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文献にみる補償の精神【51】
「夢に見るのは合角の事や合角の人たちの事ばっかりですよ」
(合角ダム・埼玉県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1. 秩父の4ダムの建設

 かつて埼玉県秩父地方は騒然となったことがある。秩父地方の農民と自由党員が農民軍を編制し、高利貸の負債の善処を図るために高利貸の家、警察、郡役所を襲い焼き打ちを図った。いわゆる「秩父事件」である。それは明治17年のことであった。
 戦後昭和30年代から今日まで、秩父地方は4基の多目的ダムが建設されたが、おそらくこの間秩父の人々は、「秩父事件」と同様に、これらのダム問題で騒然となったことは確かであろう。

 昭和36年、大滝村に二瀬ダム(移転世帯30)、平成11年、秩父市、荒川村に浦山ダム(移転世帯50)、平成15年、小鹿野(おがの)町、吉田町に合角(かっかく)ダム(移転世帯75)、平成20年、大滝村に滝沢ダム(移転世帯112)がそれぞれ竣工した。
 総計267世帯の方々が住み慣れたふるさとを後にしている。その中で、合角ダムの建設を追ってみたい。


2. 合角ダムの建設

 吉田川は荒川水系赤平川の支川で、群馬県境二子山(標高1,166m)に源を発し、埼玉県西部の西秩父を東に流れ、途中で石間川、阿熊川を合わせて赤平川に合流する一級河川である。流路延長25q、流域面積78.8km2である。

 合角ダム(西秩父桃湖)は、吉田総合開発事業の一環として吉田川の埼玉県秩父郡吉田町大字上吉田字松山地先に多目的ダムとして平成15年に完成した。
 埼玉県土木部合角ダム建設事務所編・発行『合角ダム工事誌』(平成12年)によれば、ダムは次の3つの目的をもって造られた。

@ 洪水調節
 ダム地点において460m3/sの洪水に対し最大400m3/sの調節を行い、吉田川下流の洪水被害の軽減を図る。
A 河川環境の保全
 流域の漁業、景観、動植物の保護などのため、渇水時においても維持しなくてはならない流量と、ダム下流の吉田川及び赤平川で取水している灌漑用水、上水道のために必要な流量を確保する。

B 水道用水
 水需要の増大化に対処するため、埼玉県、川本町、寄居町、小鹿野町の水道用水として新たに1.0m3/sの取水を可能にする。

 合角ダムの諸元は、堤高60.9m、堤頂長195.0m、堤体積約17万m3、総貯水容量1,025万m3、有効貯水容量925万m3、洪水調節容量560万m3、型式重力式コンクリートダムで、起業者は埼玉県、施工者は鹿島建設、間組、株木建設特別共同企業体である。事業費は471億円を要した。費用割振は河川66.5%、水道33.5%であった。

 合角ダムの特徴は、堤頂部のほとんどを非常用洪水吐きが占め、中央に1門のコンジットゲート、左右非対称のピア、それに減勢工は3段に分かれている。


3. 合角ダムの補償交渉の経過

 主な補償は、移転世帯75世帯、取得面積101.0ha、付替道路11.3qであった。補償交渉の経過をみてみたい。

昭和45年4実施計画調査に着手
合角、塚越、女形(おながた)地区に説明会
48年9合角地区対策協議会絶対反対決議
日尾地区対策協議会絶対反対決議
52年9西川副知事、小鹿野、吉田両町を訪問、ダム建設の協力要請
53年2日尾地区対策協議会総会一筆測量受諾
畑知事、合角地区訪問、協力要請
54年4水源地域対策特別措置法に基づくダムに指定
56年1女形地区物件調査実施
57年3塚越地区一筆測量実施
60年4土地物件調書を水没者等に渡す
11合角、女形、日尾、塚越各地区に補償基準の内容説明
61年12補償基準妥結調印式
平成4年2転流開始
5年10本体コンクリート打設完了
10年3合角漣大橋完成
11年11合角ダム竣工式
15年3合角ダム完成(ダム検査合格)


