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文献にみる補償の精神【14】
「その我々の前にボ−トとは何ぞ。
観光客とは何ぞ」
(柳瀬ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
1.銅山川分水の悲願

 のどは口腔の奥で食道と気道とに通ずる大切な部分である。「のどが渇く」とは人の物を羨み、欲しい気持ちを表し、さらに「のどから手が出る」とは、欲しくてたまらない例えに使われる。古代から水の少ない地域は「のどから手が出る」程に、水を渇望した。

「山腹をぶち抜いて大川(銅山川)の水が引けたら」
「夢みたいな話じゃ、おまえアホじゃないか」
「夢でもええ、宇摩の百姓が生きる道はこれしかない」
 (芳水康史著『吉野川・利水の構図』 (芙蓉書房・昭和45年) )

 宇摩の人々にとっては、法皇山脈の向こう側を流れる銅山川の分水を図ることが、江戸期からの悲願であった。この願いは、昭和28年柳瀬ダムの完成によってようやく叶った。

 宇摩地方は愛媛県の東端に位置する川之江市、新宮村、伊予三島市、土居町のことで、平成16年4月1日この2市1町1村は合併し、四国中央市が誕生した。人口96,000人、面積 419.9km2。今日では紙産業が盛んでパルプ工場が集中し全国的に製紙工業地帯として有名であるが、昔から水不足に悩まされてきた。

 この宇摩地方は、瀬戸内海燧灘沿岸に面した細長く開けたところで、背景に標高1000m級の法皇山脈が東西に走っている。この山脈の山麓に沿って急斜面が続き中央構造線による断層崖をみる。この崖から燧灘にかけて台地があり、海岸のゆるやかな傾斜となって宇摩平野を形勢している。瀬戸内海気候で平均降水量は1500mmと少ない。この平野には金生川、赤之井川、関川が流れているが、いずれも小河川で短く、また急勾配であるためにたびたび水害と早害に見舞われている。

 銅山川は、愛媛県東部を徳島県へ流れ、紀伊水道へ注ぐ一級河川吉野川の支川である。延長55km、流域面積 280km2で下流の徳島県では伊予川ともいわれている。水源を石槌山系冠山標高1732mに発し、富郷渓谷等の深い浸蝕谷を作りながら東流し、馬立川、中の川、猿田川などを合わせ徳島県三好郡山城町の小歩危の北で吉野川と合流する。河川名は、かつて我が国最大の銅山であった別子銅山(昭和48年閉山)を流れていることに由来する。

 銅山川流域は四国山脈の多雨地帯であり、降雨は梅雨期、台風期に集中し、年平均降水量は2500mmである。銅山川の豊富な水の利用は、藩政期以来、水の不足する宇摩地方への分水構想に始まり、昭和11年愛媛県と徳島県との確執を経て、ようやく分水協定が締結された。現在では、銅山川の水は柳瀬ダム(昭和28年完成)、新宮ダム(同51年完成)、富郷ダム(平成12年完成)により、宇摩地方にかんがい用水、水道用水、工業用水として、また発電に利用され、川之江、伊予三島の地域は製紙工業を中心とした用水型産業を基幹として発達してきた。


2.銅山川分水の歴史

 江戸期から銅山川の分水については、多くの方々の尽力がなされた。愛媛県と徳島県との激しい分水論争を柳瀬ダムの完成まで克明に描いた合田正良編『銅山川疏水史』(愛媛県地方史研究会・昭和41年)からその経過と、その後の分水協定までを追ってみたい。

