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文献にみる補償の精神【5】
「怒ったらいかんぜ」(満濃池嵩上げ工事)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 いま、コメは世界の人口63億人の半数を越える33億人を養っている。国連は今年を「国際コメ年」と定め、コメの増産によって開発途上国の約8億人の飢餓人口を減らそうと、キャンペ−ンを行っている。

 我が国の米作りは縄文時代晩期から始まったといわれる。最初は、恐らく小川から水を引き、弥生時代、古墳時代にかけて、窪地に溜池を造り、その人工的な灌漑施設によって水を導いてきた。日本書紀には崇神天皇の62年に河内国に狭山池、依綱池、大和国に苅坂池、反折池を築造した記録があり、これらの溜池が日本最古の溜池の築造とされる。まさしく、稲作の歴史は水を求め、水との闘いであった。現在でも続いている。

 溜池の種類は地形によって分けられ、平野部の溜池を皿池、小さな谷や川を堰止める山間部の溜池を谷池と呼ばれる。また、受益面積によっては親池、子池、孫池が連結している場合もある。
 昭和27年〜29年度の全国の溜池数は 289,713ケ所( 100%)、昭和53年度 246,158ケ所(85%)、平成元年度 213,818ケ所(73.8%)と減少を続けている。

 平成元年度における都道府県別溜池数は、兵庫県53,100ケ所が一番多く、続いて広島県20,998ケ所、香川県16,158ケ所と、いずれの地区も四季通じて温暖少雨の瀬戸内式気候に位置する。貯水量における日本一の溜池は香川県の満濃池( 1,540万m3)で、次は愛知県の入鹿池( 1,520万m3)であったが、平成3年再築となった入鹿池は 1,852万m3に増量され、その座を譲った。

 以上、溜池については、内田和子著『日本のため池−防災と環境保全−』(海青社・平成15年)を主に参考とした。

 香川県仲多度郡満濃町神野に位置する満濃池は、金倉川、財田川、土器川より貯水する。創築は大宝年間に逆上ると伝えられているが、その後決壊を繰り返し、幾度かの再築、修築を経て現在の満濃池ができあがった。その諸元は堤高32.0m、堤長 155.8m、貯水量 1,540万m3、灌漑面積 4,600ha、型式堰堤拱型である。このような溜池の形態を保持できたのは、先駆者たちの弛まぬ尽力があったからである。


『満濃池史』
 満濃池土地改良区50周年記念として出版された、ワ−ク・アイ編『満濃池史』(満濃池土地改良区・平成13年)により、その歴史を追ってみる。

大宝年間 ( 701〜704 )讃岐の国守道守朝臣が創築
弘仁 9年( 818)   洪水により堤防が決壊
   12年( 821)   朝廷の築池使、路眞人浜継が復旧できず築池
            別当として空海(弘法大師)の派遣を要請し、
            この年のわずか2ケ月で再築
仁寿 元年( 851)   洪水により堤防が決壊
  2〜3 年( 852〜853 )讃岐国司、弘宗王が復旧
元暦 元年(1184)   5月1日、洪水により堤防が決壊
            この後、鎌倉、戦国時代の争乱期を含めた約
             450年間は復旧されず、池の中は「池内村」
            となる
寛永 5年(1628)   西嶋八兵衛 再築開始
   8年(1631)   西嶋八兵衛 再築完了
嘉永
  2〜6 年(1849〜1853)樋管(ゆる)は木製のため、再築後も底樋の
            伏替が6回、竪樋又は櫓の仕替は12回に及ぶ。
            この時底樋を木製から石造りとする
安政 元年(1854)   7月9日、大地震により石造りの底樋がゆる
            み堤防が決壊。幕末の混乱期で、復旧が遅れ、
            榎井村の庄屋、長谷川喜平治は私財を投じて
            東奔西走、志半ばで死去
明治
  2〜3 年(1869〜1870)高松藩の松崎渋右衛門、倉敷県の参事島田泰
            雄らの支援のもと、榎井村の長谷川佐太郎、
            金蔵寺村の和泉虎太郎らの尽力により復旧。
            この時堤防西隅の大岩に石穴をうがち底樋と
            する。(貯水量 5,846千m3)
   12年(1879)   満濃池水利土功会の設立
   25年(1892)   満濃池普通水利組合の設立
   31年(1898)   竪樋、櫓の改修
 38〜39年(1905〜1906)第1次嵩上げ(0.87m)及び余水吐改修
           (貯水量 6,678千・)
大正 3年(1914)   配水塔新設
昭和 2年(1927)   第2次嵩上げ工事( 1.5m)からの承水隧道
            工事着手
   5年(1930)   第2次嵩上げ工事・承水隧道工事竣工(貯水
            量 780万m3)
   9年(1934)   香川県大干ばつ
   14年(1939)   香川県大干ばつ
            香川県知事滝宮天満宮で雨乞祈祷
   16年(1941)   第3次嵩上げ工事( 6.0m)着工
   19年(1944)   戦争のため第3次嵩上げ工事中止
   21年(1946)   第3次嵩上げ工事再開
   23年(1948)   塩野池貯水池計画を廃止
            天川導水路計画へ変更
   25年(1950)   昭和天皇嵩上げ工事現場視察
   26年(1951)   満濃池土地改良区の設立
   28年(1953)   県営金倉川沿岸用水改良工事着手
   30年(1955)   香川県干ばつ
            新取水塔完成
   36年(1961)   第3次嵩上げ工事竣工(貯水量 1,540万m3)
   44年(1969)   県営金倉川沿岸用水改良事業竣工
   49年(1974)   香川用水付帯県営事業による改修事業に着手
平成 6年(1994)   香川県干ばつ
   13年(2001)   満濃池土地改良区50周年記念
            満濃池創築 1,300年記念

