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文献にみる補償の精神【57】
「我々は、今竹やりで突き殺し、
自分等も死にたい気持ちである」
(横山ダム・岐阜県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. 木曾三川の流れー四刻八刻十二刻

 木曾三川は、木曽川、長良川、揖斐川のことで、長野、岐阜、滋賀、愛知、三重の5県に流域をもち、9100kuの流域面積を有する。三川は古来から水害をたびたび引き起こしてきた。元々は1つの川として濃尾平野を乱流し、伊勢湾に注ぐが明治の改修によって三川分流がなされ、現状の河状となった。

 木曾三川の洪水流出については、「四刻八刻十二刻」という言い伝えが、今でも残っている。一刻は30分で、2時間、4時間、6時間となる。つまり大雨となれば、先ず西に位置する揖斐川が出水し、その2時間後長良川、そして4時間後、木曽川が増水し、さらに6時間後には三川が氾濫し、逆流して、下流域は大洪水となる。昭和34年9月伊勢湾台風のときのように、伊勢湾が満潮時にはなおさら水害が増大することになる。
このことは、木曾三川が流入する濃尾平野は、東側が高く、西側が低く、また北側が高く、南側が低い地形のために、木曽川の降水は、長良川へと流れ、合わさった水がさらに西へ西へと流れ、やがて揖斐川に入り、南に下り下流域に水害を及ぼすこととなる。

 入り乱れる三川、洪水の度ごとにかわる流路、このような状況のもとでの治水の困難さは、輪中に代表される木曾三川特有の水防共同体を生み、江戸期には薩摩藩士による「宝暦治水」の悲話を残した。


2. 揖斐川の流れ

 木曾三川の揖斐川の流れを追ってみたい。揖斐川は、木曾三川のうちでは最西端に位置し、その源を岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山の冠山(標高1257m)に発し、山間渓谷を流れ、徳山ダムを下り、坂内川を合わせ、横山ダム、久瀬ダム、西平ダムを下り、揖斐川の扇状地に至り、濃尾平野に出、右支川粕川、上大須ダムのある左支川根尾川を合わせ、長良川と並流しつつ牧田川、津屋川、大江川、肱江川を加え、三重県桑名市で長良川と合わせ、伊勢湾に注ぐ、幹線流路延長121q、流域面積1840kuである。

 地形的には、揖斐川の上流部の多くは断層谷で、いずれも峡谷を形成し、幼年期的河谷地形を呈しているが、支川坂内川の水源は、1000~1300mの山塊が断層によって区切られており、断層は南北方向のものが多く、大規模な浸食地形を示し、急傾斜をなしている。北部の花崗岩地帯の山腹斜面は緩やかで枝谷が多く、X字形渓谷をなし、壮年期地形を呈している。南部の牧田川流域は、霊仙、養老の両山地からなっており、山容も低くなっている。

 揖斐川流域面積1840kuのうち、70.7%(1300ku)の森林面積率で、また、年間降水量は、揖斐川流域では3000mm以上と多く、年間流出量は揖斐川万石地点で平均28億m3/年である。


3. 揖斐川の水害

不幸にして、岐阜県は、昭和34年(7号台風および、伊勢湾台風)、同35年(11号、12号、16号台風)、同36年(梅雨前線豪雨、室戸台風)と連続3年にわたって大災害に見舞われた。揖斐川流域でも大水害を蒙った。昭和34年の大水害の惨状について、岐阜県編・発行『昭和34・35・36年連年災害復興誌』(昭和40年)には、次のように記されている。

 岐阜県災害史上最大の被害をもたらした昭和34年の災害は、7月13日から15日にかけての5号台風、8月8日から9日にかけての6号台風による小規模水害から始まった。8月12日〜14日にかけては、7号台風の影響により、西南濃地域に豪雨(400〜700ミリ)があり、揖斐川および、その支派川は著しく増水、牧田川が養老郡養老町根古地地内で決壊、多芸輪中が水没したのをはじめ、西南濃地の各所に被害が発生し、死者38人、住家全半失1635世帯、住家浸水6239世帯、被災人員39756人に達し、その被害額は47億円にのぼった。さらに9月26日は超大型台風15号、伊勢湾台風により、揖斐川、長良川流域では300ミリ~450ミリに達し、長良川、牧田川が破堤した。
 牧田川は8日の7号台風で破堤した養老町根古地地内の牧田川仮締切は再度決壊し、輪中内は約1ヶ月間にわたって泥水に浸り、地域内は目をおおうものがあった。


