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文献にみる補償の精神【1】
「来てくれと頼んだ覚えはない」(温井ダム)
古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会
これは、
財団法人公共用地補償機構
編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
雪化粧のダムはスリームで上品なダムに見えた。実際に、気品のあるダムだ。2004年3月4日春雪の降る、広島県山県郡加計町の温井ダムを訪れた。このダムは、太田川の支流滝山川に2002年3月完成している。
堤高
156m、
堤頂長
382m、
総貯水容量
8,200万m3、
アーチ式コンクリートダム
である。アーチ式ダムでは 186mの黒部ダム(富山県)に次ぐ高さを誇っている。取得面積は道路用地を含めて225.31ha、支障移転家屋27戸、このうち集団移転地の新温井地区に21戸、広島市等に6戸、それぞれ移転している。企業者は国土交通省で、施工者は鹿島建設、西松建設、五洋建設である。
ダムサイト
の傍の温井スプリングスホテルに泊まった。ホテルから眺める雪のダムの風情も良い。この雪が貯水量を安定させてくれる。ちょうどホテル前に、ダム湖畔に向かって、小さな半島が突き出ている。この半島を自然生態公園として、あずまや、展望台、バンガローが設置され、散策には森林浴もできるようになっている。いまは、静かな湖面に映る温井ダム(龍姫湖)である。しかしながら、ダム建設は、造られる側と造る側との葛藤と確執が必ずや生じたはずだ。
中国新聞の記者であった真田恭司著
『来てくれと頼んだ覚えはない』
(どんぐり舎・2002年)は、1967年の予備調査着手から2002年の完成まで、温井ダム建設34年の軌跡を描き出している。この書を手に取ったとき「来てくれと頼んだ覚えはない」の言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。ベレー帽の和服姿の老人が、蝙蝠傘で
ブルドーザ
ーを指している。この人が温井ダム対策協議会会長(2代目)佐々木寿人である。
この書から、次のように引用する。
一、「来てくれと頼んだ覚えはない」。つまり温井の住民の誰一人とし
て「私達が住んでいる温井を水の底に静めてダムを建設してください」と
国や県、広島市に頼んだりお願いした者はおりません。
一、現在、温井の住民の誰一人として生活に困っているわけではありま
せん。土地を手放してまで生活を変える必要は、詰めの垢ほどもないので
す。今の生活を続けられることが十分に幸せなのです。
一、だからダム建設に対して温井の住民全員が反対なのです。
一、ただし、ダムができることにより益を受ける下流域(広島市など)
に、私達の親類縁者もたくさん住んでいます。その人達を困らせるような
ことはしたくありません。またわれわれの子々孫々のために、どうしても
必要な施設であるというのなら、頑強に「反対」ではなく話し合うだけの
度量は持ち合わせています。私達だけで社会や国を構成しているわけでは
ありません。要は共存共栄ということです。
一、ただし、話し合うには条件があります。
条件というのは、
一、ダムの湖畔に温井地区の全員が住めるような新しい土地(団地)を
造ってもらいたい。ただ団地をつくるのではなく今の集落を再現したい。
つまり住宅はもちろんですが学校、神社も今まで通りのものを建設しても
らい、その地で今まで通りの近所付き合いをし以前と変わらぬ生活を続け
たいということです。
一、私達か望んで土地や家を手放すわけではなく国の政策により立ち退
くのですから、現在以上の生活が保証できるような環境整備計画を示して
ください。
一、その整備計画を見たうえでイエスかノーか答えます。
一、前にも申しましたが、あなた方(国)が「来たい」といって一方的
に来たのであって、私達が「来てくれ」と頼んだわけではないので、こち
らから「あの計画はどうなりましたか」と問い合わせたり、用事があって
も、こちらからわざわざ出向いて行く筋合いはありません。だから整備計
画などできたらその都度あなた方からダム対策協に内容を示してください
。動くのはすべてあなた方ということです。
一、窓口はダム対策協と国(建設省)の二者に絞ってすっきりとした形
で交渉したい。間に加計町や広島県、広島市などが入るとややこしくなり
成るものも成らなくなるからです。それに、私達にもそれだけの人と暇は
ありません。ですから町や県、広島市がダム対策協に用事があったらすべ
て建設省を通して私達に伝えてください。
このように、佐々木寿人会長は、調査や工事よりも、常に水没者の
生活再建
