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文献にみる補償の精神【30】
『凡てに対し、只「有難う御座いました」「御苦労さまでした」と
感謝の言葉を捧げたいのである。』
(一ツ瀬ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 
1.宮崎県の河川

 宮崎県は九州南東部に位置し、古くから日向と呼ばれわが国の建国にまつわる神話も多く残っている。人口は 114.8万人(平成18年9 月現在)、面積7735km2(林地面積75.6%)、人口密度 149.1人/km2である。

 宮崎県の山は北部に傾山、祖母山、三方山、西部に国見山、市房山、南北に至る九州山地と韓国岳、高千穂の主峰とする霧島山がそびえる。

 この山々を水源として、五ヶ瀬川、耳川、小丸川、一ツ瀬川、大淀川、広渡川などの河川が西から東へ流れ日向灘に注ぐ。これらの河川は、各々幹線流路延長約80km程であり、その豊富な水源は県北で延岡市、日向市の工業地帯を形成し、県中央部には宮崎平野が広がり、宮崎市を中心に都市が発展し、その周辺には農業地帯である。また、南部には日南市、都城市、小林市など中核都市を創ってきた。


2.宮崎県のダム

 前述の宮崎の河川には、大正期から平成18年にかけて46基のダムが築造された。ダム事業者別では九州電力(株)20基、宮崎県19基、農林水産省4基、土地改良区1基、チッソ(株)1基、旭化成1基となっている。

 ダム堤高ベスト3をみると、
  ・一ツ瀬ダム  130m(昭和38年完成)
  ・上椎葉ダム  110m(昭和30年完成)
  ・塚原ダム   87m(昭和13年完成)
となっている。3ダムとも発電用ダムである。

 一方、総貯水容量ベスト3は、
  ・一ツ瀬ダム 2億6131万m3
  ・上椎葉ダム   9155万m3
  ・松尾ダム    4520万m3(昭和26年完成)
であり、3ダムとも発電用ダムである。九州電力(株)施行の一ツ瀬ダムは堤高、総貯水容量とも宮崎県第一位を誇っている。


3.一ツ瀬ダムの建設

 一ツ瀬川は、その源を九州山地市房山、石仁田山に発し、宮崎県の中部、児湯郡の中央部を東南に流下し、支流板谷川、小川川、銀鏡川、打越川、尾八重川などを合わせ、さらに河口付近で三財川を合流して日向灘に注ぐ流域面積 800km2、流路延長91.1kmの二級河川である。

 地形は上流部、中流部は急峻で河床は浸食され、両岸は懸崖をつくり平地に乏しいが、下流杉安付近からは平野を形成している。この一ツ瀬川の中流部にアーチダム一ツ瀬ダムを築造し、本流流域 415km2の流量と支流岩井谷川、湯ノ片川、尾八重川、打越川の各河川からの取水と合わせて、ダム上流約 200mの右岸取水口から延長 2.7kmの導水路で一ツ瀬発電所に導き最大出力18万KW(常時1万9100KW)の発電を行い本流へ放流する。この電力は杉安および綾、三財川系各発電所の電力ととも 220KVに昇圧され、一ツ瀬上椎葉より北部九州へ送電される。また、一ツ瀬発電所の放流を逆整調するため、下流に杉安ダム、杉安発電所を造り、最大出力1万1500KW(常時3800KW)を行うもので、当時、九州電力(株)の社運を左右するといっても過言ではない、大型プロジェクトであった。両ダムは昭和38年に完成した。

 この建設記録に九州電力(株)土木部編『工事報告 一ツ瀬・杉安アーチダム』(土木学会・昭和40年)がある。

 一ツ瀬ダムの諸元は堤高 130m、堤頂長415.62m、堤体積55.6万m3、総貯水容量2億6131.5万m3、形式は可動堰付越流アーチ式コンクリートダム、施工者は鹿島建設(株)で、事業費は196.15億円を要した。

