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文献にみる補償の精神【11】
「戦争という大義」
(相模ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
1.河水統制事業について

 昭和22年に完成した相模ダム建設に係わる水没者は 136世帯、取得面積は 208.4haである。神奈川県津久井郡日連村(現・藤野町)勝瀬地区の 115世帯は、昭和15年9月13日、山梨県都留郡島田村(現・上野原町)の21世帯は、同年11月3日をもって最終的に補償調印がなされた。昭和10年ごろダムの話が始まったとき、全世帯が水没する勝瀬地区は「河水統制事業絶対反対用地不売同盟」を結成し、寸土も譲らないという誓約書を交わしていた。しかし、やがて戦争という時代の流れのなかで、「河水統制事業勝瀬部落対策委員会」と改め、昭和13年10月末には用地測量を完了し、同年11月4日神奈川県知事に集団移転地等の補償に係わる申請を行い、補償妥結の方向へ動いていった。

 この河水統制事業とは、現代の河川総合開発事業のことであって、河川にダムを築造し、開発(貯水)した水を導水施設等によって、農業用水、水道用水、工業用水、発電用水として多目的に利用する流域開発である。

 河水統制事業について、関東学院大学教授宮本忠著『相模川物語』(神奈川新聞社・平成2年)に、次のような文章がある。

「ダムをつかって河川の流量の調整を行い、有効利用を図ろうとする発想は19世紀中頃フランスで芽生えた。ナポレオン三世(1803〜1873)は、その全盛時代に各国の権威者を集めて、ダム式によるフランスの四大河川の開発計画を調査させた。この大構想は、ナポレオンの失脚によって実現しなかったが、19世紀末期にこのフランスの河川開発調査研究に参加していた効果をいち早く発揮したのはドイツである。ライン川支川のルール川に11のダムをつくり、オーデル川には16のダムを建設した。その後、ナポレオン構想を最も大規模に採用して大きな成果をあげたのは、アメリカである。15年間にわたる論議を経て1933(昭和8)年5月連邦議会は、TVA(テネシー総合開発機構)創立の法案を通過させた。ミシシッピ川支川のテネシー川に連続したダム群をつくり、水資源開発、水力発電洪水調節、船の通航を含む総合開発事業を展開した」

 このような河川総合開発事業の原点がナポレオン三世の発想だったことには驚く。大正15年わが国ではダム式調節方法による河川総合開発事業を唱えたのは、東京帝国大学教授物部長穂と内務技師萩原俊一の両氏である。この事業は産業の発展に伴い河川を治水と利水との調整を図り、その目的を果たすことにあった。
 この河水統制事業の特徴は、・既設の強い農業水利権に抗する一手段として意図されたことと・河川開発を水系一環の思想をもって提唱したことにあるといわれている。まだ、このころは河川環境の保全の考え方は芽生えていなかったようだ。


2.相模川の河水統制事業

 昭和9年12月神奈川県議会は、相模川の総合利用の研究のための調査を認め、後の相模川河水統制事業のスタートとなった。昭和13年日中戦争が起こった翌年であるが、県議会において、相模原開田開発に端を発した相模川の水は、上水道、農業用水、工業用水、水力発電、そして下流域の洪水調節として、相模川の治水、利水計画を集結した一大事業として着手することになった。

 即ち、相模川河水統制事業は「神奈川県与瀬町(現・相模湖町)に相模ダムを造り、ダムによって生じた落差により、発電(相模発電所)を行い、相模発電所でピーク発電を行うので、下流の水量を安定させるためのダム(沼本ダム)を築造して調整池を設ける。その沼本ダムからの流れを城山町久保沢に導引し、横浜市水道、川崎市水道および相模原開田開発に分水し、残水を本流に還元する際に生ずる落差により再び発電(津久井発電所)する」ものであった。(平塚市博物館編・発行『相模川事典』(平成6年))。

3.相模ダムの補償

 前述したように、昭和15年11月 136全世帯は、補償調印を終えているが、このとき神奈川県は補償単価を発表していない。個人の補償額を計算して、関係者に送付している。「補償単価を発表しないのは、補償物件の数量につき、あらかじめ関係者の確認を経ること及び関係者相互間の比較関係より生ずる感情問題を考慮することによった」と、その理由をあげている。(津久井町編・発行『津久井町ダム史』(昭和61年))。