4. 移転者の声

 合角ダムでは、移転者は75世帯に及ぶ。山口美智子著『村とダム―水没する秩父の暮らし』(すずさわ書店・平成9年)は、吉田町塚越地区に居を構えた著者が、日尾、合角、塚越、女形の各地区の水没者等を取材した記録である。秩父盆地の生活と風土、さらに離郷せざるを得ない心情が記されている。いくつか記してみたい。

@ 日尾地区
・わしが嫁に来たこん家の本家が関口清三郎つう金貸しで、それで暴徒が押し寄せて来た時は、その家をぶっ壊すべえってえれ騒ぎで…。
・家で使うぐれえな炭は家で焼いたが、だから牛も馬も大事にしていたったよ。今度だぁ、この辺がダムになっちゃうつうが、いざ引っ越すことになったらまさか腰が抜けるようだあむし…。
・わしらが今飲んでる水は、すぐ上の沢から引いてきて、自家水道にしているだが、都会の人に水をくれるためにここから出て行くだけど、これから大勢(おおぜい)の人のためになるんならこれも仕方ねえことなんだべえ…。
・妻もはぁ80歳になるんだが、今度だぁ新しい家で陽当たりのいい場所だから長生きぃして、ダムでも出来たのを見て死ぬべえと思いますよ。
・今度新しい家に越したら、わたしらぁ何にもわからねえから若い者にやってもらんさぁ。だから倅(せがれ)が「ここへこい」っと言えばどこへでも付いていぎ、家族で仲良く暮らすことだぁねえ。

A 合角地区
・こんだぁこの合角にもダムが出来るっつうことで、永い歴史のある住み慣れた土地を捨てて、はぁ幾人も他へ引っ越していったよう。おらがも家ぃ壊して平地にして水の中に沈むっつうことだが、人間もえらいことをするもんだ。その土地の歴史も信仰も人情もみんな無くしちゃうんだからなぁ。
・おらぁ合角で所帯を持ち、必死で生きてきたったが、おっかあが死んで、はぁ14年になるんだよ。早いもんだなぁー。よく昔の人が言うが「カカアなんかあれば邪魔、なければ不自由」と…。それでも亡くなってみると、おっかあの有り難みがよくわかるよ。おれもダムで移転するまえにおっかあと同じこの合角で死にたかったなぁー。
・わしがダムの話を初めて聞いたんは60代過ぎてで、「嫌だなぁこんな所へダムなんか出来ちゃあ」と思ったったが、わしらがいくら気持ちの上で嫌だと思ってたって、実際にゃあ出来ることにすすめられちゃったわけさ。70年近くもここに住んでみれば、いくら籠の中のような所だって一番気が休まるだから、ふんとに出たかぁねえよ。
・私ははっきり言ってダムは出来ない方がよかったです。いまじぁどこの家にも車の1台や2台はありますから、こんな土地に住んでいたってどこへでも行けるなぁ。
・こっちぃ越して来ても、夢に見るのは合角の事や合角の人たちの事ばっかりですよ。せめて夢の中だけでも合角での思い出をくいつないでおきたいやねぇー。

B 塚越地区
・そん時、ダムが出来るっつう話ぃ聞いてみんな驚れえちゃって、誰もぴんときゃあしねえし、10年ぐれ発表したままで、ろくになんの音沙汰もなくってなあ、それでも出来るつう事になったら賛成だの反対だのごたごたしてなあー。
・熊の親子が崖から落っこちて親熊の鼻柱から血が流れているだんだいねぇ。父親や自分の手拭を取って川で水に浸して、その親熊の頭を抱えて冷やしたり拭いたりしてねぇ。そのうち小熊もそろそろとそばに寄ってきて、看病されている親熊をジーと見てておとなしかったねぇ。そうしたら今度は熊が人間を大事にするようになって、熊に抱かうたり背中に登ったりして遊んだった…。それでも熊と1ヵ月ぐれえ一緒にいたかさあ。熊がでっけえ栗を拾ってきて、わたしらにくれたんですよ。そのうち寒くなる頃にぁ元気になって姿を消しちゃったげねぇ。熊だって恩のある者なぁわかったんだよ。
・わたしゃあ子どもん時おっ母さんに、秩父の夜祭りぃ連れてって貰ったことがあったけど、そん時ほど嬉しかったことあなかったで。普段なぁ秩父の街なんか、めったぁ行げねえ頃だったから。あん時ゃぁ高等科の時だから14ぐれえになってたかさあ。