4. 横山ダム建設反対から賛成へ

 前述のように、昭和34年7月、9月の台風によって、揖斐川流域は未曾有の大水害となった。岐阜県揖斐郡藤橋村東横山に位置する、建設省施行の横山ダムは建設中であったが、ダムの必要性はいちだんと高まった。皮肉にも、この機にいままで横山ダムの建設に反対していた水没者たちは、「下流の人々の安全を守るためにダム建設はやむをえない」と言う考え方に変わってきた。そして、「よその土地へ移って暮らす」心境となり、真剣に話し合うようになったという。昭和35年には、水没者が三派にわかれていた20人組、17人組、個人補償委員会とそれぞれ補償基準を妥結し、翌年昭和36年藤橋村との公共補償、漁業補償の妥結、そして37年ではダム本体のコンクリート打設が開始され昭和39年6月に完成した。

 横山ダムの諸元をみてみると、堤高80.8m、堤頂長220m、堤体積31.9万m3、総貯水容量4300万m3、有効貯水容量3300万m3、型式中空重力式コンクリートダムである。主なる補償は水没世帯数56戸、土地取得面積221.14ha、公共補償、漁業補償、発電所補償であった。なお川尻地区、鬼姫生地区、親地区の3集落の水没者たちは、揖斐郡内の揖斐川町、池田町、大野町、岐阜県内には岐阜市、大垣市、北方、神戸、それに県外では愛知県、東京都へ移転している。


5. 横山ダムの建設過程

 横山ダムは、揖斐川の洪水調節、岡島頭首工からの灌漑用水の補給、横山発電所による発電の3つの目的をもって造られた。横山ダムの建設過程を、木曾三川治水百年のあゆみ編集委員会編『木曾三川治水百年のあゆみ』(建設省中部地方建設局・平成7年)から追ってみる。

昭和26年岐阜県、多目的ダム調査着手
28年4月岐阜県から建設省へ移管予備調査
32年1月横山ダム建設反対期成同盟会結成
4月実施計画調査開始、横山ダム調査事務所設置
33年3月条件付き立ち入り調査承認の覚書
34年4月横山ダム工事事務所に組織替え、建設工事着手
6月横山ダム工事説明
8、9月台風7号、伊勢湾台風による揖斐川大水害
35年2月藤橋村議会、条件付着工同意
9月本体掘削着手
この間一般補償基準の妥結
36年2月仮排水路通水、藤橋村公共補償調印
5月漁業補償調印
37年2月本体コンクリート打設開始
38年5月コンクリート打設完了
39年2月湛水開始
6月横山ダム竣功式(大垣市にて)
10月横山ダム管理所発足


6. 用地補償交渉の難しさ

 建設省中部地方建設局横山ダム工事事務所編・発行『横山ダム工事誌(下)』(昭和40年)には、用地職員のダム補償交渉に係わる座談会が掲載されている。その中から交渉の困難さをいくつかひろってみる。

(1) 私達が予期しなかったことは、水没者が17人組、20人組の2派に分かれた。17人組が期間延長に対して懐疑的であったことから、我々は非常に神経を使った。

(2) 33年ごろ、現場に行ったところ、いたるところに立入禁止の立札が立てられて覚書で認められながら現実には立入りできなかった状態であった。だから、個々に話をつけて一つ一つの問題を解決を得た上でようやく立入ることができた。

(3) 借地で進むことは問題があるが、地元の要望によりダムサイトは全部借地した。また測量伐採に伴う立木補償についても、最初はなかなか了解してもらえなかった。ダムサイトの借地契約は原状の条件が入っていたため相当苦労した。

(4) 係争中の土地について、双方の所有者は争いの原因を作ったのは建設省だという。万事そういう言い方をしてきます。

(5) ダムサイトを始め、水没地の買収で実測面積が台帳面積より少ない場合の協議から調印までかなり苦労した。

(6) 17人組の交渉では、財産を持った者と持たない者では補償額が違う。それを考えると、金銭でなく、山あり、川あり、あゆの獲れる生活環境を造ってくれ、それを建設省が造らなければ「竹やり以外にない。我々は、今竹やりで突き殺し、自分等も死にたい気持ちである」と、そのときは真剣なことであり、地元も必死であったと思う。