 この満濃池の歴史を振りかえると、貯水量を増加させるために、池にかかる土地の確保に要する補償もまた繰り返し行われてきた。前掲書の『満濃池史』によれば、昭和16年、6mの第3次嵩上げ工事が着手されたものの、太平洋戦争をはさんで、20年の歳月を要し、昭和36年に竣工、現在の貯水量 1,540万m3となった、とある。この嵩上げ工事による用地取得面積は宅地 1.3ha、田畑11.5ha、山林22.3ha、さらに五毛地区の集落28戸が水没している。これらの補償交渉は昭和30年2月から開始され、もっぱら夜間に個人の家で行っている。説明というよりは説得を要することから香川県事務所の庶務主任と満濃池土地改良区の主任技師2名が専属に交渉に当たった。補償物件の確認を求め、単価を説明、補償額を示し、契約の調印を求め、あくまでも最高額であることを説得し、協力を願った。早期の調印者には今後他の住民との調印で調印額以上の単価が出た場合は、その線まで増額する旨を約束したため、調印に応じる住民が順次現れた。補償対象のうち、国の補助とならない協力感謝料、移転経費は土地改良区において負担している。

 これらの補償交渉にあたって、小比賀勝美補償担当者は、

『交渉の知識も経験の何一つなかった青二才の私が、平穏にそのすべてを終えることができた影には、交渉以来私と一心同体になって励ましとご指導をいただいた、今は亡き、満濃池土地改良区の徳田忠夫主任技師の公私にわたってのご協力があったればこそと、感謝の気持ちいっぱいである。(中略)視野の広い先見の明をもった人で、信念の人でもあった。奉仕の精神に富み、水没交渉の過程では私によく「怒ったらいかんぜ」と戒めもしてくれた気概の人であった。また、水没交渉は、殆どが夜間で、夜ともなれば2人で泥棒のように夜の商売、自転車で五毛集落へ出向いたが、徳田さんは忍耐強い、飾り気のない人であり、私にはおおいに徳としなければならないものを兼ねそえた信頼の厚い人であったし、水没者や用地提供者からも信頼され、さらに土地改良区においても信頼を得ていたから、若い私にとっては、強い味方であったとつくづく思う。』

と、心から先輩に感謝している。当然、理不尽なことを関係者から言われれば怒りたくなるが、先輩は、「その場ですぐに怒ったらいかんぜ」と諭す。           
 同様に、被補償者との信頼関係について、新垣健栄北部ダム事務所副所長は、

『用地交渉は相手のある仕事ですので、相手の立場に立って考えることが、信頼関係を構築する一歩であることを理解してもらいたいですね。その為には、普段から様々な場面での対人交渉の経験を積むことが必要です。交渉術という学問ではなく、多くの経験を通してしか会得できないものだからです。』(「用地ジャ−ナル」平成16年8月号)

と、語っている。

 今日、建築や土木技術の発展は著しい。しかしながら、あらゆる技術が進展すれど、インフラ施設に要する土地に係わる補償交渉そのものの困難性は続く。仕事とはいえ、用地担当者の心理的な労苦はつきない。だが、この苦労を重ねることが被補償者との信頼関係を築く「補償の精神」のキ−ポイントであることには変わりはない。若い用地担当者が先輩から教わることは多い。そして数年後には、その担当者がまた後輩を教えることになる。この繋がりを大事にしなければならない。私は先輩に「初めて人様の家にお邪魔したときは、先ず佛様にお参りなさい。ご先祖様にご挨拶を」と、教わった。どれほどの信頼を得たかどうかはわからないが、先輩の教えは忘れずに実行してきた。

 おわりに、満濃池の所有権の変遷を辿ってみる。藩政期においては天領と称され、徳川幕府の直轄地で、明治維新後は官有地となった。大正11年3月満濃池普通水利組合管理者大里常弘は「官有溜池無償譲與願」を香川県知事佐竹義文に申請し、「耕地整理法」に基づき無償譲与を受け、今日に至っている。

 毎年6月13日の「満濃池の初ゆる抜き」には、堰堤とその周辺は沢山の見物人、それに屋台店で賑わい、讃岐の農村風物詩として定着し、日本における水の文化を形成している。

    花野より 満濃池の 高堤
             (橋本美代子)

[関連ダム]  満濃池(再)
(2006年2月作成)
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 (古賀 邦雄)
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