 |
| 1970年 | 三峡ダムの準備作業として、長江本流に葛州覇ダムを建設決定(1988年完成) |
| 1973年 | 丹江口ダムが15年を経て完成 |
| 1981年 | 長弁は三峡ダムの段階的開発の方式を承認 |
| 1982年 | 水利部と電力部が合体、水利電力部を再建 |
| 1983年 | 「三峡プロジェクトのフィージビリティ調査報告書」を提出、150m級の高位ダムを承認 |
| 1984年 | 国務院は国家計画委員会の見解を受け入れ、175mのダム建設を承認 |
| 1985年 | 全人代で財政難のため審議を延期 |
| | 「三峡工程論証指導小組」を結成 |
| 1986年 | 中国人民政治協商会議が38日間にわたって現地調査し、着工の見合せを勧告 |
| | カナダ政府は三峡プロジェクトの「フィージビリティ調査」のために874万ドルの贈与を行う旨を発表 |
| 1988年 | カナダ世銀合同による調査報告発表、185mダム案早期着工を提案 |
| 1989年 | 戴晴編著「長江 長江」を出版。全人代の報告書が三峡プロジェクトの延期を勧告 |
| | 天安門事件起こり、戴晴が逮捕。「長江 長江」が発売禁止となる。 |
| 1991年 | 国務院はダム建設への着工を承認、1993年に準備作業を開始されるべきとした |
| 1992年 | 全人代で三峡ダムの着工を採決(賛成票1767票/反対177票/棄権644票/無投票25票) |
| | 国際水裁判諸(アムステルダム)は、三峡プロジェクトについて中国政府とカナダ政府に対し、人権、環境の面から敗訴の判断 |
| 1993年 | 三峡ダム建設事業実施の「中国長江三峡工程開発総公司」を設立 |
| | 三峡ダム建設のために全国の電気料金を値上げ |
| 1994年 | 三峡ダム着工 |
| 1995年 | アメリカ政府は、アメリカ輸出入銀行による三峡ダムへの融資を見合わせる |
| 1996年 | 通産省、三峡ダム事業に貿易保険適用、日本輸出入銀行も融資の実施を図る |
| 1997年 | 日本の8社連合、発電機(14基)の国際入札に敗退、欧州勢が受注 |
| | 長江本流を堰止め、第二期建設工事が始まる |
| 1998年 | 長江で100年に1度の洪水(中流域で死者1320人) |
| | NKKが高級厚板を受注。二灘発電所1号機を稼働。湖北省・姉帰県の新しい移転先が完成。朱鎔基首相が現地視察、品質管理を注文 |
| 1999年 | 武漢の雑誌「戦略と経営」が住民移転など、三峡ダムを批判 |
| | 朱鎔基首相が住民移転政策の調整を指示 |
| | 「南水北調」の「中央線」プロジェクトの測量、地質調査が完了 |
| | NKKがステンレス・クラッド銅板を受注。住友商事、三菱電気連合が変電設備の国際公開入札で敗退 |
| 2000年 | 日本の無償援助による荊江大堤防の補強工事完成 |
| | 重慶市雲陽県の農民639人が上海河口崇明島に到着(初の外地移転) |
| | コンクリート打ち込み機の一部崩壊(作業員3名死亡、負傷者30人) |
| 2002年 | 第一次仮締切り |
| 2003年 | 第二期工事完成、一部発電開始 |
| | ダム湖の水位135mに達する |
| | 第三期工事開始 |
| 2008年 | 北京オリンピック開催 |
| 2009年 | 三峡ダム完成予定(ダム湖水位175mに達する) |