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文献にみる補償の精神【24】
「ここに悠久の大義に生きる」
(宮ヶ瀬ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.日本一の天端幅、天端面積

 神奈川県民の母なる川である相模川は、山梨県の山中湖を水源とし、山梨県、神奈川県を流れる一級河川である。山梨県では桂川と呼ばれ、谷田川に大野ダム、葛野川に深城ダムが築造されている。神奈川県内に入ると相模川となり、秋山川、道志川、串川、中津川、小鮎川、小出川を合流し、河口付近では馬入川となり、相模湾に流出する。延長 109km、流域面積1680km2である。

 平成18年4月1日、私は小田急線本厚木駅から半原行のバスに乗った。バスは桜がほぼ満開の市街地を抜け、約30分程で半原に着いた。中津川の左岸沿いを上流に向かって歩くと、石小屋ダムにたどり着く。間近かに宮ヶ瀬のダムサイトが西洋の城のようにそびえ立つ。左に滝が見え、、さらに進むと発電所もあり、広場となっている。

 春休みのせいか、家族連れのダム見学者で賑わっていた。地下からエレベーターで一気にダム天端に上がった。宮ヶ瀬ダムは満水であった。驚いたことには、この天端の広さである。天端幅は18mという。堤頂長も 400mあるから、バレーボールやテニスに興じることができる。恐らく日本一の天端幅、天端面積ではなかろうか。


2.宮ヶ瀬ダムの建設

 宮ヶ瀬ダムは、相模川水系中津川の左岸神奈川県津久井町青山、愛川町半原、右岸清川村宮ヶ瀬、愛川町半原地点に建設され、平成13年3月に完成した。東京、横浜の首都圏から50┥の近距離に位置し、総貯水容量1億9300万m3を有する多目的ダムである。

 このダムの目的は、

・ダム地点の計画高水流量1700m3/sのうち1600m3/sを調節し、中津川沿岸の洪水を守り、相模川下流においても城山ダム等とともに洪水を低減させる。
・新規利水として1日最大 130万m3を横浜市、川崎市など15市9町に給水する。
・流水の正常な機能を維持し、河川環境の改善を図る。
・愛川第一発電所、第二発電所によりそれぞれ2万4200KW、1200kwの発電を行う。これは一般家庭約2万5000世帯の年間使用料に相当する。

 宮ヶ瀬ダムの上流に道志導水路(約8km)を設け、道志ダム(道志川)から導水を受け、逆に、ダムサイト下流に津久井導水路(約5km)を設けて道志川へ流入させ、相模川水系の宮ヶ瀬ダム、相模ダム、城山ダムにこの2つの導水路をもって有機的に連携した総合運用が図られている。

 ダムの諸元は堤高 156m、堤頂長約 400m、堤体積 200万m3、有効貯水容量1億8300万m3、重力式コンクリートダム、事業費3970億円を要した。起業者は国土交通省、施工者は鹿島建設(株)・(株)大林組・戸田建設・共同企業体である。
 なお、ダム水没面積 490ha、水没世帯は 281世帯となっている。


3.宮ヶ瀬ダムの建設経過

 宮ヶ瀬ダム(石小屋ダムを含む)の主なる補償経過をみると、昭和44年9月ダム建設発表、51年8月一筆調査の開始(清川村、津久井町)、52年3月水特法に基づくダム指定(公示)、53年10月湖周辺移転地構想の発表、54年12月一般補償基準の提示(清川村、津久井町)、56年8月水没地、一般損失補償基準調印(清川村、津久井町)、57年12月鳥居原地区補償調印(津久井町)、58年1月韮尾根地区補償調印(津久井町)、58年2月工事用道路日比良野向原線補償調印(愛川町)、59年6月ダムサイト用地補償調印(愛川町)、62年3月漁業補償調印(相模川魚連)がなされている。

 このように清川村、津久井町、愛川町における多岐にわたる補償交渉は、用地担当者、被補償者ともに多難の連続であったろう。30数年の長い歳月を経て平成13年3月に宮ヶ瀬ダムは完成した。

