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1.技術者には国境がない
明治政府は、急ピッチに近代国家を建設するために、欧米の科学技術や文明を取り入れ、とくに、インフラの整備として、多数の外国人技術者を招聘した。オランダの水理工師ヨハネ・デ・レィケ(1842年〜1913年)は、明治6年来日、以後30年間の滞在に及んだ。その間利根川、木曽川、常願寺川、淀川、筑後川などの主要河川を歩き、河川工法の助言を行い、治水、利水事業の発展に尽くした。デ・レィケの業績を讃える銅像が、日本の河川関係者によって長良川河畔の船頭平河川公園に建立されている。(上林好之著『日本の川を甦らせた技師デ・レィケ』 (草思社・平成11年) )
わが国は、明治維新以来、わずか 100年あまりで、世界の経済大国に成長を遂げることができた。このことは、インフラの土台を造りあげた、外国人技術者たちの指導力、技術力の賜物であることは確かだ。 逆に、多数の日本の技術者が、今日、アジアを中心に国境を越え、国籍や民族を越えて活躍している。「技術者には国境がない」ことを如実に物語っている。
2.八田與一の生涯
「技術者には国境がない」ことを身をもって示したのは、台湾総督府の土木技師であった八田與一であろう。いまでも台湾の人々から敬愛されているからだ。
八田與一は、明治19年2月21日石川県河北郡今町村(現、金沢市今町)で生まれた。四高を経て、明治42年東京帝大工学部土木学科在学中に広井勇教授の薫陶を受ける。卒業後台湾総督府土木局に勤め、大正3年浜野弥四郎のもとで衛生工事に従事、大正5年桃園の設計・監督を行う。大正9年嘉南平野に導水するための烏山頭水庫(水庫=ダム)の建設が着工し、昭和5年このダムから導水する嘉南大しゅう(大しゅう=大規模な用水路)事業が竣工した。この事業の中心的役割を果たした八田與一は、「嘉南大しゅうの父」として慕われ、尊敬されている。
嘉南大しゅう事業の完成後、八田與一は、昭和10年8月福建省のかんがい事業調査、昭和15年11月海南島の発電事業と水利事業調査、昭和16年5月日本、朝鮮、満州の主なダム視察をおこなった。このとき、朝鮮鴨緑江に建設中の水豊ダム、満州第二松花江に建設中の豊満ダムを視察、さらに黄河と揚子江をみてまわっている。また、昭和17年4月25日建設中の小河内ダムを視察、工事用ケ−ブルクレ−ンをみることが主であった。その半月後、5月8日フィリピンへ、南方産業開発派遣隊の一員として太洋丸に乗船中、東シナ海上において、米潜水艦グラナディア号に撃沈され、殉職。56歳であった。
昭和20年9月1日妻外代樹は與一を追うかのように、烏山頭ダム(珊瑚潭)の放水路に投身自殺、45歳の生涯を閉じる。昭和21年4月悲しみを抱き八田家の遺族は、台湾を去った。烏山頭ダムを見下ろすところに八田與一の銅像が、嘉南農田水利協会によって建立されており、八田夫妻の墓もそのそばにあり静かに眠っている。
この墓を訪れたときのことを、司馬遼太郎著『台湾紀行−街道をゆく(40)』(朝日新聞社・平成6年)では、「珊瑚潭の八田與一とその妻外代樹の墓は疎林でかこまれて、木漏れ日が赤土の上に落ちている。木陰が印象派の風景画のように紫に光っているのである。與一の命日は五月八日である。毎年この日には嘉南農田水利会のひとびとによって、墓前祭がいとなまれているという。ありがたいことに、故人は国籍、民族を越えた存在になっている」と、讃えている。
3.台湾の地形