対策について重要視した。交渉にあたっては、「立ち退き後の将来ビジョン」を示させ、その条件を水没者の全員が納得したときに、初めて調査や工事を了解した。この手法を「温井ダム方式」と呼ぶ。会長は「温井ダム方式」の理念を
補償
の精神として根底にすえ、事にあたった。このことが「来てくれと頼んだ覚えはない」の表現と連動してくる。
この地域は農業と林業を主とした生活であり、当初水没家屋13戸、非水没家屋14戸と分かれ、水没農地も少なく、温井ダムは「
水源地域対策特別措置法
」に基づく対象のダムとはならなかった。このために企業者は、非水没家屋14戸における
補償
の取り扱いを含めて、大変苦慮した。
熟慮を重ねた結果、企業者は、水底になる国道 186号線から標高差にして 150m上がった小温井、後温井地区非水没家屋14戸の存する地域を集団移転地に決定し、非水没家屋14戸を
補償
の対象として取り込むこととした。関係者の了解を得て、山を掘削し、谷を埋めて、宅地一区画平均約 1,000m2、農地1戸あたり平均約 4,000m2の造成を行った。この移転地は温井
ダムサイト
右岸
側から至近距離のところに位置し、ダム湖畔が目の前である。
いまでは、集団移転地の新温井団地内に、加計町から浜田市方面へ付け替えた国道 186号線が貫いている。新温井団地には集会場、グランド、消防水利兼用プールの公共施設を中心に、それを取り囲むように国道の両側に新家屋が建っている。山側には河内神社、共同墓地が移転され、近くに農地が点在し、農業作業所、ぬくい木工センターも設置された。それぞれの家屋、公共施設、農地がほどよい間隔で配置され、従前の集落が再現されたように、社会的、文化的なコミュニケーションがよく保たれている。移転者のほとんどが新温井団地で
生活再建
を図り、従前と変わらない生活、いやそれ以上の生活が行われている、といえる。前述の「ダム湖畔の地で、今まで通りの近所付き合いをし、以前と変わらぬ生活を続けたい。現在以上の生活が保証できるような・・・。」という、佐々木会長の生活再建の希望が叶った。
温井ダム建設の特徴をいくつか挙げてみる。
■温井ダムは、
水特法
の対象外のダムであったために、下流域の広島県、広島市等が地域整備事業に全面的に協力を行った。
■加計町は、「温井ダム建設を起爆剤として町の活性化を図る」の方針で地元民に対し親身になって、温井地区の再編事業に取り組んだ。
■企業者は、非水没家屋の地域を移転地と決定し、非水没者を補償の対象者として取り込んだ。
■温井ダム対策委員会は、補償交渉にあたっては「温井ダム方式」を貫いた。
■温井ダムの施工にあたっては、
原石山
を選定せず、ダムサイト地点を掘削し、原石を採取し、
骨材
に使用した。
■工事期間中の施工者の宿泊施設は「川・森・文化交流センター」に引き継がれ、文化ホール、図書館、民俗資料館、学習室、研修、宿泊施設として多目的に利用され、加計町における文化の発進地となっている。
■材料置き場等の跡地は、多目的広場、公園、グランドに利用され憩いの場となり、また温井ダム湖祭りのイベント会場にも使用され、さらに、温井ダムには自然生態公園の散策やダム施設見学を含めると、年間35万人が訪れている。
■雇用については、新温井団地から至近距離にある、「温井スプリングスホテル」、「ぬくい木工センター」、「レストラン」、「サイクリングセンター」、「川・森・文化交流センター」の施設に採用されている。
紆余曲折を経て、多くの方々の尽力と協力によって、温井ダムは、1986年11月に
補償基準
の調印式が行われた。1988年11月新温井団地での生活が始まった。1991年3月ダム建設本体工事に着手、1994年5月ダム堤体
コンクリート
打設
を開始、2002年3月竣工式を迎えた。
温井地区の移転者が綴った太田五二編
『湖底の郷愁』
(温井ダム対策協議会・1998年)に、「温井ダム音頭」(作詩大倉正澄・作曲佐々木浩司)が、次のように掲載されて
いる。
ハアー温井大橋
アーチダム
恵みの水の行く先は
平和の都ひろしまと
花とミカンの瀬戸の島
ほんに良いとこ(ハ、ヨイショ ヨイショ)
ホンマニ ヨイトコ 温井ダム
温井ダムの完成によって、広島都市圏の洪水を防ぎ、安定的に都市用水(3.46m3/s)を供給し、最大出力 2,300kwを発電し、公共の福祉の向上が図られている。
佐々木寿人会長は「来てくれと頼んだ覚えはない」との信念を持ち、広島県、広島市の行政関係者、さらには企業者に対し媚びることもなく、「温井ダム方式」を貫いた。それ故に、一人の脱退者も出さずに27戸80余人の被補償者をベストリードの基を築いた、といえる。1984年6月12日「わしもダムを見て死にたかったのう」とポツリと本音をもらし、その78歳の人生を閉じた。
[関連ダム]
温井ダム
(2006年2月作成)
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