C 女形地区
・仕事をするにゃあ40前後がいちばんあぶらののったいい仕事ができらいなぁ。どんな仕事でもそんなべぇ。砂防工事の初めは女形が主で、あとは大波見(おおはみ)から三田川、千束峠(せんぞくとうげ)、泉田にも行った。
・ダムの話がでた頃らぁ久しい前だけど、おらあふんとに嫌だなぁと思ったったよ。だけど時が経つにつれ気持ちも変わってくらいなあ。
・今でもおらあ時たま女形ぃ行ってみるんさぁ。はあ住んでた家ぁねえけど、あった場に行ってしばらく佇んで眺めてなあー。昔のことがいろいろと思い出されてくるよ。だけどできることならおっかあも新しい家ぃ一緒に連れて来たかったよ。
・わしゃあ小鹿野の小学校を出ると、三沢の機屋ぃ年季奉公に行ったんさぁ。…そのうち戦争が激しくなってきて、三沢の機屋が駄目になり、今度ぁ長瀞(ながとろ)の軍需工場へ行って、飛行機の部品作りなんかやってたんだよ。
・おれだっていざ出る時になると、なんとも嫌だったよ。だからおれの家を壊す時なんかとても見ちゃあいらんなくって、おれは見なかったよ。
・とにかく女形じゃあ、家を建てるだけの平地がねえんだいなあ。だから仕方なしこっちぃ越して来たんだよ。ここに越して来て、はぁ1年以上経つんだけど、住んでみれば割合いいい所で、日当りはいいし静かで、役場や小鹿野の街も近けえし、おれの娘も近所に嫁に出してあるから、年中行ったり来たりできるんで、おっかあなんかよかったんべぇ。

 以上、移転者の声の中から、各々の補償の精神がみえてくるようだ。


5. 補償の精神

 移転者は、ダム建設の話が出たころ昭和45年4月には、揃ってみなダムに反対であった。「嫌だなぁ、こんな所へダムなんか出来ちゃあ」の心理であり、昭和48年9月に合角、日尾地区とも絶対反対決議を行っている。

 その7年後、昭和52年9月ごろから、本格的なダム建設の話が具体化していく中で、起業者側から、埼玉県知事などの地元に対し、協力の要請がなされ、地元要望についても検討されてくる。
 水没者等のダム反対の心理が少しずつ変化して、ダム容認派が増えていく。そして、昭和56年1月、一筆測量、物件調査に合意、昭和61年1月、補償基準妥結となる。基準妥結まで16年間、さらにそれからダム完成まで17年間経ている。

 「最初は嫌だなぁと思ったが、だけど時が経つにつれて気持ちは変わってくらいなぁ」と心が動く。
 最終的に「都会の人に水をくれるために、ここから出て行くけど、これから大勢の人のためになるなら、これも仕方がねえことなんだべえ」の声となった。「仕方ねえなぁ」という心理の変化の中に補償の精神がみえてきた。


6. おわりに

 荒川流域では、昔から地下水を利用していたが、戦後高度成長期には、都市化に伴う人口の増大、産業の発展により、水需要が増大してきた。また、地下水だけでは対処できなくなり、地下水の過剰な揚(よう)水は広範囲にわたって地盤沈下を引き起こす。そのために首都圏では、利根川や荒川から水を求めて多くのダムが建設されてきた。

 秩父地方荒川水系における二瀬ダム、浦山ダム、合角ダム、滝沢ダムで開発された水のほとんどは、秋ヶ瀬取水堰で取水され、埼玉県の水は大久保浄水場、東京都の水は朝霞浄水場を経て、各戸に配水される。
 合角ダムで開発された水もその一翼を担っている。ふるさとへの愛惜は尽きないが、移転世帯75の方々の協力がここに実ったといえるであろう。

  死のごとく ふたたびこの地に戻ること無し ダム移転
                           
山口美智子

[関連ダム]  合角ダム
(2009年8月作成)
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 (古賀 邦雄)
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