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文献にみる補償の精神【25】
「誰も大事な大事な故郷がなくなることを
喜ぶ者はいない」
(徳山ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.ダムは嫌いや

 青いタオルを首に巻き、「徳山村の記録を残さないかん」と言いながら、30年近くにわたって、笑顔でシャッターを押していた増山たづ子さんが心筋梗塞で亡くなった。平成18年3月7日のことで、88歳であった。晩年、ガンと闘いながらも、ダムに沈みいく故郷の姿を撮り続けた。10万枚越える写真を収めたアルバムに埋まる岐阜市の自宅で、静かに息をひきとった。

 この悲しい報せを受けたある用地担当者は一瞬呆然として、涙があふれてきたという。 担当者に、気軽に「ヤットカメでな(久し振りや)、あんたらも難儀でな」、「私はダムは嫌いやが、あんたらは好きや」、「体、気をつけでな、また会うまでマメ(元気)でな」と、よく声をかけてくれた。増山たづ子さんは、岐阜県徳山村(現・揖斐川町)に建設中の徳山ダムの水没者の一人である。


2.徳山ダムの諸元・目的

 徳山ダムは、独立行政法人水資源機構(旧・水資源開発公団)によって、木曽三川揖斐川の上流、河口から90km地点に建設されている。

 このダムの諸元は堤高 161m、堤頂長 427.1m、堤頂標高 406m、堤体積1370万m3、有効貯水量約3億8040万m3、総貯水容量約6億6000万m3、型式は中央遮水壁型ロックフィルダムである。完成すれば、総貯水容量は奥只見ダム6億 100万m3を抜いて日本一を誇り、有効貯水量では奥只見ダム4億5800万m3に次いで2位、高さでは黒部ダム 186m、高瀬ダム 176mの次に3位となる。

 ダムの目的は、

・ダム地点の計画高水流量1920m3/sの全量の洪水調節を行い、下流の横山ダムと合わせて洪水被害の軽減を図る。
・沿川の既得用水の安定して取水できるようにするとともに、河川環境の維持を図る。
・新規利水として岐阜県、愛知県におよび名古屋市の水道用水最大 4.5m3/s、岐阜県、名古屋市の工業用水最大 2.1m3/sを取水できるようにする。
・発電として、電源開発株式会社が建設する徳山ダム発電所において、15万3千KWの発電を行うものである。

 この4つの目的を持って、平成20年春の完成に向けて建設が進んでいる。


3.徳山ダムの建設経過

 徳山ダムの建設経過について、徳山ダム事業パンフレットにより、次のように追ってみた。

昭和32年 揖斐川上流域を電源開発促進法に基づく調査区域に指定
  46年 実施計画調査の開始
  51年 事業実施計画の認可
     水資源開発公団(現・水資源機構)に事業承継
  52年 水源地域対策特別措置法に基づく指定ダムに指定
  53年 一般補償基準の提示
  55年 付替道路工事に着手
  58年 一般補償基準妥結調印
  59年 水特法に基づき徳山村、藤橋村水源地域に指定
  61年 公共補償協定の締結
  62年 徳山村、藤橋村と合併(徳山村閉村)
平成元年  466世帯の移転契約完了
  5年 土捨場、場内工事用工事等に着手
  7年 仮排水路トンネルの完成
     徳山建設事業審議委員会の設置
  9年 徳山建設事業審議委員会の意見(早期完成について)
  10年 土地収用法に基づく事業認定告示
  11年 「徳山ダム周辺の自然環境」公表
     上流仮締切工事に着手、転流
  12年 徳山ダム建設工事起工式
     付替一般国道 417号(徳山ダム区間)開通式 
     「徳山ダム周辺の希少猛禽類とその保全」公表
  14年 洪水吐きコンクリート打設開始
     ロック材の本格盛立開始
     コア・フィルタ材盛立開始
  17年 揖斐川町発足(揖斐川町、谷汲村、春日村、久瀬村、藤橋村、
     坂内村が合併)
     「徳山ダム上流域の公有地化事業に関する基本協定書」の締結
     堤体盛立完了
  18年 試験湛水開始(秋の予定)
  20年 徳山ダム管理開始(春の予定)

 徳山ダムは、昭和46年実施計画調査の開始以来、37年を経て完成する。


4.全世帯が水没

 徳山ダム建設によって、徳山村、全村民1500名、8地区 466世帯が移転せざるを得なかった。その内訳は、下開田地区46世帯、上開田地区47世帯、徳山地区 147世帯、戸入地区62世帯、門入地区34世帯、山手地区40世帯、櫨原地区59世帯、塚地区31世帯である。

 補償経過を追ってみると、紆余曲折を経て、昭和58年11月21日一般補償基準妥結調印、昭和61年公共補償協定の妥結がなされ、そして、平成元年3月 466世帯全ての移転契約が完了した。本巣市など集団移転 331世帯、岐阜市など個人移転 135世帯となっている。
 増山たづ子著『ふるさとの転居通知』(情報センター出版局・昭和60年)には、

【個人補償の袋をもらっても中身をみずに仏壇に供えて泣いた。「本当に申し訳ありません。ご先祖様、イラ(私)にはどうすることもできなんで」と涙が流れて止まらなかった。】

と述べている。

 大正6年徳山村で生まれ、昭和11年に村内の徳山徳治郎さんと結婚、ご主人は昭和20年5月インパール作戦で行方不明となる。農業の傍ら民宿を営み、2人の子供を育て、ご先祖様を守ってきた。補償契約時における涙は、増山たづ子さんの戦争とダムに係わってきた人生と重なってくる。故郷を失う無念さ、「国はやるといったらダムも戦争もやるでな」と怒りと哀しみの涙であったといえる。