 なお、水没移転家屋は 355戸にのぼる。ダムサイト左岸に工事で犠牲者となった尊い41名の慰霊碑が建立されている。


4.補償交渉−夜討ち朝駈け

 九州電力(株)総務部編・発行『湖底に祈る』(昭和39年)は、一ツ瀬ダム建設に係わる工事と補償交渉の想い出が綴られている。昭和31年〜38年にかけて、ダムを造る側からの記録である。

 一ツ瀬ダム建設の始まりは、先ず宮崎県に対し、昭和31年水利権の許認可の提出からであるが、昭和34年に宮崎県と九州電力(株)は協力態勢が整った。締結された覚書には「宮崎県は九州電力(株)の県内における電源開発に協力し、九電は県の総合開発に協力する」と明記され、「一ツ瀬ダム水力発電所建設所」が開設された。補償交渉についていくつかのエピソードをこの書から引用しながら追ってみたい。

・用地担当者のつぶやき

【社会的要請によって公益事業を推進するのに、何故、地元町村にこんなにまで頭を低くして工事容認の懇願をしなければならないのか。工事のための土地立入り、調査、測量、あるいは機材搬入、運搬道路の改良、請負附託等にいたるまで、村に予め説明し了解を求めざるを得ないのである。
 勿論、これだけの大工事を施工するには地元町村の協力を得ることは必要であり、つとめて村および村民と協調して事を進め、いたずらに刺戟しないようとの会社の配慮は分る。だからといって地元自体は当然に、これらの権限でもあるかの如くにその座にふんぞり返るとは、全くゲシかねる……。
 「泣く子と、地頭には勝てぬ」とは、今でも尚実感として、われわれの肌にヒシヒシ戸感じることができるのである。ともあれ、そんな理屈よりも、今日はなんとかして話をつけたいものだ。】

 この用地担当者の呟きは、全国的に共通するが、「泣く子と地頭には勝てぬ」と思いながらも、やはり、いかにして合意形成に向けて進むしかないだろう。

・無点灯地区の交渉

 昭和36年まで、一ツ瀬川における米良街道沿いの椎葉、津々志、片内、尾八重地区は、電灯の点かないランプの生活であった。

【柱時計をあおぐと八時に近い。
 僅かに障子の隙間から風が入って、矢張り寒い、私は煙草をくわえて火鉢を抱いた手の中の魚か?副長の顔は気のせいか明るい。打ち合わせが終わった三人が出て来た。
吉?凶?、私は膝を直した。
 座に着くやS氏は
「副長さん、千原さん、負けました。要求の百五十万円は撤回して協定価格の二万五千円をのみます、兜を脱ぎました。どうか今後も点灯問題に協力願います」遂に牙城は根底から潰え去った。かつてS氏が豪語した金城鉄壁も、所詮は、砂上の楼閣でしかなかった。】

 現在九州電力(株)の電源は、原子力が約40%を占め、水力、地熱、石炭、LNG、石油である。いまでは一ツ瀬川沿いの地区が無点灯であったことはとても信じられないが、S氏との補償解決は電力導入の先駆けとなった。

・ランプ生活からの別れ

 各地区の電気導入にもっとも努力した中武与市交渉委員長は、その喜びを次のように語っている。

【わたしたち一生を通じて今日のような嬉しい事はありません。世は原始時代と云うのに私達の地区はランプで一生を終わらなければならないか、又幾代の後世までまでも電気の恩恵には浴しえないかと思っていたのに、両発電所の建設により思いがけなく文化の光に恵まれた事は私共生涯通じての大きな喜びです。今は地区民揚げての感激でいっぱいです。交渉中は最後に至るまで駄目かとばかり思い続けました。建設所のあなた方と徹夜交渉して地区に帰って報告すると、まるで建設所の手先の様な事まで云われ情けないみじめさを感じた事はいく度となくありました。正に交渉決裂寸前と思われたとき、幸いに交渉妥結し今日この喜びに至りました事は誠に九電の御理解の賜と感謝いたします。】

 このとき、村民は総出で、手踊り、仁輪加、合唱などにより、点灯の喜びを最大限に表現している。

・ある水没者の妥結

 人事課の職員平川は、昭和34年4月宮崎市内のバーで、酒に酔い、水没者の有力者といさかいをおこした。その後管財課へ配転となり、この有力者と補償交渉を行うこととなる。