(7) 21人組との補償交渉の話ですが、課長、係長が局の用地官、用地課長と一体となって、連日折衝を強行しているということで、我々も妥結前の晩でしたか馳せ参じたところ、双方とも非常に疲れ果てた中にも何か異常な空気があった。それから間もなく補償の大筋が妥結した。委員長をはじめ皆男泣きに泣いていた。悲壮な感に打たれた。


7. 補償の精神

 このように、横山ダムの補償交渉は難航したが、用地職員等の懸命な努力の積み重ねで、昭和35年までには解決が図られた。その補償交渉推進力の原動力となった事について、前書「横山ダム工事誌(下)」の中で、次のように分析している。

 全村一致の歩調で進められたダム反対運動も当局の誠意ある呼びかけと岐阜県当局の積極的な協力により地元は次第に公共事業の必要性について、認識を深め、指導者の良識と冷静にしてかつ適切な状況判断と相まって建設的な補償問題の協議が行われ、立入調査を開始してより2ヶ年を経て、水没者を中心とした大部分の補償基準の妥結をみるに至った。その間我々の記憶に新しい伊勢湾台風(昭和34年9月)の災害発生あり、ダム建設の必要性が巷間の多くの批判により反対者の認識をうながした事実をみのがしてならないし、大垣市を中心とした揖斐川下流受益市町の水没者に対する物心両面での深い思いやりと援助の手が差しのべられたことも忘れてはならない。
 また、特に発電事業者である中部電力株式会社が建設省当局と常に横の連絡を密にして、対村補償の分野において、厚意的にその役割を果したことは、ダム着工承認の大きな原因の一つであった。

 ここに補償の精神がみえてくる。それは岐阜県当局等における積極的なダム事業の必要性を説き、そこに台風災害がおこり、水没者のダム建設の意識の変化となり、揖斐川下流地域の大垣市をはじめとするおおくの人々の水没者にたいする援助、それに発電事業者の協力により横山ダムの建設が進捗したことである。ダム事業の完成には、総ての関係者が協力し合わないとなかなか前に進まないことが、横山ダム建設で証明されている。


8. おわりに

 横山ダムは紆余曲折を経て、工事費62億円を要し、延べ80万人(残念なことは13人の殉職者がでた)の労力をつぎ込み、昭和39年6月28日竣功式を迎えた。この竣功式は、大垣市スポ―ツセンターの会場に松野岐阜県知事ら1500人が出席した。もちろん水没者たちも参加し、心から祝ったという。別会場では横山ダムの建設記録が上映された。

 昭和39年の世相を振り返ると、池田勇人内閣総理大臣のときで、東海道新幹線の開通、東京オリンピツクが開催され、高度成長期であった。都はるみの「アンコ椿は恋の花」、水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」がながれ、物価は白米10k 1125円、理髪料320円、大工手間賃1日2000円、新聞購読料1ヶ月580円のころである。

 平成21年現在、横山ダムは完成後45年を経た。その間昭和40年9月、昭和50年8月、平成に入り、14年7月、16年10月のそれぞれの洪水には、その洪水調節の機能を十分発揮し、また、農業用水、水力発電に寄与してきた。だが、貯水池内には、たびたびの洪水により、崩壊地からの多量の土砂が流入し、計画を上回る堆砂状況となってきている。このため平成2年から既得容量の回復を図ることと、併せて容量を確保する排砂施設などの設置による堆砂の軽減を図る、横山ダム再開発事業が行われており、横山ダムは新しく生まれ変わろうとしている。それを象徴するかのように、ダム上流400mの位置に、国道303号を移設する新横山橋(仮称)の架橋建設が進んでいる。


 (参考文献)
吉村朝之著『源流をたずねてV−揖斐川水系』(岐阜新聞社・平成19年)
石原ミチオ著・絵『ふるさとの川 揖斐川紀行』(岐阜新聞社・平成16年)
揖斐郡教育会編・発行『揖斐川』(昭和54年)
建設省中部地方建設局監修『木曾三川 その治水と利水』(国土開発調査会・昭和58年)
久保田 稔著『川といきる 長良川・揖斐川ものがたり』(風媒社・平成20年)

[関連ダム]  横山ダム(元)
(2009年8月作成)
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