 60歳、ダム建設が再然化したとき、ピッカリコニカを手に、村内の自然と人とその暮らしを撮り始める。消えゆく徳山村の記録を残すことと、ご主人が帰ってきたときに、徳山村の変化を見せるためであった。

 昭和60年6月、住み慣れた故郷戸入地区を離れ、岐阜市上西郷2丁目に移った。高圧線が横を走る。68歳のときである。「わが庵は 高圧線の下にあり、上を見ずして 下で明るく」と転居通知にそう書いた。戦争でご主人を亡くし、ダムで故郷を失くしたカメラばあちゃんは、転居後も積極的に、前向きに生き、青いタオルを首に巻き徳山村を写し続けた。

 徳山村は、昭和62年3月31日をもって廃村となり、4月1日藤橋村に合併されるが、さらに、平成17年1月31日藤橋村は町村合併により揖斐川町に編入された。


5.補償の精神−故郷喪失

 55歳のとき増山たづ子さんはダム反対を止めた。「もうだめじゃ、いくら抵抗してもダムはできてしまう。いくら反対しても前進なしだぞ。そう覚悟を決めたなら、今度はぜんぜん別な力が湧いてきただな。残せるものは残そうとな」(『ふるさとの転居通知』

 それからは、民謡、民話、焼き畑の話、夜なべの話、夜ばいの話などを記録し、埋設文化財発掘調査に協力する。

 前述のように、60歳のとき俄然として写真を撮り始めた。親が子供を慈しむような心で、村人の笑顔、分校の子、運動会、卒業式、元服式、床屋、そして家を焼き離村する人たちも写す。写真は今日を写すが、明日ともなれば過去となる。被写体はその記憶をとどめ、記録となっていく。昭和57年、これらの写真の功績によって、アメリカの化粧品会社からエイボン賞を受賞。エイボン賞は女性に贈られる最高の名誉な賞である。

 昭和62年影書房から増山たづ子写真集『ありがとう徳山村』が出版された。
 さらに増山たづ子著『徳山村写真全記録』(影書房・平成9年)が刊行される。この書には、昭和62年3月27日徳山中学校にて、徳山村閉村式が行われたときの記念写真が掲載されている。

【村長の齋藤一松さんが「大昔からつづいた故郷がお国のためとはいえ消えてしまう
ことはご先祖様に申し訳ない」と挨拶した。誰も大事な大事な故郷がなくなることを喜ぶ者はいない】

と書き添えてある。

 徳山村は「徳の山」である。マイタケ、ワラビ、ゼンマイ、ウド、栃の実、アマゴ、アジメドジョウ、ウサギ、タヌキ、クマもとれたからでもあるが、村人の共同生活を創り上げてきた。「大事な大事な故郷がなくなることを喜ぶ者はいない」という言葉ほど胸にしみるものはない。この言葉は「補償の精神」の次元を遙に越えている。

 現代は故郷喪失の時代かもしれない。少子化で母校が消え、合併による市町村名の変更、また学業、就職、結婚によって故郷をあとにする人が多い。しかも、ダムによる水没は絶対に帰郷できない無情性をもっている。

  ダム無情 地図から村の 名が消える  (古池岩美)


6.青いタオル、青い鳥

 楠山忠之著『おばちゃん泣いて笑ってシヤッターをきる』(ポプラ社・平成7年)は児童書である。その表紙には、コニカを持ち、白髪姿の首にタオルを巻いた増山たづ子さんが写し出されている。青いタオルについて、前掲書『ふるさとの転居通知』に次のように述べている。

【水色はな、「孤独に打ち勝つ色だ」って聞いたでな。自分のことは自分で管理しないと思っているから。イラ(私)にはぴったりの色だな、と思ったで。もともとイラは青い色が好きなんだな。青い色は空の色でもあるし、水の色である。またきれいな心みたいに澄んで美しいだろ。暑いときも首に巻いてほどかない。汗をふき、悲しいときは涙をふくな。便利だよ。そんでまたしばるのでな、がんばろうと思うんだよな。】

 このように、青いタオルにこだわる心情とその効用について語っている。
 私の勝手な推測に過ぎないが、「青いタオル」はメーテルリンクの童話劇『青い鳥』にちなんだのではなかろうか。チルチルとミチルの兄妹が幸福を象徴する「青い鳥」を探す物語である。増山たづ子さんは、戦争に征れた御主人がいつかは帰ってくると信じて「青い鳥」を追っていたのではなかろうか。幸福を求める心が「青いタオル」に込められていたのではなかろうか。と。


おわりに

 平成18年5月13日雨が降るなかを、私は、揖斐川町出身、木曽三川研究家久保田稔さん(大同工業大学河川工学部)の案内で徳山ダムを訪れた。

 徳山ダムはすでに堤体盛立が終わり、天端の工事、付替道路工事、管理所の建設が進められている。揖斐川は、平成18年豪雪による雪解け水が転流工から滔々と流れ下っていた。水没地内に足を向けると、1500人の村民が生活を共にした面影は見当たらず、工事車両が行き交うだけである。上流冠山の方向にうっすらと霧がかかっていた。

 増山たづ子さんの最後の言葉は、娘に「月がきれいやで、拝んどけや」であったという。月を拝むと幸せになると言われている。「徳山村は徳の山」、「ふるさとにまさるふるさとはなし」、「みんな仲よく幸せにな」が口ぐせであった。
 増山たづ子さんがこよなく愛した徳山村は、平成18年秋からダムの湛水が始まる。

   父母眠る 湖底の村に 続く道 (前川元巳)

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(2007年4月作成)
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 (古賀 邦雄)
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