台湾は「木の葉」の形をした島である。面積は36,000km2、日本の九州とほぼ同じで、約 2,300万の人たちが暮らしている。総面積の約70% が山地で、残りの30% が平地で占め、南北に中央山脈が走り、最高峰 3,952mの玉山(新高山)をはじめ 2,600m以上の山々が連なっている。気候は高温多湿で雨が多く、風が強い。北部は亜熱帯気候、南部は熱帯気候で平均気温は22℃、平均年降水量は 2,2OOmmで比較的多い。
台湾の河川は、ほとんど山岳地帯の水源から西へ流れており、山間部から海までの距離が 100kmに満たない。川は短く、険しく、直ぐに海へ流れ込み、商業的な舟運は発達しなかった。台湾では谷川のことを渓と表現されている。 河川は、中部を流れる全長 186.4kmの濁水渓が一番長く、さらに南方の東港の町へ向かって流れる全長 160kmの高屏渓、台湾最大のダム曽文水庫を経て台湾海峡に下る全長 140kmの曽文渓が流れている。この3つが台湾の代表的な河川といえる。
4.烏山頭ダムの建設
八田與一については、古川勝三著『台湾を愛した日本人』(青葉図書=愛媛県松山市小栗6丁目3−23 電話(089)-943-1165 ・平成元年)、斉藤充功著『百年ダムを造った男−土木技師八田與一の生涯』(時事通信社・平成9年)が発行されている。これらの書から、その業績と人間性を追ってみたい。
烏山頭ダム・水路による嘉南大しゅうの事業目的は、台南州における旱魃、排水不良に苦しみつつある看天田、蔗園の嘉南平野15万haに対し、灌漑排水の設備を施し、水稲、甘蔗の農産物の増加を図ることにあった。開発される土地15万haは、香川県とほぼ同じ面積にあたる。
この水開発のために、水源を曽文渓及び濁水渓から求めた。まず、曽文渓の水を官田渓で締切り、堰堤の烏山頭ダム(官田渓貯水池)を築き、このダムには烏山嶺を貫き延長 3,800mの隧道と暗渠を通して、最大流量50m3/sを導水し、貯留する。また、濁水渓の水は、台南州六郡荊桐生の同渓護岸に取水口を設け水路によって、そのまま利用する。
工事の工程は、烏山頭ダムに貯水するための隧道工事と、濁水渓の導水工事を平行して進め、次いで、烏山頭ダムの本体工事にかかり、最後に、水田をまんべんなく導水するための給排水路工事を行う、4工程に分けて建設がなされた。大正9年に着工し、昭和5年に嘉南大 事業は、10年間を要し竣工した。
烏山頭ダムの諸元は、堰堤盛土の高さ56m、堰堤頂部の長さ 1,273m、最大貯水量1億 5,000万m3、満水面積 6,000ha、堰堤付近水深47m、ダム型式はセミ・ハイドロリックフィル工法(半水成式工法)である。起業者は嘉南大 組合、施工者は、大倉土木組(現・大成建設)が主であるが、鹿島建設、住吉組、黒板工業の企業も参加した。
また、給排水路の総延長は1万 6,000kmで、地球半周近い距離となった。総事業費 5,413万円、現在では、5,000 億円以上要するであろう。この総事業費のうち、約半額は国庫補助で、残りは受益者負担であった。完成によって嘉南平野15万haの地域は水稲、甘蔗の作物の大増産となり、組合員の負担費は回収されることとなった。
なお、この事業の規模は、長野県木曾郡王滝村、三岳村に牧尾ダムを建設し、木曽川の水を岐阜県から尾張東部の平野及びこれに続く知多半島一帯に、農業用水、上水、工業用水を供給している愛知用水事業(昭和36年完成)の10倍にもなる。
5.補償の精神
この嘉南大 のような大事業にあたっては、必ずといっていいほど、事故や事件がおこり、一時暗礁に乗り上げることがある。
大正11年、八田與一は、アメリカのダム視察を終えて、帰台する。その年の12月6日烏山嶺隧道工事が90m堀り進んだとき、石油が噴出し、爆発事故が起こる。死者が50余名を数えた。だが、與一はこのことに屈することなく、信念を持って、部下達を督励し、最も地盤の弱かった地点を無事乗り切った。
