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文献にみる補償の精神【22】
「霊に対して堂々と合掌して
香を捧げられます」
(箕輪ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.「自分にあった仕事」なんかない

 用地担当者が行う補償業務という仕事は、この職に就くまで私は知らなかった。このような仕事があるとは思いもよらなかった。一般的に経理事務、技術者、建築士、医療事務、教師などの求人広告はみることはある。しかしながら「補償業務者を募集します」とは皆無である。おそらく一般事務のなかに含まれるのであろう。

 3年前になる。ある大学教授と話したとき「国家公務員の試験に受かったが、やはり補償担当の部門にまわされることもある。そう考えると、どうしても気が進まず、研究の道を選んだ」という。補償業務の職は不向きだと察したのであろう。私は30数年、補償業務に携わったが決していい用地担当者ではなかった。補償業務に向いている人とは、一体どのような人だろうか。気にかかっていた。こんなことを考えていたとき、養老孟司著『超バカの壁』(新潮新書・平成18年)に出合った。若人に対する職業観がわかりやすく論じている。

【働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が一番多いという。これがおかしい。二十歳やそこらで自分なんかわかるはずがありません。……仕事は自分に合っていなくて当たり前です。……合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういう仕事をやりなさい。】

 養老孟司氏は医学部卒業後「解剖」の仕事であった。「そのようなことに合っている人間、生まれ付き解剖向きの人間なんているはずがありません」という。世の中には誰かがやらなければならない仕事があり、それは社会貢献につながっており、そして給料は社会からもらうものだと養老氏は結論づける。

 わが国のインフラ整備には、補償業務は重要な仕事である。このことは理解できるが、生まれ付き補償業務に向いた人はほとんどいないといえよう。さて、長野県の箕輪ダム(もみじ湖)における補償業務を追ってみたい。


2.箕輪ダムの建設

 箕輪ダムは天竜川左支川沢川に建設された。この沢川はその源を守屋山1650mに発し、長野県箕輪町付近で天竜川に注ぐ。流域面積50.4km2、流路延長16.8kmの急流土砂河川である。

 長野県土木部編『箕輪ダム工事誌』(上伊那ダム建設事務所・平成5年)によると、沢川沿岸一帯は、昭和25年ジェーン台風、昭和36年集中豪雨(伊那谷地方を襲った昭和の大災害、いわゆる三六災という)など度々水害を被った。これらの災害を契機として、多目的ダム箕輪ダムの建設がおこり、長野県上伊那郡箕輪町長岡新田に、昭和49年から19年の歳月を経て、平成4年に完成した。

 ダムの目的は

・ダム地点の計画高水流量 280m3/sのうち 230m3/sの洪水調節を行う。
・下流既得取水の安定化および河川環境の保全のための流量を確保する。
・さらに水道水として伊那市、駒ヶ根市、箕輪町、南箕輪村、宮田村に対し、5万m3/日を供給するものである。

 ダムの諸元は、堤高72m、堤頂長 297.5m、堤体積30.6万m3、総貯水容量 950万m3、型式重力式コンクリートダム、起業者は長野県、施工者は飛島建設(株)、国土開発(株)、戸田建設(株)共同企業体、事業費 285.2億円を要した。

 昭和57年3月箕輪ダム補償基準調印式が行われた。主なる補償は家屋移転37戸、取得面積63.6ha、公共補償(公民館・分教場・消防詰所・神社祠)、特殊補償(漁業補償)となっている。


3.箕輪ダムの補償経過

 ダムの建設地点、上伊那郡箕輪町大字東箕輪長岡新田は、箕輪町最東端に位置する集落である。この付近の標高は 800〜 900mあり、夏は涼しく、冬は雪に埋もれ、高い山々に囲まれているため日照時間は少ない。沢川沿いには長岡新田公民館を中心に約3kmの間に集落が点在し、長岡新田、末広、日影入、狸穴の4集落が1つの生活共同体形成している。核となる長岡新田が水没するため他の3集落が分割される。次のように箕輪ダムの補償経過について追ってみた。(前掲書『箕輪ダム工事誌』

昭和47年10月 ダム予備調査開始
  49年4月 実調採択される
       ダム対策委員会の設置
       ダム概要説明・地元説明会
  51年1月 地元応諾の覚書提出
  54年3月 長岡新田地区用地測量説明会
    7月 箕輪町長にダム補償交渉依頼
       ダム対、ダム事業返上の決議報告
    12月 箕輪町から地域整備に関する要望書
  55年2月 物件調査説明会
    4月 移転、残存農地、水利権の補償等協議
    6月 地元3地区の要望書を箕輪町から県知事に提出
    8月 原石山調査説明会
  56年3月 県知事、要望書に回答
    9月 補償基本方針の説明
    10月 補償基準単価の協議
    11月 立木調査開始
  57年1月 箕輪ダム建設に伴う補償基準の発表
       補償基準地元交渉
    2月 補償基準等級交渉
    3月 補償基準細目協議
       一般損失補償基準の承認
       箕輪ダム補償基準調印式
       水没者代替地交渉
  58年4月 新田ダム地権者組合北部常会補償基準合同調印式
    5月 箕輪町生活再建措置要綱(案)作成
       箕輪町代替地取得等利子補給助成金交付要綱施行
    6月 ダム事業の進め方について
  59年9月 原石山の補償合意を得る
平成4年8月 箕輪ダム竣工式