 次に、宮ヶ瀬ダムの建設経過について、「宮ヶ瀬ダムのパンフレット」より追ってみた。

昭和44年4月  相模川一級河川指定(公示)
    9月  建設省、ダム計画を発表
  46年4月  宮ヶ瀬ダム調査事務所開設
  49年4月  宮ヶ瀬ダム工事事務所と名称変更
  51年8月  一筆調査開始(清川村、津久井町)
  52年3月  水源地域対策特別措置法(以下 水特法)に基づく
        ダム指定(公示)
    6月  宮の里集団移転地を承認
  53年5月  ダムサイトが石小屋地点に決定
    10月  湖周辺移転地構想を発表(現行宮の平・水の郷)
    12月  宮ヶ瀬ダム基本計画決定(公示)
  54年5月  河川予定地指定(公示)
    12月  一般損失補償基準を提示(清川村、津久井町)
  55年3月  水特法に基づく水源地域の指定(公示)
        水源地域整備計画の決定(振興計画として実施)
    7月  愛川町石小屋地区、一筆調査開始
  56年8月  水没地、一般損失補償基準調印(清川村、津久井町)
  57年4月  宮の里代替地既成(移転開始8月)
    9月  A代替地既成(宮の平)
    12月  鳥居原地区損失補償基準調印(津久井町)
  58年1月  韮尾根地区損失補償基準調印(津久井町)
    2月  工事用道路日比良野向原線、損失補償基準調印(愛川町)
    3月  付替道路工事等、本格着手。代替墓地既成
    11月  石小屋地区観光業者、移転開始
  59年3月  仮排水トンネル工事着手
    6月  ダムサイト用地、一般損失補償基準調印(愛川町)
  60年3月  B代替地既成(水の郷)
  61年3月  道志・津久井導水路計画に伴う調査に関する協定書の締結
    11月  宮ヶ瀬ダム基本計画変更決定(公示)
  62年3月  宮ヶ瀬ダム建設事業に伴う漁業補償調印(相模川魚連)
    11月  本体建設工事に着手
  63年2月  仮排水トンネル転流開始
平成元年10月  本体掘削着手
  2年3月  道志・津久井導水路(鳥屋・串川地区内)施行に伴う
        工事に関する協定
        書の締結
  3年2月  県道秦野清川線開通
    3月  道志導水路(青根地区内)施行に伴う工事に関する協定書の締結
    10月  本体コンクリート打設開始(定礎式11月)
  5年2月  津久井導水路着手
    3月  石小屋ダム着手。道志導水路着手
  6年7月  石小屋ダム仮排水トンネル転流開始
    11月  県道伊勢原・津久井線開通。本体コンクリート打設完了
  7年1月  石小屋ダムコンクリート打設開始(定礎式3月)
    10月  ダム本体試験湛水開始
  8年3月  県道宮ヶ瀬愛川線開通
    4月  石小屋ダム打設完了
    11月  早戸川林道開通
  9年4月  愛川第1第2発電所運転開始
    10月  津久井導水路貫通
  10年6月  宮ヶ瀬湖満水(誕生)
    9月  第53回国体カヌー競技開催
  10年10月  試験湛水終了
    12月  道志導水路再発進地元了解を得る
  11年4月  本体及び津久井導水路による一部運用開始
  12年11月  道志導水路貫通
  13年3月  宮ヶ瀬ダム完成
    4月  宮ヶ瀬ダム本格運用開始


4.望郷の碑−未来を望みて

 宮ヶ瀬ダムサイト、「水とエネルギー館」の前から、遊覧船「みやがせ21」に乗った。湖面をゆっくり走り、鳥居原地区、宮ヶ瀬虹の大橋をくぐり、水の郷地区に着く。ここの桜はまだつぼみであった。4月中旬には満開になるという。水の郷地区商店街の一角に、湖面を見下ろす所に望郷の碑が建立されている。

  「愛しき宮ヶ瀬の里静かに眠る ともに未来を望みて湖岸に立つ」
                神奈川県知事 長洲一二

 その裏面に、次のようにふるさと宮ヶ瀬を偲んでいる。

「開村ここに六百余年幾多の変遷を経て山紫水明な宮ヶ瀬は県民の水確保と流水の安定、エネルギーの有効活用等多目的な宮ヶ瀬ダム建設事業のため、先祖伝来住み馴れた郷土が湖底に沈む
 幾春秋村人の糧と生活を支えた田畑や山林、明治・大正・昭和・国家社会に貢献した多くの人材と文化を育てた学舎、崇高な社、熊野神社のまつり、思い出の多い山川を惜しみ語り尽きないふるさと宮ヶ瀬を後に、厚木市宮の里百九十二戸、宮ヶ瀬地区三十一戸、その他へ四十三戸が移転した。ここに悠久の大義に生き、水没となる二百七十四世帯を添え碑に刻みふるさと宮ヶ瀬をしのび永遠に伝承のためこの碑を建立する」
   昭和六十一年四月二十六日建立 清川村建設委員会

 少し刻字が薄れつつあるが、この碑には前落合、向落、上村、和田、南、北と各地区の水没者の名が連なる。落合、川瀬、山本、井上、風間、佐藤の姓が圧倒的に多い。水没者は、神奈川県民の生命の水源となるために、止むを得ずに宮ヶ瀬ダムの建設を受容し、「ここに悠久の大義に生きる」という「補償の精神」を選択した。そして 600年の歴史ある先祖伝来のふるさと宮ヶ瀬を離れた。


5.補償の精神−悠久の大義

 宮ヶ瀬ダムに関して、村田孝写真集『湖底の村・宮ヶ瀬』(平成14年)、井之口マツ写真集『宮ヶ瀬−ダムに沈んだ村』(平成15年)が自費出版されている。いずれも水没者の移転までの生活をカメラで追っている。一方、神奈川新聞社編・発行『宮ヶ瀬ダム−湖底に沈んだ望郷の記録』(平成13年)では、ダムを造られる側と造る側との軌跡をとらえている。この書に前述の「補償の精神」がみえてくる。

