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文献にみる補償の精神【21】
「生きている人間を相手に
一片のペーパープラン通りに行くか」
(佐久間ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.佐久間ダムの歌

 昭和31年10月15日佐久間ダムの竣工式が、天竜の峡谷佐久間発電所の広場で行われた。戦後最初の大規模プロジェクトであり、世紀の大工事の完成である。この佐久間ダムの発電力最大35万kwの供給は、その後の日本経済成長の発展と生活の利便性を日々享受する牽引力となってくる。

 次のような服部勇次作詩・作曲「佐久間ダムの歌」(服部勇次著『ダムと水の歌102曲集−ダム湖碑を訪ねて−』服部勇次音楽研究所・昭和62年)がみられる。

 一.天を突くような  高いダム
   流れる水に    虹が立つ
   不眠不休の    難工事
   今でも語り    継がれる
   ああ待ちに待った 佐久間ダム

 二.ダムの話しに   悩まされ
   仕事手つかづ   三十年
   あの日の暮らし  忘れない
   共にすごした   人いづこ
   ああまた見に来た 佐久間ダム

 三.天竜川の     流れ止め
   水力発電     日本一
   資源の乏しい   わが国に
   光を放つ     ダム完成
   ああ待ちに待った 佐久間ダム

 天竜川本川のダムをみてみると、上流から泰阜ダム(昭和10年)、平岡ダム(昭和27年)、佐久間ダム(昭和31年)、秋葉ダム(昭和33年)、船明ダム(昭和51年)が各々建設され、その主な目的は水力発電である。

2.佐久間ダムの建設

 佐久間ダムは左岸静岡県磐田郡佐久間町大字佐久間、右岸愛知県北設楽郡豊根村大字真立に位置する。長野県天龍村から静岡県佐久間町の間の落差138mを利用して最大出力35万kwを発電し、50ヘルツと60ヘルツの両用の発電機により、東京・名古屋方面に送電するものである。上流の平岡ダムに至る約33kmに及ぶ人造湖が出現した。貯水池面積7.15kuは諏訪湖の面積の5倍強に及ぶ。発電の他、昭和43年に完成した豊川用水に佐久間ダムから宇蓮川に導水し、取水の安定が図られている。

 佐久間ダムの諸元は、堤高155.5m、堤頂長293.5m、総貯水容量3億2,684万km3、発電最大出力35万kw、型式は直線重力式コンクリートダムで、起業者は電源開発梶A施工者はダム本体が滑ヤ組、発電所建設が褐F谷組で、工費385億円を要した。

 佐久間ダムの建設は「戦後土木技術の原点」、「日本の復興を世界に示した金字塔」と讃えられ、次の点で当時日本一を誇った(大沢伸生・伊東孝著『ダムをつくる』日本経済評論社・平成3年)。

(1) ダムの高さ155.5mは、それまで日本一であった木曽川における丸山ダム(昭和29年完成)の88.5mをはるかに越えた。現在の日本一は黒部ダムの186mである。
(2) 発電力の最大量35万kw(常時9万7,000kw)は、東京電力の信濃川発電所最大17万7,000kwの約2倍にあたる。現在の日本一は新高瀬川発電所の128万kwである。
(3) コンクリート打設5,180m3は世界記録を樹立した。
(4) ダム工事は、大型の土木機械をアメリカから中古品を輸入し、この機械を駆使して、10年かかるところを3ケ年で完成させた。

 この短期間の工期は、逆に用地担当者にとっては、佐久間ダム建設工事請負契約(昭和28年4月)締結以降、種々の工事に追われるという一面も生じ、また一方では地権者が長野、愛知、静岡の3県にまたがるという日本一困難な補償交渉が続く。主なる用地補償は家屋移転296世帯、用地取得面積145万7,000坪、国鉄飯田線一部付替工事、豊根発電所水没補償、筏業者等の補償である。なお、代替農地として豊橋市郊外の開拓地を斡旋し、41戸が移転した。

3.佐久間ダム建設の経過

昭和25年6月 朝鮮戦争勃発(〜28年休戦)
  26年5月 電力会社の9電力会社再編成
  27年7月 「電源開発促進法」の施行
    9月 電源開発鰍フ発足
    11月 高碕総裁ら米国技術導入のため渡
       米
  28年1月 「佐久間補償推進本部」の設置
    4月 佐久間ダム建設工事請負契約締結
       滑ヤ組(ダム)、褐F谷組(発電
       所)の2社、米国アトキンソン社
       と技術援助契約
       「電源開発に伴う水没その他によ
       る損失補償要綱」の制定
    5月 ダム建設機材購入のためバンク・
       オブアメリカより700万ドル借款
       契約締結
    12月 佐久間建設所開設
       国鉄飯田線付替工事着工
       補償基準書の作成終わる
  29年1月 被補償者との交渉始まる
    3月 天竜川仮締り完了(バイパストン
       ネル2本)
    5月 仮排水路トンネル1号、2号竣工
    8月 全断面掘削開始
       台風5号来襲
    9月 台風12号、14号来襲
    11月 富山村(141世帯)妥結
  30年1月 コンクリート打設開始
    11月 飯田線中部天竜〜大嵐間18km付
       替工事完了
  31年10月 佐久間ダム(発電所)竣工式
  32年10月 天皇皇后両陛下、佐久間ダム御臨
       行

