岐阜県災害史上最大の被害をもたらした昭和34年の災害は、7月13日から15日にかけての5号台風、8月8日から9日にかけての6号台風による小規模水害から始まった。8月12日〜14日にかけては、7号台風の影響により、西南濃地域に豪雨(400〜700ミリ)があり、揖斐川および、その支派川は著しく増水、牧田川が養老郡養老町根古地地内で決壊、多芸輪中が水没したのをはじめ、西南濃地の各所に被害が発生し、死者38人、住家全半失1635世帯、住家浸水6239世帯、被災人員39756人に達し、その被害額は47億円にのぼった。さらに9月26日は超大型台風15号、伊勢湾台風により、揖斐川、長良川流域では300ミリ~450ミリに達し、長良川、牧田川が破堤した。 牧田川は8日の7号台風で破堤した養老町根古地地内の牧田川仮締切は再度決壊し、輪中内は約1ヶ月間にわたって泥水に浸り、地域内は目をおおうものがあった。
全村一致の歩調で進められたダム反対運動も当局の誠意ある呼びかけと岐阜県当局の積極的な協力により地元は次第に公共事業の必要性について、認識を深め、指導者の良識と冷静にしてかつ適切な状況判断と相まって建設的な補償問題の協議が行われ、立入調査を開始してより2ヶ年を経て、水没者を中心とした大部分の補償基準の妥結をみるに至った。その間我々の記憶に新しい伊勢湾台風(昭和34年9月)の災害発生あり、ダム建設の必要性が巷間の多くの批判により反対者の認識をうながした事実をみのがしてならないし、大垣市を中心とした揖斐川下流受益市町の水没者に対する物心両面での深い思いやりと援助の手が差しのべられたことも忘れてはならない。 また、特に発電事業者である中部電力株式会社が建設省当局と常に横の連絡を密にして、対村補償の分野において、厚意的にその役割を果したことは、ダム着工承認の大きな原因の一つであった。