4.補償の精神

 箕輪ダム水没者の一人である中林孝一著『箕輪ダムの湖底に眠る』(自費出版・昭和63年)には、ふるさと長岡新田における地理、歴史、行政、財産、信仰、教育(分教場)、公共団体(公民館)、施設(電灯)、産業、経済、民俗、山(入会)について綿密な調査を踏まえて、愛情をもってまとめられている。さらに、箕輪ダムの建設までの経緯、長岡ダム対策委員会、常会解散まで触れている。

 この書から、次のような「補償の精神」を読みとることができる。

【 昭和四十六年に一人で決心をした。自分のことは勿論なれど、土地のため、子孫のため、今は身を賭して後世に生きることです。……昭和五十七年三月三十一までに全財産を処分し移転を完了しました。】

【 個人にしても親が家を新築すれば子供もまた孫までが家のことには安心です。新田の方にも私なりに時にふれ、期を見ては、我の人生は既に半ばを過ぎ自分のことよりも子供のこと、子孫のことを考えなさい。子孫は必ず喜びますよ。今ですぞ。この時を逃したら近い将来できませんよ】

 さらに中林さんの話は続く。

【 己の不業績にて破産したのではなくて、世のため社会のために貢献したのです。先祖に対しても申し訳が立ち、霊に対して堂々と合掌して香を捧げられます。】

と、言い切っている。

 この背景に、中林さんは長岡新田地区における過疎化の問題を考え、既に子供たちは都市の生活に慣れ、帰郷は無理だと思慮され、後世に生きると強く決断された。そして「先祖に対しても申し訳が立ち、霊に対して堂々と合掌して香を捧げられます」と断言する。その言葉にダム水没者の「補償の精神」をはっきりとみることができる。このような「補償の精神」はダムに水没することを肯定的に捉え、さらに先祖への許しを乞い、ふるさとの 400年の歴史に別れを告げる、水没者の心情が吐露されている。


5.補償業務の職業観

 箕輪ダムの竣工まで19年の歳月が流れている。この間水没者及び非水没者にとっては、今までの日常生活が大転換するわけだから、その生活再建対策に苦難の交渉が続く。このダム水没を肯定的に捉える心境になるまで、幾多の不安が横切り心が揺れ動いたであろう。一方用地担当者はその交渉に労苦の連続であったといえる。<俺たちを馬鹿にするなと一喝され補償交渉遅々と進まず>(吉永貞志)。このようなことも遭遇したかもしれない。だが、紆余曲折を経て、補償の妥結調印、契約が完了したとき、自然と安堵の心が湧いてくる。ここに用地担当者の「生きがい」が凝集されることとなる。 再び、補償業務における職業観について考えてみたい。前掲書『超バカの壁』には、さらに興味深いことが述べられている。

【 おそらく「自分に合った仕事」「自分探し」というようなことをいう人は、どこかで西洋近代哲学的な「私」の概念を取り入れているのでしょう。しかし日本の世間自体はそれとは別の成り立ちをしているから困るのです。まず「自分」ありきで、その「自分」にあった仕事を探すのか。それとも世間、社会に仕事があって、そこに自分をはめこんでいくのか。日本は後者のシステムで来たはずなのです。】

 この養老説をとると補償業務という仕事は後者のようである。「社会に仕事があって、そこに自分をはめこんでいく」ことだと指摘する。


おわりに

 以上みてくると、最初から補償業務に適した人はいないようだ。だから若い用地担当者は仕事に悩む。そこはベテランの担当者とともに進むしかないだろう。経験を積むことによって、水没者のプラス思考、例えば「先祖に対しても申し訳が立ち、霊に対して堂々と合掌して香を捧げられる」という、肯定的な「補償の精神」を読み取れるようになるだろう。まとめてみると、補償業務の仕事は、最初から適した人はほとんどいないといえる。そこに「自分をはめこんでいく」しかないようだ。

 現代の若人が「自分にあった仕事」「自分探し」の考えを捨て、「仕事があってそこに自分をはめこんでいく」ことを意識し実行すれば、現在、15歳〜34歳のニート(64万人)やフリーター( 213万人)は次第に減少するであろう。国からの支援も当然必要であるが、就職への意識改革も大事である。

 ある先生は女子学生に向かって「自分探しなんか止めなさい。世の中はそんなに甘くはない。なにがなんでも努力して就職しなさいよ」と、力説されている光景が浮かんできた。

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(2007年3月作成)
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