4.補償の困難性

 時間に余裕があるからといって補償交渉はスムーズに行くとは限らないが、ダム工事発注後、背中をつつかれ、被補償者に見透かされて行うような交渉ほどつらいものはない。長谷部成美著『佐久間ダム−その歴史的記録』(東洋書館・昭和31年)に、

工事は穴を掘ればいい、コンクリートを打てばいい、いわば自然を相手の仕事なのだ。だがもう一つ、佐久間には人間を相手の仕事があった。これは水没する人や物、及び工事に必要な土地などの補償問題だ。岩が固ければ爆薬を多くつめればいいが、人間相手ではそうはいかない。土木工事に劣らない苦心があった。人によっては「とても工事より苦しいもんだった」

とある。

 昭和28年1月「佐久間補償推進本部」が設けられ、平島敏夫本部長、木村武らは、血の小便が出るという苦しさを味わうこととなる。
 ある山持ちの交渉で、「ダムを設ける地点は天竜川広しといえどもあそこだけだ。それならば銀座4丁目の角並の価格があるんだから、銀座並の価格で買え、いやならば他の場所へ造れ」といわれる。平島本部長は「理由をつくものは何でも補償します」などの発言もあったという。被補償者を甘やかしすぎると平島の温情主義が批判される。熊谷組が工事現場に乗り込んできたが、補償が未解決のため作業員を一時帰したこともあった。

 また水利権許可にからんで、長野、愛知、静岡県の3県は電源開発鰍ノ好意的ではなかったという。電源開発鰍ヘ四面楚歌のなかで、関係11ケ町村に交渉経費を支払っている。

 昭和28年4月「電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱」いわゆる「電源要綱」が制定された。平島本部長たちは、地権者と折衝しながら、土地、物件調査を行った。ようやく「補償基準」をつくり終えたのが年末で、通商産業省の了解を得て、昭和29年1月から補償交渉に入っている。紆余曲折を経てこの年の11月富山村 141世帯が妥結した。これを境として急速にその他の補償の解決を見出していった。

5.補償の精神

 前掲書『佐久間ダム』に、次のように記されており、ここに「補償の精神」をみることができる。

「佐久間は他地点に比べて高すぎる」
「あんなべらぼうな値段なら誰だって交渉できる」
「佐久間があんな高く決めるから他に影響して困る」

等々の非難が鋭かった。

「生きている人間を相手に、一片のペーパープランの通りに行くか」

と、開発会社はこの批判を強引に押し切った。

 戦後電力不足は続いており、一刻も早い電力の供給が至上命令であったことは、昭和30年の財政投融資計画からみてわかる。
 電源開発269億円、国鉄240億円、電信電話公社75億円、帝都交通営団、郵政事業特別会計、日本航空鰍ェともに10億円となっており、この融資額はその後数年も続く(水野清著『電源開発物語』時評社・平成17年)。

 このように電力開発が最優先されていた国策であった。故に、用地担当者は「生きている人間を相手に一片のペーパープラン通りに行くか」という「補償の精神」を貫いたと推測される。補償交渉とは、感情と勘定との心理戦かもしれない。この二つの「カンジョウ」が幾度となく衝突を繰り返し、やがて一致点がみえてくる。その一致点を見出すまで、なにはともあれ、用地担当者がこの「一片のペーパープラン通りに行くか」という「補償の精神」を持って、交渉していたことだけは確かだ。そうでなければ、到底日本一苦しい交渉に耐えることはできなかったであろう。

6.おわりに

 昭和31年完成した佐久間ダムは既に50年が経過したが、水没者296世帯の人たちのことと、さらに工事において殉職された94人の方々を忘れてならない。

 昭和32年10月28日天皇皇后両陛下は佐久間ダムに御臨行された。そのとき天皇陛下は、

 たふれたる 人のいしぶみ 見てぞ思ふ たぐひまれなる そのいたつきを

と詠まれている。皇后陛下は

 いまさらに 人の力のたふときを 思ひいつつ見る 天竜のダム

と、詠まれた。いたつきは、「労き」と書き、心労、ほねおり、功労の意味である。
 ダム建設には用地担当者の「いたつき」も存するが、それは見えてこない。
 平成17年11月16日佐久間ダムを訪れた。この時見学者もなく、木漏れ日が静かな湖面に光っていた。ダムサイトを渡って右岸の長い長いトンネルを過ぎて上流に進むと、土砂を採取する浚渫船が見えてきた。天竜川の土砂が佐久間ダム等で塞き止め、土砂の供給がほとんどなくなった。そのため天竜川河口遠州灘の中田島砂丘では松枯れと海岸侵食が進んでいる。天竜川の治水、利水に関するダム開発は、日本の経済成長と私たちの生活向上に大いに寄与してきた。しかし、その反面自然環境の悪化を招いている。この中田島砂丘の侵食は、この地域の安全性に係わってくるものであるから、一刻も早く叡知を結集して解決策を講じなければならない。そこには自然再生事業という新たな公共事業が成されるべきである。

[関連ダム]  佐久間ダム(元)  佐久間ダム(再)
(2007年3月作成)
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