『津久井町ダム史』
 この補償状況について、神奈川新聞社編・発行『相模川』(昭和33年)に、次のように描かれている。

「補償決定には、県は個人別の補償種目と補償金額を記入した協議書を個人的に郵送するという方法をとった。だが、協議書の内容は一括記載であったため、家屋移転費がいくらなのか、宅地買収費がいくらなのか、慰謝料分がいくらなのか皆目わからなかった。補償費について県はそれぞれ綿密なソロバンをはじきできる限りの誠意を示したというけれども個人あての交渉には小役人的な狡猾さが感じられてならない。これは一面では個人間の利害葛藤を防ぐのに役立ったかもしれないが、補償を受ける人々にはいつまでも割り切れないものを残した。」


『相模川』
 結局、水没者の人々が同意をしたのは、時代への流れであり、戦争であったという。この書に「それが端的に現れたのは陸海軍将星の相模川べりのデモである。勝瀬の人々の間には、なお強い反対の空気が濃かったころである。与瀬町に集まった将軍たちー荒木貞夫、杉山元、小磯国昭といった飛ぶ鳥おとす陸軍の将星に加え、海軍も加わり、勝瀬地区を中心に陸海合同の観兵式をあげたわけであるから人々のきもをつぶす示威であった」とある。このように水没者には、強権的ともいえる軍の圧力をひしひしと胸に堪えたことであろう。それは「戦争のため、国家のため」という大義名分を自ずと醸成せざるを得なかった。


4.補償の精神

 昭和初期の時代を振り返ってみると、昭和6年満州事変、7年上海事変、11年2・26事件、12年盧溝橋事件、日中戦争、14年ノモハン事件、第2次世界大戦、そして昭和16年12月太平洋戦争が始まった。一方、戦時体制のなかで京浜地帯では、重化学工業が軍需の増大で飛躍的に発展し、内陸部の相模原では軍都の建設が進み、大量の水と電力を必要とした。このように戦争へ突入した非常時において、勝利のためにあらゆる犠牲が強いられ、相模ダムの水没者にかかわる補償の精神は、「戦争という大義」によって貫かれていく。

 とくに、昭和13年「国家総動員法」の成立、15年「大政翼賛会」の創立と、戦争への挙国一致体制が整いダム建設における個人的な補償要求は一刻も早く解決せざるを得なくなった。「大義とは、人の踏み行うべき重大な道義、特に主君や国に対して臣民のなすべき道」とあるが、水没者は、「戦争という大義」に拠る「補償の精神」のもとに、止むなく契約同意せざるを得なかった。戦争という時代の流れには逆らえなかった。


相模ダム

5.相模ダムの完成

 昭和15年11月相模ダムの起工式は行われたが、物資不足に悩まされ、一方労力は、横浜商工、平塚農業、愛甲農高校などの学徒動員、地元動員、 350名の朝鮮の人、 287名の中国の人も就労、このダム工事には 360万人が投下された。相模湖畔の供養塔に56名にのぼる工事殉職者の名が刻まれている。
 昭和18年2月津久井発電所が一部運転を開始、20年6月工事を中止した。戦後昭和21年工事を再開し、22年6月相模ダムは完成し、昭和天皇、皇后両陛下は、ダムをご視察されている。24年横浜、川崎の水道専用トンネルが竣工し、通水を始めた。東京都の小河内ダム(昭和32年完成)建設と同様に戦争の影響を受けた相模ダムであった。しかしながら、戦後の経済復興には大きな役割を果たすこととなった。

 なお、現在の相模ダムの諸元は、堤高58.4m、堤頂長 196m、総貯水容量 6,320万m3、重力式コンクリートダムである。起業者は神奈川県、施工者は(株)熊谷組である。

 繰り返すことになるが、補償の精神が「戦争という大義」を貫いたことは確かであり、戦争という時代の流れを改めて感じる。それ故に、 136世帯の水没者の労苦を決して忘れてはならない。と同時にこの相模ダムに携わった多くの方々の尽力も心に刻んでおく必要がある。

 もう一つ忘れてならないことは、アメリカにおけるTVAによって開発されたダムは、電力エネルギーを生み出し、その電力の大半は、爆薬、爆撃機用のアルミニュウム、さらには原子爆弾に、その他さまざまな軍需用品に製造されたことである。昭和20年8月広島、長崎に投下された原子爆弾はこのTVAのダムによって製造されたものである。

 今年(平成17年)は戦後60周年を迎えた。世界における河川開発ダムプロジェクトは、軍需産業、平和産業の基盤とも成りうるが、すべて平和産業に利用されてもらいたいものだ。

    去りがたし 相模のダムや 小鳥来る
                    (山下春夫)

[関連ダム]  相模ダム
(2006年4月作成)
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