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文献にみる補償の精神【9】
「役人と農民は交渉の場では対等である」
(青山 士)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
1 運河について

 河川をみる場合、その状態を河状係数の大小で判断することがある。河川の最小流量に対する最大流量の割合が河状係数である。この割合が大きいほど河川は急峻で、洪水と渇水を繰り返し、河川交通は困難を伴う。

 平成13年では、利根川の河状係数は 115、黒部川は 555、天竜川は62、吉野川は 150、筑後川は 120であるように、日本の河川は急峻である。ヨーロッパの河状係数をみると、イギリスのテームズ川8、ドイツのライン川は16、フランスのセーヌ川は34となっている。このような河川地形の違いが、ヨーロッパ河川では、古くから運河の開削がおこり、河川運輸が発展してきたといえる。この運河による河川空間が程よい河川景観を創り出している。運河は物資を運ぶだけでなく、文化もまた運んでくれる。

 1992年(平成4)年ドイツのケルムハイムでドナウ河支流アルトミュール川からフランクフルトを経て、ライン河と運河で結ばれ、北海と黒海がつながり、その距離は総延長 3,500kmが開通した。この開通によって、EU欧州連合の益々の発展が望まれる。 海洋運河はスエズ運河とパナマ運河の二つの運河が有名である。スエズ運河はフランス人レセップスの発起で1896(明治29)年に完成した。北東部地中海と紅海を結ぶスエズ地峡を横切る水平式海洋運河で延長 162.5kmである。一方、パナマ運河は、アメリカの施工で1914(大正3)年に竣工した。中東アメリカのパナマ地峡を開削し、太平洋と大西洋を連結させ、人造湖カトウンダムと閘門式による延長65kmである。


2 青山士のパナマ運河工事従事

 このパナマ運河工事に、日本人としてただ一人従事したのは青山士(あおやまあきら)である。日本の近代土木を支えた先駆者 500人の経歴と業績を纏めた藤井肇男著『土木人物事典』(アテネ書房・平成16年)が発行されているが、この事典から青山士の功績を追ってみた。

1878・9・23〜1963・3・21・静岡県(磐田市)に生まれる。1903(明治36)年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒。一高時代、私淑した内村鑑三の『求安録』から学んだ。「私はこの世を私が生まれて来たときよりも、より良くして残したい」との言葉がその生涯を通じて青山を導くことになった。大学に入って土木工学を選ばせ、主任教授の広井勇の薫陶を受け、一生を建設事業に捧げることになる。
 人類の夢パナマ運河開削に従事することを目標に、1903年8月、旅順丸の三等船客となって、コロンビア大学のバー教授(W・H・Burr)への広井の紹介状のみを頼りに、数人の友人に旧約聖書の言葉をもって送られ渡米する。鉄道会社に勤務した後、1904年2月、パナマ共和国とアメリカとの運河条約が批准され、バー教授の尽力で地峡運河委員会(ICC)の職員に採用される。同04年6月青山は工事従業員として契約を結び、測量部隊にポール持ちとして配属され、パナマに渡る。
 天幕生活の測量からはじまり、カトウンの堰堤、閘門の設計、施工など約7年半にわたり、ICCでただ一人の日本人技術者としてパナマ運河工事に情熱を燃やした。青山士の名はパナマ運河委員会(PCC)の永久保存の人事記録に刻まれている。1912年1月同工事がほぼ完成した段階で帰国。

 最初の2年間過酷な測量作業だったという。ワニ、毒グモ、サソリのいるジャングルを切り開き、マラリヤに注意しながらである。

 その後、カトウンダム、閘門の設計に従事し、測量技師補、測量技師、測量主任、設計主任と昇進。1906(明治39)年ルーズベルトから金メダルを授与されている。


3 青山士の補償の精神

 1912(大正元)年帰国後、青山は内務省土木局に勤務、1936(昭和11)年内務技監として退職するまで24年間内務省に在職している。この間、荒川放水路、鬼怒川改修、大河津分水路補修の工事を担当した。

 昭和2年青山は、鬼怒川改修事務所、宗道土地収用事務所の主任(主任は現在の事務所長)を兼務している。用地事務は宗道土地収用事務所が担当しているが、この当時は、地権者に有無を言わせない、極めて権力的な交渉で、土地収用的な感覚で用地業務を行っていたという。

 しかしながら、高崎哲郎著『山河の変奏曲ー内務技師青山士 鬼怒川の流れに挑む』(山海堂・平成13年)には、鬼怒川改修工事に係わる補償交渉について、次のようなことが記されている。