【あらゆる部門の補償交渉に、大なり小なりの至難さは当然のことであるが、人間感情の起伏の総てが相手となる、管財業務の難しさを痛いほど身に覚え、自分の器量のないのに腹立たしさを感じた。特に、個人補償については、東米良、西米良の両村ともに、即席の大ボス、小ボスや、自称有資産家の排出に手を焼いたが、その一つ一つが何とも形容しようのない複雑なものだった。優越、誘惑、脅迫から、愛情、憐憫にと移り、苦痛、謝罪、後悔と、しまいには妥協を余儀なくされているその他さまざまの、人間の持つ心理の織りなす綾の総てが、東西米良村の山中にあった。】

と、自問自答しながらも、有力者と協議を重ねた。そして、昭和38年8月12日のことである。

【深夜突然の来客に慌てる家内を尻目にずかずかと上り込み、どっかと胡座をかいた開副長は偉丈夫そのものである。
「平川君。後藤氏がたった今妥結をしたぞ……」
口吻のあとは言葉にならず渋面となった。まさかと思わることがらだけに、私は吃驚した。瞳が霞み涙が止めどなく溢れた。】

・補償金と銀行

【「九電が歩くところ銀行が来る。」これは水没者のじかの声である。
「うにゃ、昔かい持っちょる土地を手離さんならんとじゃがかい、もちっと出してくりやれんどかい。」
「あなたの水没する財産からしても、その精神的な面も考慮して、この金額は相当大きいし……、銀行の方も言っとった様に、六00万という金はたいしたものだし、どぎゃんですな、思い切って解決していただけないでしょうか。」
 同じ様な問答を繰返し、説得を続けて約一時間四十分後、頑固親父のAさんとしては割合に短時間に、いくらかすてばちながら口を開いた。
「ぜにゃ、何時くりやっどかい。そりゃ九電で銀行に入れちくりやっどかい。」快哉。これは解決を意味する。
 Aさんとの交渉は今日で七回目であったが、これでうまく実を結んだ。】


5.補償の精神

 以上、一ツ瀬ダムの補償交渉に関し、いくつか述べてきたが、ダムに係わった全ての人々はダム完成まで難問の連続であった。それはダムを造る者も造られる者も同様に血のにじむような労苦を重ねてきた。

 永倉三郎取締役総務部長は、この書『湖底に祈る』のなかで次のように語っている。

【長い歳月土地の人々をはぐくんだふるさとの地区のあとが、そして通い慣れた道路
が歴史と感慨を残して忘却の彼方へ消えようとしている。
 私達は五年間に及ぶ建設の過程をふりかえって、古いものが新しく生まれかわる為の犠牲と悲哀をあらためて思いおこして、目頭があつくなるのを禁じえないのである。そして私は心からなる祈りをこめて、凡てに対して只「有難う御座いました」「御苦労さまでした」と感謝の言葉を捧げたいのである。】

 このように、永倉三郎は、一ツ瀬ダムに尽力された凡ての方々に「有難う御座いました」「御苦労さまでした」と言い切っている。この言葉こそ「補償の精神」を貫いている。


おわりに

 私は平成18年8月3日、一ツ瀬ダムを訪れた。西都市から村所行きのバスに乗り、都萬神社、穂北を過ぎ、一ツ瀬川左岸沿いに国道 219号をのぼっていくと杉安アーチダムに出合う。7月下旬の豪雨のせいであろうか杉安ダムからは濁流が放流されていた。さらに渓谷沿いのバス停を過ぎ、ひょうたん渕郵便局の岩下トンネルを抜けると、広大な満水のアーチダム一ツ瀬ダムが現れた。かつて、九州電力(株)の社運を賭け、用地担当者が夜討ち朝駈けで行った水没者たちとの交渉の面影はなく、ダムは、山奥の静けさのなかに堂々と佇んでいた。

  春光に ダムの巨体を 仰ぎけり (田代 信雄)

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(2007年4月作成)
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 (古賀 邦雄)
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