【この三峰川総合開発事業に伴う最大の難関は、関係地域住民に対する補償問題であった。昭和27年9月、美和村(現・長谷村)では早速村民大会を開き、この事業に反対を表明して一切の協力を拒否し、ダム構築のための調査さえ受け付けないという態度にでた。29年6月対岸の河南村(現・高遠町)も同様に反対の態度をとるに至った。 美和村にあっては、このダム構築は一村の運命をも決する程の重大問題であって、これによって水没する水田の31%に及び、畑地その他を含めると甚大な損害となり、集落によっては今後到底立ちゆかない程の状態であったから、この問題に対して真剣に立ち向かわない訳にはいかなかった。】
【これに対し、県及び建設省側は事業計画を進める一方、円満な妥結について努めたが容易に一致点に到達せず、一時は成否さえ危ぶまれる程であった。しかし度重なる折衝の末、29年暮れごろに至り順次これが解決を見、31年4月に一部の地区を除いてほぼ円満な妥結に到達することができた。】
【もちろん、その後の燃料革命によって薪炭の需要はほとんどなくなり、国内産の木材の需要も厳しい時代になってくると、山林経営に依った山間の集落が消えるのは時間の問題だったという人もあるかもしれません。しかし、愛知県で出合った美和村からの移住者「俺は故郷を売り渡してしまった」という、絞り出すような言葉を忘れることができません。相互扶助で互いに助け合って暮らしていた村から離れて農業をし、「よそ者」として暮らさなければならなかった人の悲しみは金銭で換算できないものだったのではないかと思います。】