【 水没地となる中津川左岸の唐人河原で先月八日、宮ヶ瀬A、B両代替地に移転した住民ら約百人が「望郷の集い」を開いた。キャンプファイアー、ゲーム、投網に興じた。テントで男たちは酒を酌み交わし、故郷の川の名残を惜しんだ。
「ほら、あすこの岩上から少年のころ、よく飛び込んだ。アユ、ヤマメ、ハヤ…。うようよといた。もぐると魚にぶつかるくらいだ」
 指をさす山本良治さん(八三)のほおも赤らんだ。A代替地に移り十三年たつ。
 取り壊された移転前の家は、河原から数分とかからぬ所にあった。カヤぶきでマサカリ削りの梁のある築二百年以上の家だった。代々、半農半林だったが、山本さんは村議四期、農協の専務なども務めた。「故郷の思い出はあの家に凝縮される。そして、唐人川原にも…」
「今の心境は…」。山本さんはつぶやく。「ダムが都市住民の水を確保する。その大義に生きる満足感が七割、大自然を失う残念さが三割」。しばらくして山本さんは゛訂正゛した。「厚木市内に移った住民のうち、既に九戸が離散。持ちつけぬ補償のカネが人を変える。ダムには功と罪両面がある。罪を差し引けば、この割合は五対五かな」】

 望郷の碑では、「ここに悠久の大義に生き」と記してあったが、水没者の一人である山本良治さんは「ダムが都市住民の水を確保するその大義に生きる満足7割、大自然を失う残念さが3割」と語る。

 戦後の神奈川県の人口の推移を追うと、昭和22年相模ダム完成時の 221万人( 100%)、昭和40年城山ダム完成時の 443万人( 200%)、昭和53年三保ダム完成時の 670万人( 303%)、平成12年宮ヶ瀬ダム完成時の 849万人( 384%)、そして現在(平成18年3月) 880万人( 398%)と増加した。

 この人口の動向をみると、京浜工業地帯等における戦後復興を経て、高度経済成長に伴う急速な都市の膨脹に基づくもので、とくに首都圏の一画を占める神奈川県は戦後60年間で、約4倍の 880万人という驚異的な人口増となった。

 このように、宮ヶ瀬ダムは、神奈川県民の生命の水として十分に役割を果していることが、実証できる。水没者の大義が生きている。だが、厚木市内に移った住民のうち、離散した人がいるという。悲しい、残念だ。用地担当者は、常に心から水没者の幸せを願っているからである。


おわりに

 宮ヶ瀬ダムは、治水・利水に加えて親水機能をもっている。「人と自然と地域の交流、共存」を基本理念とする丹沢の自然と調和を図った水と緑のオープンスペースとして、湖畔や湖面の有効な親水利用がなされ、神奈川県を含む首都圏における重要な水源地域の活性化、振興に寄与する「開かれたダム」である。

 水辺における学習・レクリエーション・スポーツ施設が、水の郷宮ヶ瀬湖畔地区、鳥居原地区、ダムサイト地区の三つのゾーンに各々設けられている。水の郷地区では、夢のつり橋、ビオトープ親水池、ピクニック・もみの木・けやき広場、カヌー場、20世紀なつかしい博物館、野外音楽堂、商店街など楽しく過ごせる。12月には、高さ、大きさでも日本一のクリスマスツリー(2本のもみの木)にライトアップされる。その光景はメルヘンの世界をかもしだす。鳥居原地区ではふれあいの館、湖畔庭園、食堂が設置され、ダムサイト地区では、インクラインに乗ってダム下流見学、あいかわ公園、石小屋ダムを散策し、再びダムサイトに戻り、水とエネルギー館で学習できる。さらにはこの3つのゾーンを宮ヶ瀬湖面の遊覧船で巡回できる。首都圏近郊のダムとはいえ、驚くことに、 135万人(平成15年度ダム湖利用実態調査)も訪れた。いままで1位であった御所ダム(盛岡) 101万人を抜いてトップの座を占めた。(河川情報センター編・発行『PORTAL・ 038』)この開かれたダムには 135万人も訪れるというが、望郷の碑を仰ぎ見る人はほとんどいないようだ。

 湖畔の宮ヶ瀬霊園には、全国のダム建設に尽力した山本三郎(建設事務次官)、佐々木才朗(建設省)、手柴正(水資源開発公団)が眠り、静かに宮ヶ瀬ダムを見守っている。
 再び、私は水の郷地区商店街から本厚木着行のバスに乗り、悠久の大義に生きる宮ヶ瀬ダムをあとにした。清川村役場、飯山観音あたりの桜は満開であった。桜は無心に咲いている。水没者は、今年の桜をどう眺めたのだろうか。

    様々なことを想い出す桜かな (芭蕉)

[関連ダム]  宮ヶ瀬ダム
(平成19年3月作成)
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