  安政2年 宇摩地方の三庄屋が今治藩三島代官所に疏水事業の
       目論見書を差し出す
  文久年間 三島代官所松下節也は疏水計画を指示するが、
       幕末の動乱で破綻
  明治6年 三島、中谷根、松柏などの有志が共同事業で疏水計画
    28年 神戸の外国商社サミエル管理人が計画、別子鉱毒で水田
       不適の噂となり中       止
    32年 死者 513名の大洪水が起こり鉱毒が銅山川に流出
       (銅山川鉱毒事件)
    33年 大阪の事業家松浦義光が、かんがい水と発電計画
       徳島県の反対にあう
    40年 中之庄村の高倉要が計画、日露戦争後の経済変動で高倉
       財閥打撃を受け中止
  大正3年 岡山の紀伊為一郎が分水事業計画を愛媛県に申請
    13年 宇摩地方干ばつ
       宇摩郡全町村長、町村議員連署にて内閣大臣に分水計画
       許可を請願
       宇摩郡疏水組合の設立
    14年 銅山川疏水事業期成同盟会の結成
       三島町公会堂で郡民大会開催
  昭和3年 愛媛県 柳瀬ダムによる分水計画を提出
    6年 銅山川分水を愛媛県、徳島県両知事協議
       両知事 覚書を締結(仮協定)
       徳島県議会の同意が得られず
    7年 徳島県議会で分水反対満場一致で可決
    9年 宇摩地方干ばつ、徳島県室戸台風で被害
    10年 分水実現不可能と組合の解散論が出てくる
       愛媛県は分水認可を政府、徳島県に働きかける
       内務省は、愛媛県に計画縮小を指示、発電計画の中止、
       分水量毎秒 1.935
       m3に変更、両県に斡旋を図る
    11年 第一次分水協定の締結 かんがい用水のみ分水、柳瀬ダム
       の築造、下流放流の義務づけ
    12年 愛媛県営による宇摩地方に分水する隧道着工
       日中戦争により17年に中断
    20年 太平洋戦争により軍需省が発電参加要請
       第2次分水協定の成立(発電を含める)
    22年 内務省は吉野川の治水の必要から未着工であった柳瀬ダム事業
       に洪水調節を含ませる第3次分水協定の成立、隧道工事の再開
    24年 愛媛県の委託で建設省が柳瀬ダム建設に着工
    25年 仮通水式挙行、初めて銅山川の水が宇摩地方に流れる
       ジェ−ン台風により柳瀬ダム工事一時中止
    26年 隧道貫通後の取水について、柳瀬ダムの完成をまたずに分水
       できる第4次分水協定の成立
       工業用水利用の道を開く
    28年 柳瀬ダム完成
       銅山川第1発電所竣工
    29年 銅山川第2発電所竣工
    33年 第4次分水協定はダム下流の責任放流が一定のため、吉野川
       の中流部基準点(徳島県阿波郡阿波町岩津)の流量により調整
       放流できる第5次分水協定の成立
    36年 第2次室戸台風
    39年 分水増量なる、川之江市へ分水する幹線水路完成
    41年 吉野川総合開発計画の策定
       早明浦ダム建設に愛媛県も参加によって銅山川の分水は下流
       責任放流がなくなる


3.柳瀬ダムの建設

 昭和12年柳瀬ダムは隧道工事を着工したものの17年日中戦争により中断、22年再開、28年に完成した。
 柳瀬ダムの諸元は堤高55.5m堤頂長 140.7m、堤体積約13万1000m3、総貯水容量3220万m3で、直線重力式コンクリ−トダムで、総事業費27億5000万円である。起業者は愛媛県から委託された建設省、施工者は鹿島建設(株)である。 ダムの目的は計画高水流量2600m3/sのうち1200m3/sの洪水調節を行い、宇摩地方の水道用水として最大0.35m3/s、工業用水として最大2.55m3/s、かんがい用水として年間 650万m3を供給し、銅山川第1発電所最大出力1万 700KW、銅山川第2発電所最大出力2600KWの発電を行っている。

 分水方法は法皇山脈をくり抜き2783mの隧道で銅山川の水を宇摩地方に供給し、さらに分水は上柏の馬瀬谷上の調圧水槽に達した後、かんがい用水に配水される。幹線水路は土居町方面へ西部幹線水路延長13.5kmと、川之江方面へ東部幹線水路延長5kmから配水されている。


4.用地補償の経過

 柳瀬ダムにかかわる用地補償の諸元は、移転戸数 160戸(金砂村、富郷村)、移転世帯数 186世帯、田43反、畑 348反、山林 558反、宅地16,420坪、墓地 935坪、索道2件、鉱山1件となっている。補償交渉は難航した。
 次に補償の経過を追ってみる。

  昭和24年9月 地建は第1期工事として仮排水路、仮締切等の入札を行う。
         これを知った金砂、富郷両村水没者は補償問題解決前に
         ダム工事に着手するとは遺憾として抗議を行う
    25年7月 金砂村水没者補償増額要求
      8月 水没補償の個人交渉開始
      10月 補償費増額を知事に陳情
    26年3月 精神補償の決定
      8月 銅山川残留者は立退対策会 真情を県民に訴える(筵旗行進)
    27年4月 物価インフレに伴って知事宛追加補償要求書提出
      6月 追加補償額の決定
      11月 追加個人補償金の支払