用地交渉は最終局面に入った。五月三十一日昼過ぎ、青山は宗道村の現地事務所へ入り、用地交渉での注意点を今泉らに指示した。このところ梅雨の長雨が続いて鬼怒川の奔流の水嵩が増していた。『力ずくの交渉は大きな禍根を残すことになるので、絶対に行ってはならない。役人と農民は交渉の場では対等である』
 青山は念を押すように強調した。青山には苦い思い出があった。荒川放水路の用地買収に際して、用地担当職員が工事を急ぐあまり土地所有者の価格を無視する行為に出た。しかも主任の判断を仰がずに行動したのだった。そのため訴訟が提起され、その対応に多くの時間や労力を費やすことになったからであった
 また、昭和2年8月青山は、地元ダム関係者、藤原町の代表者から陳情をうけているが、その書を受け取ったときに「地元のみなさんのご理解やご協力なくしては、ダム建設はできません」と語りかけている。


4 荒川放水路の補償

 青山が補償交渉に苦労したのは、明治43年、44年と埼玉県、千葉県、東京府にもたらした大洪水を防ぐために開削した人工河川荒川放水路工事のことである。
 岩淵水門から江戸湾まで延長24キロ、平均河川巾 500m、土地取得面積 1,068ha、移転戸数 1,300戸に及んだ。いまでは荒川本川となり、人工河川であることを気づく人は少なくなってきた。

 この放水路に関する補償システムは、立入り調査後、その調査に基づき千住土地収用事務所から「土地買収協議書」、「移転協議書」が放水路予定地内の各家や土地所有者に送付された。書類のみの通知である。

 その内容は
「承諾書と印を土地収用事務所へ持参し、買収を承諾する者は、承諾書に印を押し、金券に引き換えること」とある。
 さらに、「現金がすぐ必要な者は銀行で金券と引き換えるように。以上のことを承諾した者は、大正2年6月30日限り地上物件(家その他墓地まですべて)を取り払うように申し伝えるというものであった。」と、絹田幸恵著『荒川放水路物語』(新草出版・平成4年)は論じている。このような補償交渉であったからであろうか、土地所有者24名は納得せず、土地収用法が適用され、裁判となった。
 承諾済みのある土地所有者は、預けておいた銀行が倒産し、金券が紙屑となった悲劇が生じている。


5 補償の精神の根拠

 まだ、大正、昭和初期は官尊民卑の濃い時代であった。それにもかかわらず青山士は「役人と農民は交渉の場では対等である」という補償の精神の考え方には驚く。さらに前掲書『山河の変奏曲』には、「青山の指示を受けた今泉は用地交渉に当たって懇切丁寧な姿勢を貫いた。そして、地元農民らの信頼を確保した」と述べている。

 おそらく、この補償の精神は、青山のクリスチャンとしての行動に基づくものであろう。旧制第一高等時代に、無教会主義のキリスト教徒内村鑑三の門下生となり、それからクリスチャンの道を歩むこととなった。青山士は、敬虔なクリスチャンとして「民衆への愛」、「正義感」、それに「反戦思想」を支柱に人生を送った。

 青春の情熱を燃やし従事したパナマ運河工事、さらに荒川放水路工事(岩淵水門工事)では、足にゲートルを巻き、腰に手拭いをぶら下げて土に汚れる工夫たちと苦労を共にしている。その後、鬼怒川改修工事、越後平野の農民を水害から解放した大河津分水補修工事、そして内務省技監督時代では、絶えず土木界の現状と土木技術者の自覚と責務を問い続けている。
 義理堅く、責任感旺盛、頑固なまでに不正を嫌ったという。夏は海水浴、冬はスキーを楽しみ、テニスを好み、これからの女性は技術を身につけねばならないと諭している。

 繰り返すが、クリスチャン青山士の「民衆への愛」が、「役人と農民は交渉の場では対等である」という補償の精神を貫いたことと、推測される。さらに、極論するなら、この補償の精神は、青山士が絶えず座右の言葉としたイギリスの天文学者ジョン・ハシェルの「私はこの世を私が生まれて来たときよりも、よりよく残したい」に、つながってくるように思われてならない。

  よしきりの 声も懐し 蔦葛
             汗し掘りにし 荒川の岸
                    (青山 士)

 おわりに、その他の青山士に係わる書を挙げる。
 青山士著『ぱなま運河』(自費出版・昭和14年)。高崎哲郎著『評伝 技師青山士の生涯』(講談社・平成6年)。同著『評伝 工人宮本武之輔の生涯』(ダイヤモンド社・平成10年)。青山士写真集編集委員会編『青山士/後世への遺産』(山海堂・平成6年)。

(2006年2月作成)
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