もう一つの試練は、大正12年9月1日の関東大震災がおこったときである。この大震災により、日本は政治、経済、社会面で大混乱となり、その影響は、台湾にも波及した。嘉南大 事業の大幅な補助費の削減となり、 組合員の半数が人員整理となった。與一が一番辛いときであった。
このようなリストラに対し、前書『台湾を愛した日本人』のなかで、八田與一の補償の精神をよみとることができる。
【「退職者の中には、有能な者がかなり含まれております。この者達より、他の者を解雇した方が、現場としては有難いのですが」 静かに聞いていた與一は、「私もいろいろ考えた。確かに、力のある者を残しておきたい。しかし、能力のある者は、他でもすぐ雇ってくれるだろうが、そうでない者が再就職するのはなかなか難しい。今、これらの者の首を切れば、家族共々路頭に迷うことになる。だから、あえて、惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした。その穴埋めは、君達が残った者を教育し補ってくれ。辞めさせる以上、辞めていく者の就職口は、必ず私が見つけてくる。君達も苦しいだろうが、私もつらいのだ」 と苦汁に満ちた顔で語った。係長の誰もが、心で泣いていた。決して、部下を粗末にしない與一の温かい心が泣かせたのである。 もはや、誰も何も言わなかった】
【與一は、その後、退職者の職場探しのため奔走することになる。そして、烏山頭出張所に勤めていた時より、良い俸給の職場を探し出しては世話をした。與一は、決して、技術者を安売りする人間ではなかった。就職を頼みに行った会社で高い俸給を要求して、それを通してしまうのである。 このことが、また、與一の評価を高くした。】
「補償の精神」は公平、適正さが最重要視されるが、その公平、適正の裡に必然的に弱者救済、生活補償の思想が潜んでいる。
金沢時代八田輿一は、熱心な仏教徒であったという。與一は弱者を救済するとともに、リストラにあった人たちの就職活動に進んで斡旋を行った。そして、その後予算が復活したときは、最優先で、その人たちを烏山頭ダム事業の職場に復帰させた。與一の「補償の精神」は、職員の生活権の保証にあった、といえる。
おわりに
昭和20年8月15日わが国は日中、太平洋戦争に敗れ、終戦を迎えた。戦後、台湾では日本人の銅像は全て撤去された。唯一残ったのは八田與一の銅像である。この銅像は嘉南の農民たちによって、隠され守られてきた経過がある。昭和56年ようやく台湾政府の許可を得、烏山頭ダムの傍らに再現された。
平成16年5月29日台湾の実業家許文龍氏は、與一の胸像を「金沢市立ふるさと偉人館」に寄贈した。昭和17年5月8日東シナ海沖上で没して以来62年ぶりの帰郷となった。
前述したように、嘉南農田水利協会は毎年5月8日烏山頭ダムの八田夫妻の墓前で、追悼式を続けている。このように今日でも八田與一は、「嘉南大しゅうの父」として台湾の農民たちから最も愛されている日本人である。
高橋裕東京大学名誉教授は、『台湾を愛した日本人』の序文に、「いま国際化の波のなかで多数の日本人が世界各国で働いている。その場合、最も重要なことは、現地の一般庶民の幸せを願うことであり、現地で慕われるような業績を積むことである。日本人が憎まれていた戦時中の中国で、八田技師の行動記録こそは、克明に記録されるべきである。それはこれからの国際社会でのわれわれの生き方に通ずるからである。」と、称賛されている。
八田與一の業績を辿ると、改めて「技術者には国境がない」ことを強く感じる。現地の人たちの幸せにつながり、慕われるような事業を行うことが、「真の技術者」に値するであろう。
万緑に染りてダムは凪て居り (手柴登美)
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