 このようにみると、補償解決前の着工が行われており、水没者は行政側に対して、根強い不信感を抱いた。


5.補償の精神

 前述の『銅山川疏水史』のなかに、水没者藤原為行さんの「湖底に沈んだ故郷」と題して、補償に係わる心情が表現されている。

【知事や県当局は果して銅山川住民の切実な問題を本気に心配してくれていたでしょうか。およそその考えは、住民の土地や建物を時価相場で買いとり、お添えものとして立退きに要求する実費補償を少しやれば、喜んで立退くだろう。何を好んで山中の不便な原始生活をするものであろうか。今度こそ浸水地帯の住民は、原始生活から開放されて、町へ引っ越し、文化の風に浴する絶好の機会であり、ダム工事こそ彼らにとっては福の神が舞い込んだようなものだと、寧ろ恩恵を施すが如き口振りさえ洩らすものもないではなかったようです。】

 一方、山上次郎県会議員は、

【銅山川湖水池のほとりに佇む時、この大事業に長い忍苦と、尊い犠牲と、深い悲しみと、大きい喜びとが秘められている】

 と述べ、さらに補償交渉の一端を描いている。

【 〔人形が芥と共に流れ来ぬ立ち退き近き村の銅山川に〕この歌は、昭和二十七年、当時県議として金砂村の立ち退き補償のお世話をするために、金砂を訪れた時のものである。路傍には菰巻にした墓石があったりした。暑い日であった。前夜の話合いも効を奏さず、悲痛な思いで見つめる銅山川に棄て雛がごみ、あくたと一緒に流れてゆく。その時ほど立退者の悲壮さが身にこたえた事がなかった。補償の会談の席上、土木部長が、何れ湖水が出来たら、ここはリッパな観光地になって、ボ−トが浮かびにぎやかになる。ここに放流される紅鱒は観光客を慰めるし、このさびしい山奥も一挙ににぎやかになるよ。と一寸口をすべらせると、何を!我々湖底に沈む者にとっては、故郷がなくなるんだぞ。お墓参りさえ出来ねえんだぞ。その我々を前にボ−トとは何ぞ。観光客とは何ぞ。と食ってかかった村人の血相変えた姿と、血を吐くような叫びがいまだに耳に熱いようだ。】

 この土木部長の悪意のない失言は、水没者の心情を大いに逆なですることになった。郷土を棄てようとする水没者の感情を共有せず、また水没者の生活再建対策を真剣に考えようとせず、その心底には前述の「原始生活から開放されて、町へ引っ越し、文化の風に浴する絶好の機会であり、ダム工事こそ彼らにとっては福の神が舞い込んだようなものだと、寧ろ恩恵を施すが如き口振り」であったのだろうか。

 ダムを造る側の根底に、このような考え方はマイナスの「補償の精神」にほかならず、交渉合意の道のりは程遠い。ダムを造られる側にとっては、到底容認できないことである。しかしながら、ダムを絶対に必要とする造る側は、その当時としては思い切った追加補償を行い、解決に至っている。


おわりに

 昭和28年「のどから手が出る」程、欲しかった水が導水されるようになった。「馬瀬に集う人々の顔はみんながみんな喜悦に輝いている。隧道口にしゃがんで水の出を待つ人々の眼は百年もの長い間待に待った歴史的な光りさえも帯びているようだ。あっ!、水だ!、出たぞ」(『銅山川疏水史』木川 清一)

   法皇山脈をくり抜いて水を取ると言いし夢想をうつつ躍り出づる水
                             (山上 次郎)

 この黄金ともいえる水は、灌漑用水、水道用水、工業用水、発電用水に供給され、宇摩地方の農業、工業、産業の発展の基礎をなしている。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」とは、苦しさが去ればその恩を忘れることをいう。だが、この銅山川分水事業に尽力されたダム水没者を含め、あらゆる人たちの恩は「のど元過ぎても」忘れてはならない。

[関連ダム]  柳瀬ダム  新宮ダム  富郷ダム
(2006年4月作成)
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