「ダムをつかって河川の流量の調整を行い、有効利用を図ろうとする発想は19世紀中頃フランスで芽生えた。ナポレオン三世(1803〜1873)は、その全盛時代に各国の権威者を集めて、ダム式によるフランスの四大河川の開発計画を調査させた。この大構想は、ナポレオンの失脚によって実現しなかったが、19世紀末期にこのフランスの河川開発調査研究に参加していた効果をいち早く発揮したのはドイツである。ライン川支川のルール川に11のダムをつくり、オーデル川には16のダムを建設した。その後、ナポレオン構想を最も大規模に採用して大きな成果をあげたのは、アメリカである。15年間にわたる論議を経て1933(昭和8)年5月連邦議会は、TVA(テネシー総合開発機構)創立の法案を通過させた。ミシシッピ川支川のテネシー川に連続したダム群をつくり、水資源開発、水力発電、洪水調節、船の通航を含む総合開発事業を展開した」
「補償決定には、県は個人別の補償種目と補償金額を記入した協議書を個人的に郵送するという方法をとった。だが、協議書の内容は一括記載であったため、家屋移転費がいくらなのか、宅地買収費がいくらなのか、慰謝料分がいくらなのか皆目わからなかった。補償費について県はそれぞれ綿密なソロバンをはじきできる限りの誠意を示したというけれども個人あての交渉には小役人的な狡猾さが感じられてならない。これは一面では個人間の利害葛藤を防ぐのに役立ったかもしれないが、補償を受ける人々にはいつまでも割り切れないものを残した。」